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東京の お・せ・ち

今年も三が日が終わった...

表紙写真のように、子供の頃はお正月が家族最大のイヴェントだったように覚えている。
世の中の雰囲気や飾り付けがガラリと変わり、自分や家族も含め町中の人が普段より少し綺麗な格好をしている。
通りに出ると、晴れ着姿の人もいる。

入れ替わり立ち代わり訪れる大人たちからお年玉を貰えて、店が開く二日になれば、欲しかったおもちゃや漫画を手に入れることができる。
普段忙しい父親がずっと家にいて、次々と訪れる来客たちと機嫌良さそうに飲み続けている。

そして、それら思い出の中心にあったのがお重に入ったおせち料理...

あの頃の楽しい記憶への想いだろうか... 正月になるとあのお節が食べたくなる。
家内も母が生前作っていたお節を覚えてくれていて、我が家でも多少のアレンジを加えながらも毎年『お節』を用意してくれる。

元旦からの三が日、お屠蘇とそ、お雑煮、お節はセレモニーとなっている。

これが今年の我が家のお節...

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我が家におよそ100年前から引き継がれる金蒔絵のお屠蘇とお節用の重箱セットを年に一度だけ準備する。

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私自身は東京生まれの東京育ちだから、我が家のお節やお雑煮が東京の一般的なものだと思っていたが、他の家にも呼ばれるようになると、品揃えが微妙に異なることに気がつく...

うちでは、お節は紅白蒲鉾かまぼこ鱧板はもいた、栗きんとんに黒豆と丁呂木ちょろぎ、伊達巻に錦玉子、くわい、人参、鶏肉、蓮根、里芋、筍、蒟蒻こんにゃく牛蒡ごぼう、椎茸、それぞれの焚き物、にしんの昆布巻き、人参と大根のなます、ごまめに小海老の田づくり...
お雑煮は、吸い物に焼き餅、鶏肉と蒲鉾、小松菜と三つ葉、柚子の皮を添える。

三が日の三日目だけが味噌仕立てで、餅も煮餅となる。

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こんなところが定番だった。

ところが、私の子供の頃、他の家では見かけないものがあった。
鱧板と錦玉子、くわい、昆布で巻いた身欠き鰊、小海老の田作り...
これは一般的な町の商店では売られてもいなかった。

調べてみると、鱧は関西のもの。くわいも関西以南。昆布巻きは昆布のみか、牛蒡か人参を巻くのが関東風。錦玉子は元来京都のもの。田作りは多くは小鰯、山間部では小鮒、海岸の極く一部では小海老を使うところもあるらしいが、元来これは『田作り』とは呼ばない。

田作りの由来は田んぼの土に小魚を埋め豊作を祈願する風習から来ているのだそうだ。

考えてみれば、父の実家は本来神戸。父がたの祖母は京都の育ち。母の父親は山口出身で、母がたの祖母の家系だけが江戸時代からの東京の家系である。

まあ、本来東京は外からいろんな人たちが集まって出来た街なのだから、どの家庭のお節にもそれなりに外の味が入り込んでいるのだろう。

それで、本来の東京のお節とはどんなものだったのか調べてみた。

おせち料理が庶民に広まったのは江戸時代の後期のこと。
基本正月の料理はもち。つまり雑煮である。
庶民には年に2度しかない貴重な休暇だった。
商店は閉まり、従業員は田舎に帰省する。
家の中の家事も休み、もちろん女中や子守もいなくなる。
数日間は餅にだし汁や菜っ葉を足しただけのインスタント食事。
お参りと挨拶以外は徹底的に休む、というのが基本だ。

江戸後期になると、庶民の生活は比較的安定し、上流階級の人々を模して、暮れに数日保存できるちょっと贅沢なおかずがお重に用意され始めた。
それが『お節』だ。

天保7年・1836年の日用惣菜俎にちようそうざいまないたに当時のお節の内容が記されている。
お重は一般的に四段。
一段目には、数の子。
二段目には、たたき牛蒡の胡麻和え。
三段目は、鮒の昆布巻き。
四段目は、黒煮豆かあるいはごまめ。
とある。

これだけでも、相当に贅沢だったらしい。
砂糖やみりんがふんだんに使われた料理だ。
蒲鉾も玉子もない。
鶏肉や生魚は使わず、日持ちするものばかりだ。
今となってみれば、なんとも質素なお節だが、これが東京のお節の本来の姿なのだ。


今年は元旦に母がたの親戚の家の正月の集まりに呼ばれた。
江戸時代から代々東京は飯倉(六本木の近く)で暮らす生粋の江戸っ子たちだ。
その席でのお節がこれ...

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今やいつでも何でも手に入るこの時代...
東京のお節の姿はいまだ健在のようだが...子供達は見向きもしない...





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