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73年前の母と祖母の今日

1945年8月6日(月)8:15 広島市東区
母は小学1年生、6歳の時に爆心地から約2.3kmの自宅近くで被爆しました。

下記の文章は、9年前の夏、それまであまりちゃんと聞いたことがなかった、母が被爆した時のことを改めて聞いて書いたものです。
おかげさまで母はまだ元気です。
保育園だった息子も、今は中学3年生です。

73年前の、広島の、ある女の子の話。
小さな記録、母の記憶の一部です。

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「祖母と母からもらったもの 」

 広島に生まれた私が小学生だったころ、夏になると毎年、「原爆」を知る「平和学習」があった。
 数十年前のあの日、八月六日八時十五分、広島市上空に一発の原子爆弾が炸裂し、一瞬にして多くの人の命が絶たれた。
 それがどんなに惨い状況だったか、原爆資料館に見学に行ったり、体育館で映画を見たり、被爆者の方に話を聞いたり、調べたことを壁新聞にしたりした。原爆の歌も習って合唱した。

 「うちのお母さん、被爆者だよ」
 「うちのお父さんと、お母さんもだよ」
 友だちには、「被爆二世」がけっこういた。だけどお父さんとお母さんがどこでどんなふうに被爆し、どうして助かったか聞いていた子は少なかったように思う。

 モノクロ写真の、人のかたちをしていない死体や、ひどく焼けただれたからだや、めちゃくちゃに壊れた建物や、焼け野原や、目をつむってもはっきりと浮かんできて、あんな死体がいっぱいあった焼け土の上に今自分はいるんだと思うと、夏は夜ひとりで寝るのが怖かった。

 「たくさんの人々が、水を求めながら亡くなりました」
 「やけどをしていなかったり、後日市内に入った人たちも原爆症になり、亡くなっていきました」
 おばあちゃんもああやって生きたまま焼かれて、お母さんはちっちゃかったはずなのに、どうして死なずにすんだのか、わからない。でも怖くて聞けなかった。

 祖母の顔やからだには、ケロイドが残っていた。半袖Vネックの、服を着ていたところだけが綺麗だった。いつもきちんとお化粧していたけど
 「まひげがのうて描くのがやねこい(眉毛が無くて描くのが大変)」と笑っていた。
 夏に、テレビで原爆のことをやると思い出したように、猿猴橋で被爆したその時の話をしてくれた。

 「橋の欄干にどーんと吹っ飛ばされて叩き付けられたかぁ思うたら、ざざざざーっと反対に引きずられてから」

 時々は涙ぐみながら、身振り手振りで、恐ろしい顔でいろいろ話してくれたんだけど、怖くてよく覚えていない。

 わたしが中学生くらいの時だったか、祖母は脳血栓で倒れ、言葉が不自由になった。
 話したくてもうまくしゃべれないもどかしさで、だけど夏になると感情を振り乱して話そうとしていた。

 「瑠美子(母)にはかわいそうなことをした。あれはちいさいのに、ひとりで、かわいそうなことをした、瑠美子を頼んだで、ようしてやってくれよ」
 おばあちゃんはそればかり私に言うのだった。

 そんな祖母も、十三年前の春に亡くなった。

 やがて私も結婚し、五年前に子どもを生んだ。
 子どもを抱きながら、ああ、ちゃんと聞かなきゃいけないな、とぼんやり思った。
 母は、なぜ助かったのか。
 もし母が死んでいたら、私は生まれてこなかった。
 この子ももちろん、生まれてこなかった。
 この子に、生まれてきた理由を説明できない。

 だけど、今度は、聞くことで母を傷つけるのではないかと思うと怖くて聞けなかった。
 たった5さいか6さいの小さな女の子が地獄を見たのだ。
 トラウマになっていないはずがない。
 思い出させれば、母の奥底に眠っていた小さな女の子がまた苦しんで、えーんえーんと泣き出すかもしれない。
 このままそっと、眠らせておいてあげたほうがいいのではないか。

 そう迷って、幾度か夏が過ぎた。

 息子が4歳の夏、保育園で「ピカドン」という絵本をよんでもらったという。

 「あ、げんばくどーむ!げんばくがばくはつしたんよね。だれがやったん?」
 「ん?アメリカが落としたんだよ」「どうしてやったん?」「戦争してたからね」
 「だれが悪いん?」

 誰が悪いのだろうか。

 「りゅうのばあちゃんも、原爆にあったんだよ」
 「ばあちゃんもー!? パパちゃんとかーちゃんはどしたん」
 「パパちゃんとかーちゃんは生まれとらんよ。でもばあちゃんが死んどったらかーちゃんもりゅうも産まれとらんのんよ」
 「へー」

