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私がわたしである理由23

[ 前回の話… ]


第十二章 大森中将の憂い(3)


昭和20年3月10日未明の東京大空襲は、その規模と被害の甚大さから、戦況が連合軍側の圧倒的な優勢であることを明確に示していた。この日を境に、帝都に暮らす人々の先行きへの心情は大きな不安へと変わってゆく。
本土空爆の目標は軍事施設の破壊から、民間人の生活を直接狙った市街の住宅密集地への大規模な焼夷弾爆撃に転じた。
人々の不安をさらに煽る様に、3月12日未明には名古屋市街地におよそ200機、翌13日深夜には大阪の難波・心斎橋を中心に300機ものB29爆撃機が飛来し、長時間、広範囲の焼夷弾による波状爆撃で住宅密集地を焼き尽くした。
大本営は、情報統制に躍起となり、詳細を国民に知らせることなく、迎撃の成果のみを過剰に報道し続けたが、被害を目の当たりにした人々の不信感を煽るばかりだった。

海軍省軍務局二課の特務傍受班は、当然のことながらこの三都市への大空襲を事前に、しかも的確に予見し報告していた。


「い、いやあ、う、嘘みたいに、が、外泊きょ、許可が下りましたよ」
14日早朝の夜勤明け、市電の中で久々の外出に、晴れ晴れした笑顔を浮かべたのは技術兵の伊東だ。
「やっぱり、日枝中佐の対応は素早いですねえ。伊東さんだってあっという間に2階級特進で上等技術兵ですもんねえ。お陰で作業も随分やり易くなりましたよね」
潤治もここ数日の環境の好転に頬を緩める。
「い、い、いいんですかね?じ、じ、自分みたいな者が、こ、こんな、た、待遇をう、受けて…」
「何言ってんですか。伊東さんにはそれだけの実力があるってことですよ。課内の技術兵の方達も納得されていたじゃないですか。それに、それだけ我々のやっていることは重要だってことですよ」
「そ、そうですね…で、き、今日は、ど、どんな風に、は、は、話を、す、進めるんでしょうか?」
「ま、その話は後で…先ずは野瀬さんのところで少し休ませて貰いましょう」
潤治は少し車内の他の乗客に目を配る仕草を見せた。
その様子を伊東も直ぐに察して、口を噤む。
「あ、そ、そうですね。そうでした…」
2人から少し離れた席に座ったスーツ姿の男2人が、その様子を見て、慌てて潤治たちから目を背けた。


「中佐殿、本当に午後から自分は出掛けてしまって、大丈夫なんでしょうか?」
日枝中佐の執務デスク前で恭しく訪ねたのは直属の事務官小野少尉だ。
「ああ、構へんで。儂は午後は軍令部の大森中将殿に呼ばれとるよってな。ここは大した用事もないやろ。留守は下士官に任せておけばええ。それより、野瀬君の方をあんじょう頼むで。今や彼ら傍受班の情報は我々の後押しとなってくれとるんや。力になってくれ給え」
「はっ…でも、自分は何を手伝えばいいのでしょうか?」
「野瀬君からの話では、米国育ちの君の語学力を役立てて貰いたいっちゅうことやったから、言葉の微妙な解釈の問題やろ。まあ、宜しく頼むわ」
「はっ、畏まりました…」


甲一郎が小野中尉を連れて自宅に帰ったのは、午後の2時頃だった。
仮眠と簡単な昼食を終えた潤治と伊東が洋間で2人を出迎えた。
「お疲れ様です。コーヒーを淹れておきました。こちらはいつでもお話できる様に準備出来ています」
潤治がそう声を掛けると、甲一郎は小野中尉にテーブルの椅子を勧める。
「まあ、先ずはゆっくりしてくれ。伊東君もそんなとこでしゃっちょこばってねえで、一緒に座ってくんな。な、小野君、構わねえだろ?」
「あ、はい。伊東技兵、いや、伊東さん、ここは野瀬さんの家だ。少しの間軍隊のことは忘れましょうよ。僕だって、徴兵組なんですから、軍隊が好きって訳じゃないんですよ」小野は小さく微笑んだ。
「は、はい…」
4人は洋間の小さなテーブルを囲んで座った。

「潤さんたちは少しゃ休んだのかい?」
「ええ、仮眠はとりました。小野少尉、わざわざお越し頂いてすいません」
「いえいえ、中佐殿からも協力する様に言われておりますんで。で…一体私は何をお手伝いすればいいんでしょうか?」
「ま、早い話が小野君の語学力をお借りしたいんだけどね。その前に少しこっちの事情を聞いて貰いてえんだ」
「そちらの事情…ですか?どういうことですか?」
「小野君は、これまでの俺たちの傍受報告を聞いて、どう思ったかい?」
「いやあ、どうもこうも、下町の時も名古屋も、昨夜の大阪も、見事に予見されましたね。川出さんは出来る方だと思っていましたが、正直言ってびっくりしました。軍の幹部たちも皆驚いていますよ」
「で…正直なところ、小野君はこの戦況についてはどう考えているんだい?俺や中佐殿と同じ考えだと思って構わねえのかい?」
「正直なところですか…はい…前にも野瀬さんには少し話しましたけど、私は子供の頃アメリカに暮らしていたこともありますし、父親を通して欧米の状況もよく聞いていましたから、当初からこの戦争は無謀だと思っていました。そういう意味では、日本はよく戦ったと思っています。ただ、中佐殿が仰る様に、短期終結の機会を逃した時点で、これはまずいと思っていましたが、思った通り、戦況は…まあ、言わずもがなです」
「これから、この戦争は…いや、日本はどうなっていくと思うかい?」
「出来れば、早々に終結して、何とか降伏条件として国家の存続を望めないものかと…私自身は思っていますが…それは何とも…」
「なるほど。実はよ、ここにいる潤さんはよ、先行きのことを全て知っているんだ」
「えっ…全て知っているって…どういうことでしょう?…」
小野中尉は話の辻褄を見失って戸惑いの色を浮かべた。
「おい、潤さん。話してあげてくれ」

