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ある晴れた日に… 1

いつも通り、スマートホンのアラーム音で目が覚めた。
いつも通り、洗面所で顔を洗い少し髪を整えると、いつも通り電気髭剃りを手に持ち、まずはコーヒーを淹れようとダイニングルームに移動する。

ドアを開けると、既に香ばしい淹れたてのコーヒーの香りが部屋から流れ出た。
いつもなら私よりも1時間ほど後に起きてくるはずの妻がキッチンの前に立って朝食の準備を始めている様子だ。
何があったのだろう…すこぶる機嫌が良さそうだ…珍しく鼻歌まじりだ…
私が部屋に入ってきたことに気がつき、妻はごく自然に笑顔を投げかける。
「おはよー!」

「あ、お、おはよう…今朝は随分早いんだね」
「うふふ…そお?なんだかすっきり目が覚めちゃったのよねえ。ほら、今日はすごくお天気もいいし、気持ちいいわあ…ふふ…」
確かに…妻が指差したダイニング横の広い窓の外には晴天の空が広がっている。
「ねえ、ハムエッグとトーストでいい?」
「え?あ、ああ…ねえ、何か嬉しいことでもあったの?」
「あたし?ふふ…ううん、べつに、何もないわよ。なんだかね、今日は気分がいいのよねえ…」

私と妻が寝室を分けてからもう3年以上が経つ。夫婦仲が上手くいかなくなったのは5、6年も前のことだっただろうか…

特に夫婦の間に大きな出来事があったわけではない。価値観が違う…人生に求めるものが違う…ひとり娘の佳奈への教育方針が違う…世の中には良くある些細な行き違いの積み重ねでしかないのだろうが、2人の気持ちは修復出来ないまま離れてしまっていた。
今では2人には必要最低限の会話しかない。娘と笑顔で話していることがあっても、私が近づくと会話は止まってしまう。意見を求められることはまず皆無で、家のことはほぼ事後報告だ。

私の前で、これほど機嫌の良さそうな妻の笑顔を見るのは何年振りだろう。私の為に朝食を用意してくれる彼女の姿を見るのも久し振りのことだった。

「はい、どうぞ..… 卵は固めよね。ふふ…」
「あ、ああ…ありがとう。頂きます…」
「今日もおうちでお仕事?」
「ああ、いや、朝のうちは少し…次の企画メモまとめて、それから打ち合わせがあるから、午前中には出掛ける予定だけど…君も仕事だろ?」
「あたし?うーん…どうしようかなあ…」

妻は女医になった高校時代からの親友のクリニックの医療事務を手伝っている。

「え?どうしようかなあ…って、勝手に休んだりしちゃまずいんじゃないの?」
「いいじゃない。だって、そんな気分なんだもん…うふふふ」

なんだ?…一体何があったのだ?…
妻はそんな人間ではない。
几帳面で何よりも堅実を大切にする人だ。
私はクリエーター。言ってみれば『その日暮らし』と『行き当たりばったり』の代名詞のような職業。そんな私と、よく一緒になったとつくづく思う。
医療事務の仕事も、私の収入が安定しないことを不安がって始めた勤めである。
だから、彼女が気分で仕事を休むなんて…ある筈がない…何かが、変だ…

朝食を摂ると、いつもとは明らかに違う妻の不思議な様子に首を傾げながらも、私は自分の部屋で次の仕事の企画シートの仕上げに取りかかった。


2時間ほどで書類を仕上げ、取引先の広告代理店担当者に添付ファイルで送ると、外出の身支度をしに部屋を出る…ダイニングから妻と娘の楽しそうな笑い声が聞こえる。
娘は高校生…もうとっくに学校に行っている時間の筈だ。

ダイニングを覗いてみると、まだ部屋着姿のままの娘が妻と2人で大笑いしている。
こんな時、私が2人に近づくと、大抵の場合2人は会話を止めてしまう。妻は用事を思い出したような素振りでキッチンに向かい、娘は黙って自分の部屋に戻ってしまうのだ。

娘が入り口に立つ私の姿に気付いて珍しく笑顔のまま声を掛けてきた。
「あ、パパ、ママったら、可笑しいのよ〜学校なんて行くのやめれば、だって…あはは…」
「何言ってんのよ、佳奈。あんたが授業なんてつまんないっていうからよ〜ふふふ…あんな高い授業料払って、つまんないんだったら、無理して行くことないわよね〜。行くな行くな、やめちゃえやめちゃえ、あははははは…」
「ママったら、あんなこと言ってる〜あはは…ねえ、パパ、ママ可笑しいでしょう?いいよね〜、今日は学校行かなくて。駄目って言っても行かないけどお、あははは…」

妻の豹変の理由ももよく分からないが、いつもなら私が娘に何かを話しかけても、返ってくる返事は「別に…」「分かんない…」「うざ…」「さあ…」「はあ?…」と、ろくに会話も成立しない。
それが今日に限って、佳奈は満面の笑顔で私に話しかけているのだ。あまりの娘の変貌に目眩めまいすら感じる。

「いやいや、ちょ、ちょっと待てよ。もうとっくに学校始まっちゃってる時間だろ。それで佳奈は、学校行かないのか?本当にいいのか?行かなくて…俺は…それでいいんなら、構わないけど…」
「あはははははははは…」「パパ、うける〜〜〜ハハハハハ…」
2人は、豆鉄砲を食らった鳩のようにキョトンとする私の表情を指差して大笑いしている。