 まだ時間の感覚もよく分からない息子には理解しにくいことのようだが、やがて分かるようなったら、ちゃんと説明しないといけないだろう。

 母はまだまだ元気だ。でも母と過ごす夏はあと何度あるのか。
 母に、聞こう。

 実家に遊びにいき、なにげないふりをして
 「ねえ、あの、原爆の時の話、ちゃんと聞いたことなかったんよね。聞かせてくれる?」
 と聞いてみた。

 一瞬、ぎょっとした表情もすぐに隠し
 「ああ、そうよね、あんたも被爆二世じゃけぇ、知っとかんといけんようねぇ」
 と笑った。
 じゃ、今度の土曜、聞きにくるね、と帰った。

 そして土曜日、実家に行く前に寄るところがあった。
 祖母の墓だ。
 祖母に、お母さんにあの日のことを聞きます、と伝えたかった。

 息子を連れて丘の上の墓所に行くと、あれだけ晴れていた空がみるみる暗くなり、雷がごろごろ鳴りだした。
 「わーっ、かーちゃん、かみなりよ!あめがふるよ」
 息子がわくわくしながら怖がる。
 おばあちゃん、怒ってる?
 瑠美子に、思い出させるな、かわいそうなことをするなと。

 急いで墓に行き、掃除をして、線香を手向けて
 「おばあちゃん、お母さんにこれから話を聞きます、許してね」と手を合わせた。
 車に戻ると同時に、大粒の雨がバラバラと落ちはじめた。

 実家へ。
 やってきた孫に目を細めるじいとばあがいて、お茶でも飲みながらなんてことのない話をして、そして、話を切り出した。
 「取材」に徹するために、ノートとボールペンを持つ。
 「ええと、あのときお母さん、何歳だったんだっけ?」

 母は、そうじゃねぇ、六歳よ、広大附属東雲小学校の一年生じゃった、と答えた。

 それから、あの日の朝のことを話しはじめた。

 母・瑠美子は当時六歳、小学一年生だった。
 小学三年生以上は集団疎開で田舎に行っていたが、一年と二年は親元におり、学校も寺子屋みたいに小グループで集まって勉強していたそうだ。
 東蟹屋町(爆心地から約2.3km)の家で、母と、祖母と、祖母の両親と暮らしていた。
 祖母は結婚して母を生んだが、母が三歳のとき離婚して実家に帰っていた。

 昭和二十年八月六日の朝は月曜日だった。
 祖母・タネコ(三十一歳)は、流川に住む叔母「青木のおばさん」がいよいよもう疎開せんにゃあいけんということになり、その引っ越しの手伝いに駆り出され、出かけていった。
 当時県税事務所に勤めていたはずだが、その日は仕事を休んだのだろうか。
 引っ越しの手伝いということもあって、作業着であるモンペの上下を着て、大八車を押して出かけた。
 
 母は、近所の大きなおうちの菜園場で、ワタルくんとコーちゃんと一緒に遊んでいた。

 午前八時十五分、
 原爆炸裂の瞬間を母はよく覚えていないらしい。

 気がつくと、粉のようなものがぱらぱらいっぱい降りかかってきたという。

 一緒に遊んでいたワタルくんのおばあちゃんが、ワタルー、ワタルーと探しに来た。
 あんたぁここにおったんね、家に帰りんさいと母を自宅までつれて帰って来てくれた。

 おばあちゃんのハヤノさん(五十一歳)が「ああルミちゃんどこにおったんね」と出迎えてくれたが、顔や首は血まみれだった。家の仏壇を掃除していて、爆発の衝撃で落ちて来た先祖の遺影のガラスが刺さったのだった。

 しばらくして、おじいちゃんが帰って来た。おじいちゃんはやけども怪我もせず無事だった。勤めていた市役所に行く途中被爆し、電車が止まったので歩いて帰って来たらしい。
 その時間、市役所にもし到着していたら爆死していたかもしれない。
 ハヤノさんにささったガラスを抜いて、血をぬぐった。
 母も気がつけば足首あたりをガラスでざっくり切っていた。水もないので、そのあたりに生えていた「ニラグサ」を揉んで傷口にあて、布を巻いて応急手当てをしてもらった。

