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現世は夢となり、夢は現世となる

少し前から、出会う人に「成功と失敗とは何でしょう?」と聞いています。答えの多くは「死ぬときに自分は成功したと思うか失敗したと思うか」だと言います。つまり、死ぬときにわかることだと言うのです。僕もそう思います。

人は、数え切れないほどの「成功者」を作り出して、褒め称えます。しかし、その成功者とは、長い人生の途中で “たまたま運が良くて” お金持ちになったとか、有名になったとか、世界記録を出したとか、何とか賞を獲った…という話です。それは瞬間的なものであり、よほどのことがない限り短期間の栄誉であることの方が多いのです。

成功する者は、生命を持った人間ですから、永遠に成功を維持することはできません。年を経て知力も体力も幸運も衰えてしまうのです。

さて、成功とは何でしょう? 人生が60年…いや、今は100年か? ちなみに僕は、もう63歳ですから、言うまでもなく立派な失敗者です。

一般的に成功とはどういうことなのでしょう? ネットで検索してみると、「仕事や研究などで結果を残し、財をなす人のこと」を成功者と言うようです。「財をなす」ことが条件ならば、アメリカに、ウヨウヨと生息するIT成金のことをイメージできます。何だか面白くないですね。つまらない。結局、お金が全て…というのが気にいらないのです。貧乏な僕はそう思うしかありません。嫉妬心もありますが、やっぱり面白くない。 

僕個人の考えでは「死ぬまで成功を維持することが成功者」だと思うのです。生命の危機や不景気によって右往左往するようでは成功者とは言えません。我が国のIT成金はアメリカとは桁違いの低いレベルですし、我が国の大企業の社長や会長なんかも、会社は彼ら個人のものではないので成功者とは言えません。

こうして嫉妬深い(笑)僕は、人に好かれることも億劫になってしまい、かつての人脈も枯渇してしまったので、もう成功者にはなれません。ただ、ネット上の多様なSNSで、こうやってつまらない文章を残すことが生きがいになっています。生きがいの結果は、もしかしら、それが成功なのかもしれません。死んだあとも僕のつまらない呟きや文章が残るのです。面白いじゃありませんか? 財なんか残せなくてもいいのです。僕には子どもがいませんから財を残してもしかたがないのです。

note…いいっすね。僕の生きがい成就のための落書き帳のひとつですよ。ありがたいです。貧乏で無名な僕にとって、SNSというのは、多様な思いを吐露できる唯一の媒体です。その都度、僕の思いを書き残して、いつか突然として死ぬときに「僕の人生は成功だった」と言いたいです。

*追記

気がついたらプロフィールになっていないので、プロフィールに触れます。

昭和32年1月2日に福島県いわき市に生まれる。

昭和36年頃、父親の仕事(住宅営業)の都合で福島県福島市の弁天山の麓に転居。住居の後方にある弁天山が影響してか不思議な体験をする。

昭和38年、福島県第一小学校に入学するも、すぐに青森県青森市に転居。甲田小学校に転校。ねぶた祭に驚き、ドライブ好きな父に連れられて十和田湖や恐山など青森の自然に親しむ。青函連絡船で函館に渡ったこともあった。怪獣ブームが始まり、怪獣に熱中する。

昭和41年、青森市から秋田県秋田市に転居。旭南小学校に転校。市内では3回の引っ越しをする。伝書鳩を飼い、戦車プラモデルを作り、映画に親しむ。雑貨屋の店頭にあった漫画雑誌ガロを買い、林静一の「巨大な魚」に感動。父が買ってくれた漫画雑誌COMにも大きな影響を受ける。手塚治虫の「火の鳥」で人間の生命と運命の儚さを思う。モデルガンにも凝って、小さなピストルに大量の紙火薬を詰めて撃ち教師に注意される。同時に生命に対する残酷さが芽生える。山王中学校に入学。