「あ、はい。あの…この戦争は今年の夏には終結します。日本は連合国に対して無条件降伏を受諾することになるんです。終戦は8月15日ですが、日本ではそれまでの間に50万人もの民間人が爆撃によって命を落とすことになります」
潤治が淡々と戦況の先行きを伝えると、流石に小野少尉は驚きの表情を浮かべた。

「な、なぜ、そんな…そんなことが分かるんですか?川出さんは一体…何者なんですか?」
「小野君、にわかにゃ信じられねえだろうが、実はこの潤さんはよ、今からざっと70年以上も未来の東京からやってきた人物なんだぜ。俺も最初はとてもじゃねえが信じられる話じゃなかったがよ、信じざるを得ない証拠があるんだよ」
「じ、じ、自分も、は、初めは、し、し、信じられませんでした。で、でも、ほ、ほ、本当のことなんです」
「証拠…ですか?…それは、一体…」
「おい、潤さん」
「はい、小野さん、これをご覧になって下さい」
潤治は用意しておいたノートパソコンを足元のカバンの中から取り出し、テーブルの上で電源を入れた…

「な、何ですか?それは…」
小野中尉はモニターに映し出されたデスクトップ画面を食い入る様に見つめた。
「これは僕の時代のコンピュータという電子機器で、記録、計算、通信、画像、音声、といった色々な機能を持つ、私にとっては仕事用の道具です。僕は元の世界では文筆業でした。この中には様々な文章を紡ぐ為の参考資料が記録されているんです……」
潤治はパソコン画面上に整理されたフォルダの中から、太平洋戦争末期から復興までの日本の社会の変遷の概略を様々な写真画像を交えながら追っていく…
小野中尉はただただ驚愕の表情で目を見開いたまま、一切言葉を発することなく、ひらすらモニターを追い続けていた。

「どうだい?つまりこの潤さんはよ、事を予測していたんじゃねえ。これから起きる事実を全て知ってるってえ事なんだ」
「……こんな…こんなことが、本当にあるのか…」
「もちろん全てではありませんが、これから先も、いつどこでどの程度の爆撃があって、どの位の被害が出るのかは、この中に記録されているんです」
「じゃあ…この夏にはいよいよ戦争は終わるんですね。敗戦か…やはり私たち敗戦将校には処刑が待っているんでしょうか…」
「いえ、その後の戦争裁判でも、処刑を宣告されるのはごく一部の方たちです。小野さんの様な予備将校の方達は戦後の復興にも大きな役割を担うことになりますから」
「そうですか…でも、敗戦後も日本は天皇制を保持しながら民主国家の道を歩むことになるのか…これでようやく私にも少し未来が見える気がします」
どうやら、小野少尉はこの不可思議な話の内容を飲み込んでくれた様子だった。

「じゃあ、小野君も信じてくれるのかい?」
「これは…これを見たら…信じざるを得ないです…で、このことは中佐殿もご存知なんですか?」
「いや、日枝中佐にはまだ…ただ、今夜大森中将とはこの件についてお話しすることになりそうですので、追々中佐殿にも…」
「とにかく、俺たちはよ、歴史を変えられるかどうかは分からねえが、終戦までの間に命を奪われちまう多くの民間人を1人でも多く助けたいと、それだけが願いなんだ。どうだい小野君も、協力しちゃあくれねえかい?」
「分かりました。私に出来ることなら、何でも手伝わせて下さい」
「そうかい、そらあ助かるぜ。知っての通り、今軍部内は継続派と集結派の真っ二つに別れちまっている。ただ、歴史はどうあろうと、俺は一刻も早く、こんな無駄な戦争を終わらせて、安心出来る世の中にしてえんだ。その為には俺たちの傍受報告が終結の後押しになると思ってる。こっから先は危険がついて回るが、承知してくれるかい?」
「はい、承知しました」
「よし、潤さん、伊東くん、今後どうやって傍受報告をでっち上げていくか、早速段取りを話し合ってくれるかい?」
「分かりました…」


その日の夕刻、潤治は百反の喫茶店『スワン』で誠司、正雄と待ち合わせた。
店内には明らかに常連とは思えないスーツ姿の男性客が2人いた。
店長の康夫も正雄も、この2人の見慣れない男性客に注意する様、潤治と誠司に目配せを送り続けていた。
潤治と誠司は、あまり多くの会話を交わさぬうちに店を出て、恵比寿の大森邸を目指した…

2人が店を出ると、少し間を空けて2人の見慣れない男性客も相次いで店を出て行った。
官憲筋の私服の尾行であることは明らかだった。


つづく…



この小説では、本年7月に急逝されたイラストレーターのTAIZO デラ・スミス氏に表紙イラストを提供して頂いております。
本編掲載中は氏のイラストを使わせて頂くことと致します。





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