 祖母のタネコは広島駅前の猿猴橋の橋の上(爆心地から約1.5Km)で被爆した。

 よく晴れた朝だったが、一瞬ぱらぱらっと雨が降ったらしい。
 それを覚えていた人々は後に、「ありゃあB29がさきに空から油を撒いたんじゃ」とうわさしたという。
 あ、敵機が来たな、それにしても空襲警報が鳴らないし、と思って見ていた次の瞬間、ものすごい爆風に吹っ飛ばされ、欄干に激突し、揺り戻すように逆方向へ吸い寄せられて転がり倒れた。大八車も吹っ飛んでいた。
 そこにうずくまり、どのくらい時間が経ったか分からない。気がつくと、周りはぐちゃぐちゃになっていて、皮膚が焼けただれてお化けのようになった人たちが、みずー、みずー、と言いながら川に飛び込んでいるのが見えた。
 「ああ、瑠美子は」
 家に帰らなくては、しかし、見慣れた建物はほとんど倒壊し、方角も定かではない。遠くに見える二葉山を目印に、東へ東へと歩いて帰った。

 自宅にたどり着いた祖母は、祖母のかたちをほとんどとどめていなかったという。
 着ていたモンペはズタズタになってほとんど裸になっていた。焼け残った布が溶けて垂れ下がった皮膚にひっついていた。
 「柄の白いところだけが焼けて黒いところが残っとった」
 銘仙の着物を解いてつくったモンペの、その柄に見覚えがあったが、それがまさかおかあさんだとは思わなかったという。
 それが、「・・・瑠美子は・・・」と口をきいた。
 ハヤノさんが「あんたぁタネコさんか?ああ、かわいそうにむごいことになって!ああ、どうしよう、あわれなことになって」と半狂乱になっているのをぼーっと見ながら、「これは絶対おかあちゃんじゃない」と思ったそうだ。

 ひとまず家族がみな帰って来た、とにかく逃げんにゃいけん、ということで山へ向かう。
 大八車の荷台に、つぶれた家から布団を引っ張りだしてきて敷き、祖母を寝かせておじいちゃんが引っ張って運んだ。逃げる前、ハヤノさんは裏の防空壕をスコップで掘り、埋めていた通帳や貴重品をみな掘り出して持っていった。

 夕方、温品の小学校にたどり着く。
 母は、タカマガハラの高台から見た市内の様子が忘れられないという。
 「市内が一面真っ赤っかになって燃えとったねぇ」
 
 小学校で救護にあたっていた軍医さんが、たまたまおじいちゃんの知り合いだった。
 それもあって、祖母にたくさんはない薬を特別につけてくれたり、こっそりビタミン剤の注射をしたりしてくれたんだそうだ。
 しかし、「この人はもう死んででしょう、覚悟してください」と言われた。
 学校の校庭は死体の山で、焼いても焼いても間に合わない。

 ハヤノさんは祖母を必死に看病した。近くの農場に行って牛乳を買ってきては朝晩飲ませたり、蠅がたかってわいた蛆をピンセットでつまんだりしていた。祖母はただウンウン唸って生きていた。

 そうこうしているうちに、母の足の傷が膿みだした。
 化膿して、全身吹き出物だらけになった。吹き出物が膿んでどろどろになったが、ろくに薬もなくて、河原で体を洗ってもらうことぐらいしかしてもらえなかった。
 「こりゃあこの子もあぶない」と医者に言われたそうだ。
 「後から考えたら、あれで毒が全部出たんかもしれんね」

 広島の惨状を知って、田舎の親戚が駆けつけてくれた。
 ハヤノさんの従兄弟・ワタリのおじさんが山県郡千代田町のあたりにおり、市内に嫁に行ったのがハヤノさんだけだったので、広島に出てきた親戚の娘がみなハヤノさんの世話になったらしい。
 米や野菜を自転車に乗せて、遠いところから押して歩いて届けてくれたという。
 「これをタネコに食わせてやってくれ」と、二回くらい運んでくれたそうだ。

 そのころ、祖母と離婚し別居していた祖父・「おとうちゃん」が母を迎えにやって来た。
 祖父は商いをしていて、先代から勤めていた職人さんが「世話になっとるけぇぜひ来てくれ」と呉の狩留賀の家に呼んでくれたのだ。
 母を自転車にのせ、歩いて狩留賀まで連れて行ってくれたという。
 そこの家では、ごはんも食べさせてもらいよくしてもらった。しかし、ちいさい母はおばあちゃんとおかあちゃんが恋しくて仕方がなかった。

 なので、こっそり家を抜け出して、温品の小学校まで、ひとりで歩いて帰ったのだった。

 狩留賀の家では瑠美子がおらんようになったと大騒ぎになったそうだ。
 そんなこともおかまいなく、母はひとりでとっとと帰って来た。

 「どこをどうやって帰ったんか覚えてないんじゃけど、えらいじゃろ」
 呉から温品まで、車でも1時間はかかる。6歳の子が歩いて、一体どのくらいかかったのだろう。
 只々、おかあちゃんに会いたい思いが歩かせたのだろうか。