昭和46年、父親が会社を興すこととなり、秋田市から福島県郡山市に転居。中学3年の2学期より第一中学校に転校。生まれて初めて丸坊主になり、たすき掛けするズック鞄も初経験。

昭和48年、勉強嫌いで最悪の成績。私立高校に裏口入学(本当です)。以降、クラスで最低の劣等生であるのに3年まで落第せずに過ごす。郡山市では探偵小説に懲り、再評価された戦前の探偵小説や殺人トリック主体の本格推理小説を乱読する。吉田拓郎に憧れてギターを自己流で弾けるようになる。拓郎のレコードだけでなく、初めて洋楽レコード「ピンクフロイド狂気」「スリードッグナイトSeven Separate Fools」「ボブディラン FREEWHEELIN' 」をジャケ買いする。マカロニウエスタンのサウンドトラックも好きになる。原付免許を取り、ホンダCBS50を買ってもらう。未開通だった東北自動車道に進入して慣らし運転を行うつもりが、最高速度を出したくなって80キロで走り、マフラーが黒く変色する。市民会館に井上陽水、クリエイションのコンサートを聴きに行く。猪苗代湖でモーターボートを無免許で運転する。友人たちと秋田までバイク旅行。会津、新潟経由で日本海を北上。秋田で下痢して、そのまま帰る。帰りは横手、山形、米沢と内陸ルートで帰宅。

昭和50年、群馬県伊勢崎市にある私立上武大学商学部商学科に推薦入学。初めの1週間ほどバイクで通うが、勉強嫌いのサボり癖が出て、3年間ほぼ下宿に遊ぶ。半引きこもりだが、下宿の友人たちと交流は行う。前橋のライブハウスや渋谷の屋根裏でロックライブを聴く。

昭和52年、父親の会社が倒産し、家族で神奈川県大和市に転居。大学を中退して大和市の自宅で引きこもるも、講談社フェーマススクルールの通信教育を受講と同時に東京目黒の鷹美術アトリエ村に入所しデッサンを習う。漫画雑誌「ぱふ」に漫画投稿を始める。「時の隙間に潰された夢」「深淵でのある状態」が選外佳作。デイリースポーツ土日版「大人の指定席」の挿絵を2年間連載。二子玉川の高島屋SC内にあったレコード屋でアルバイト。プログレッシブロックを知る(既にピンクフロイドをジャケ買いしてたけどね)。

昭和57年、大阪の画材商社(東京支店)に入社。池袋西武百貨店画材売り場で販売及び商品仕入れ担当。2年勤めて退社。

その後、新宿にあった風俗紙「ナイトタイムス」に入社。タコ部屋状態の勤務に恐怖を感じ、3日で逃げ帰る。レース鳩専門誌、美術専門誌、農業専門紙、家電量販誌、家電業界新聞、パソコン量販誌、システムエンジニア向け雑誌を経て、広告付き書籍(ムック主体)の営業企画、300万円で出版できる新書シリーズ創刊など多数に関わる。

美術専門誌時代に、平凡パンチに連載されていた荒木経惟さんの「荒木経惟のオンナ写真診察室」に、当時同棲していた女性の写真を投稿。この時の賞金が生活の足しになった。会社をずる休みして写真常連者による「上諏訪温泉アラーキー写真合宿」に参加。同じく選抜された常連が同社の「BRUTUS」の特集「裸の絶対温度」に参加。以降、荒木経惟の弟子になるべく彼の展示会に参加するが目的は叶わず。

平成20年、18年つとめた出版社を退社して独立、「消雲堂」を設立するも、仕事がなく、経済破綻。企業の宣伝補助、生命保険代理店(廃業)、カルチャースクール「自分史エッセイ講師」、市民活動の一環として手話講師などを目指すが挫折。地域振興活動などに関わるがパッとせず、現在に至る。僅かな仕事収入と年金による貧乏暮らしをしながら、想定外の人生破綻に至る恐怖と戦いながら生きているのである。

父親の実家がある福島県の猪苗代湖畔に家を建てて、ゆったり過ごすことが夢。


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