「いいのいいの。もう何だかバカバカしくなっちゃったから今日はもう行かな〜い!あはは…」
「明日も明後日も、佳奈はもう学校行きませ〜〜ん。ほほほほほ…」

「一体どうなっってんだ…2人とも…」
私は元来自由主義者。基本的に人は自分が思う通り生きた方がいいと思っている。だから、人目や社会性にこだわる妻や娘ともなかなか意見が合わない。
仕事も勉強も嫌なら辞めればいいとは思っているが、それは決して軽はずみな気持ちで言っている訳ではない。

いつもの様に突っけんどんで、取り付く島のない妻と娘にもうんざりするが、突然こうも極端に陽気で大らかに変貌されても、どう反応していいのか分からない。

「パパも、こんないいお天気なんだからさ〜、お仕事なんてサボっちゃいなよ〜。今日は3人で遊ぼうよお。ねっねっ」
「そおよそおよ。朝から仕事ばっかりしちゃってさ。バカみたいよね〜うふふ…」
「あ、ママひっど〜い。自分の旦那さんなのにい、バカだってえ〜あははははははは…」
「だって、そうじゃな〜い。あはははははは…」

とても2人の会話に加わる気にはなれない…というか、どう加わっていいのか分からない…
さっさと身支度を終えて、予定通り新企画の打ち合わせの為、取引先の代理店へ向かうことにした。


マンションを出て、駅までの道をいつもの様に歩く…

目黒は都心部に近い住宅地なので、駅に向かう大通りには普段から比較的人通りは多いが、今日は何かがあるのだろうか。通りには老若男女溢れるほどの人が歩いている。もうとっくに学校が始まっている時間なのにも関わらず、子供達や中高生と思しきティーンエイジャーたちの姿もある。
あまりにも歩行者が多いので、歩道から車道にはみ出してしまっている人たちも少なくない。
さすがに危ないのではないかと心配したが、何故か大通りを通行する車両は極端に少なく、時折数台の乗用車が車線も気にせずに車道に溢れ出た人々をヒョイヒョイとかわしながら軽快に走り抜けてゆくだけだ。

いつもの光景と違うのは人の数だけではない。ここは幹線道路沿いの住宅地で、繁華街ではないし、今日は平日だ。普段なら駅や駅付近の商店街に向かって個々黙々と歩いている。
ところが今日は通りが会話や愉しげな笑い声で溢れている。見たところ、人々は家族や友人同士グループで歩いているわけではない。それぞれ1人で個々バラバラに歩いている。

「やあやあやあやあ、こんにちわ、こんちわ〜」
「いい天気だね〜えへえへへへ」
「気持ちいいね〜あはは」
「サイコーだよね〜ふふふ」
「イェーイ!ハハハハハ」

一様に皆笑顔で、やたら挨拶を交わしあっている。ハイタッチを交わしている人もいる。軽くスッテプを踏む人、子供達は愉しげにスキップしている。

人々は一定方向には歩いていない、個々バラバラ。それぞれ方向もスピードも違う。立ち止まって呑気に青空を見上げている人もいれば、ガードレールに腰掛けている人もいる。時折声も掛けられて、どうにもこうにも歩きづらい。
おかげでいつもなら5分も掛からずに到着する駅には10分以上掛かってしまった。

目黒駅周囲も変わらず人が多かったが、駅構内は何故か人はまばらだ…
自動改札口でICカードをかざしたが、改札は何の反応もなく開きっぱなし。そのまま通過してもいいのだろうか…首を傾げて戸惑っていると、目の前で制服姿の駅員が満面の笑顔で、まるでミュージカル俳優の様に『どうぞどうぞ!』と全身オーバーな仕草ででジェスチャーを送る。

ホームに降りると、電車を待っている人はポツポツと疎らにしかいない…
何故かいつも確認するホームの電光掲示板は消えていて、何分後に次の電車が到着するのか分からなかった。
都心部の主要環状線なので、いつもならせいぜい待っても4、5分なのだが、いくら待っても電車は一向に来ない。15分ほども待っただろうか、ようやく電車は到着したものの、大きくホームを行き過ぎてしまい、ノロノロとバックで戻ってきて、いい加減な停車位置で扉を開けた。

乗車すると、乗客もごく疎らだ...
直ぐに電車は次の駅に向けて出発したが、車内アナウンスも何もない...

座席は沢山空いているのに、両手でつり革からぶら下がり、足をバタバタさせているOL風の若い女性がいた。
50がらみの中年男性が靴を脱いで後ろ向きにシートに正座し、窓にしがみついて流れる景色を夢中になって眺め、時折「ひゅーひゅー」歓声をあげていた。
その他数人の乗客も、薄笑いを浮かべて手を叩いていたり、スタンションポールを掴んでぐるぐる回っていたり、ドア付近でクネクネと腰を動かして独自のダンスを繰り広げている人もいた。

そういえば…いつもの様にスマホをチェックしている乗客は1人もいなかった。

私は、なるべく周囲を見ない様に大人しく席に座っていたが、突如目の前に若い男性がしゃがみこみ、満面の笑顔で私の顔を覗き込んで、立てた親指を突き出して「オーケー?」と言う。
仕方ないので、私もそっと親指を立て「オーケー…」と返す。
男は股を広げ腰を落とし、両手で私を指差すと「イエイっ!」と一声掛けて、機嫌良さそうに隣の車両へと移っていった。

目指す渋谷までたった二駅の間だったが、そんな状況の中、恐ろしく居心地が悪かった…
絶対に世の中で何かが起こっているのだと、スマホを取り出して、ネットニュースを確認してみたが、ニュース記事は全て昨日までのものばかりだった。

『ある晴れた日に…2』につづく…


この短編小説ではイラストレーターのTAIZO デラ・スミス氏に表紙イラストを提供して頂きました。
TAIZO氏のProfile 作品紹介は…
https://i.fileweb.jp/taizodelasmith/






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