 さて、あの日祖母が引っ越しの手伝いに行く予定だった青木のおばさんはどうなったか。
 流川といえば中心地だ(爆心地から約1Km)。家は全壊し、おばさんは家の下敷きになった。
 助けてー!と叫んでいると、どこかの人が丸太をテコのように使い、がれきを持ち上げてくれて助かったのだそうだ。そのままいたら焼け死んでいただろう。

 その青木のおばさんの親しい人が、牛田の山の上に住んでいた。
 温品の小学校では、ハヤノさんは祖母の看病で手一杯、瑠美子まで面倒見きれない。
 ということで、母はこんどはそこの家に世話になることになった。
 いい人だったが、出されるご飯が赤い実のコーリャンご飯で、それが体に合わなかったのか全身にじんましんが出た。
 もういやだ、
 母はまた脱走した。

 「焼け野原でなーんにもなくてね。荒神陸橋の踏切のとこの線路を渡って帰ったのはよう覚えとる。よう帰ってきた、瑠美子はあれでみな知恵を使い果たしたんじゃゆーてよう言われたもんよ。それにしてもえらいよねぇ、よう帰ったよねぇ」

 知らなかった。
 「焼け野原を歩いて・・・」という話はちょっと聞いたことがあったが、まさか2回も、そんな遠くから脱走して帰って来たなんて。

 母はそこまで一気に話した。
 はっきりと、先を急くように早口で。
 長い年月をかけて、心の傷を飼いならした冷静さと、強さで。

 祖母はそうして、死ななかった。
 傷もだいぶん落ち着き、秋口には東蟹屋町の家に戻ることができたのだった。

 とはいえ、家は半壊し住める状態ではない。近所の、木谷のコウさんという大工さんが、急ごしらえのバラックを建ててくれたそうだ。バラックは雨露をしのげるほどの粗末なもので、冬は隙間から雪が吹き込んできていたのを覚えているという。

 しばらくして、元気だった人々にも症状が出はじめた。

 ハヤノさんにも全身に発疹のような赤斑が出た。近所の人どうし、「わしも出るんで」「ありゃあ原爆症らしいで」と話していた。当時はまだ放射能が原因だということは分からなかった。おじいちゃんは髪がごっそりと抜け、歯茎から出血し、赤班がでた。
 急性の症状が治まった後も、おじいちゃんはいつも胃が悪く、五十五歳の時に胃がんで亡くなった。

 その秋、大きな台風が来て猿猴川が洪水で氾濫し、荷物という荷物がみな流されたこともあった。首のあたりまで水が来て、荷物がぷかぷか浮いていたという。
 その中には母が買ってもらったお雛様もあった。マルタカという玩具店で特注し作ってもらったもので、お内裏様とお雛様の上に宮がついている、いいものだったそうだ。

 そういえば私が小さい頃、毎年お雛様を飾りながら「わたしが買ってもらったお雛様はいいお雛様だったんよ。上品なお顔でね、宮がついててね。原爆でみな無いなったけどね。惜しいことをしたねぇ」と話していたのを覚えている。

 そのお雛様も、飾って楽しくお祝いした家も、なにもかも原爆は壊し奪った。

 その後、2度ほどバラックを建て替え、やっとまともな家を建てたのはずっと後のことだった。

 食べるものを確保するのも大変だった。道ばたの雑草(鉄道草と言っていた)も湯がいて食べた。
 ハヤノさんと母は郊外へヤミ米を買いにいくのだが、検問で見つかりみな没収されたという。
 おばあちゃんが検閲されている間、母は子どもの身軽さで脇をすり抜けて逃げ、米を担いだまま家まで帰り着き、ものすごく褒められたんよと自慢そうに話した。

 そこから、どのように生活を立て直し暮らしてきたのかはよくわからない。
 子どもだった母はよく覚えていないからだ。

 全身大火傷を負った祖母は命を取り止め、回復し、働けるようになり、再婚した。

 「やけどで皮膚がひっついてね、腕がまがったまま伸びんのよ。
  それをあの人は、大きな金だらいに水を入れたものを両手でもって、力任せに腕をのばした。
  自力で腕をまっすぐにしたんよね」

 美人で評判だったという祖母はその顔も身体も焼かれてもとの姿を失った。
 母も残留放射能だらけの焼け野原を歩き回った。

 いくら話を聞いても、想像しても、たぶんぜんぜん足りない。わからない。
 しかし、死んでいてもおかしくなかったのに、よく死なずに生きていてくれたと思う。

 祖母も母もほんとうに強い。つよいつよい人だった。
 そうやってつながれた命がわたしであり、息子なのだ。
 生きていることの有り難さと意味をしみじみ想う。

 (2009年夏記録)


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