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自分・余白

最近常々、自分を知ると言う言葉について考える。

自分を知るとはいったいなにを言うのか?

さらに自分らしい美しさとはなにを言うのか?

若い頃から一般的に取り上げられる美形や美人にさほど興味はなかった。

おそらく個人としては、光より影が好きだったから、光を感じるものよりも影を感じるものに惹かれた。

ある頃から、光と影を通して体全体のフォルムの均衡を見るようになった。

人の体を見る上で、人の体を知る上で、怪我や疾病や痛みを抱えている人は、どこか不均衡さが存在している感じがしたから。

右脳は体の左側を制御し、左脳は体の右側を制御する。

つまりはどちらかに体の使い方が極端に偏ると、それは反対側の脳を過度に使用し、それはフォルムとして現れる。

又は一方の脳をより使うような思考をすると、それも体に現れてくる。

我々は多くの人が思うほど、固定化された生き物ではなく、非常に柔軟で揺らぎ多き生き物であることを感じる。

私に動的平衡を感じざるを得ない。

私は私のままで変わることはない、と思う人は多いと思うが、実は我々は思考のみならず体型や顔の形までも、いつだって変われるし、いつでも変わる性質を秘めている。



今朝、newspicksの記事を読んでいたら、書家である前田鎌利さんと、インフォグラファーである櫻田潤さんの対話が載っていた。

その中で前田さんが、書を書く上でアウトプットする時に大事にしているのは、余白をどう切り取るか、、、と言った話をされていた。

書道は墨で書かれた黒に焦点が行きがちだが、彼は白い部分、余白を考える、と。


それは人の体を見るときも同じで、その人の体の周りも含めて、どこにどんな余白があり、その余白は墨で書かれた物体(肉体/形あるもの)とどう言ったバランスのもと成り立っているのかを見る。

体の左右
体の上下
体の前後
脛と大腿骨
上腕と前腕
肩と股関節
膝の裏
耳の後ろ
アキレス腱の脇

さまざまな角度から、さまざまな組み合わせで、その体そして体の周りの余白を見ていく。

そこに人間の体の妙があり、その均衡そして不均衡こそが、その人だけのユニークな美しさを創り出すと感じている。

書道で紙を墨で埋め尽くすことが美徳ではないのと同じで、我々も自分自身や人生という空間を隙間なく真っ黒に埋めるのではなく、時間も心も体も自分なりの美しいと感じる余白を大事に描いていったらいいのではないだろうか、、、と色々感じていたことと前田さんの言葉がシンクロして、なんだか一人納得の朝。

さー、京都に帰って今日もセッション楽しみましょう!

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