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千葉と作家と芸術家たち 1

千葉は東京に近いし、海岸縁で静養ができる分、作家や芸術家に重宝された。中原中也は千葉寺で療養した。千葉寺時代というか時期があったのだ。
その千葉寺は「日本のゴーギャン」と言われた画家の田中一村が生きたところだ。画家といえば村山槐多も千葉の九十九里で療養していた。彼らの苦労に対して市川に暮らした東山魁夷は恵まれすぎた。
市川といえば永井荷風島尾敏雄だ。荷風は市川本八幡にカツ丼を吐いて死に、島尾敏雄は佐倉から市川国府台に通い、妻のために妻の故郷の奄美大島に移住した。
奄美大島といえば千葉寺から移住した田中一村の終の棲家となった。
船橋は太宰治だ。彼は1935年に船橋に移り住み、翌年の10月まで暮らした。内縁の妻と暮らしたところだ。ここでパピナール中毒が酷くなり、師匠である井伏鱒二らに欺されて入院療養した。
太宰は船橋時代(1936年)に「晩年」を砂子書房から出版し、上野精養軒で出版パーティーを開いた。
太宰は昭和9年に檀一雄や中原中也と同人誌「青い花」を創刊したが、1号のみで終わった。
中原中也は故郷の山口から1925年に状況、太宰はその5年後に津軽から状況した。中也は太宰より2歳年上だ。
檀一雄と中也、太宰と草野心平が荻窪のおでん屋で飲んでいて、口論となり乱闘となった。中也だけではない。皆、性格的に問題がある。草野心平は僕と同じ福島県いわき市生まれ。
おっと、千葉だ。千葉にゆかりのあるのは誰だ?
原民喜だ。広島出身の民喜は、横浜本牧の女を身請けしたが欺され、カルモチンでの自殺未遂。その後、同じ広島出身の妻をめとり、北新宿で暮らしたが、左翼活動家と疑われ、千葉市の登戸に逃げるように移り住む。北新宿といえば、僕も女性と同棲していたところだ。何だか懐かしい。

千葉市に移り住んだ民喜は、船橋の船橋中学(現・船橋高校)の嘱託英語講師となる。11年後に妻が死ぬ。失意のうちに故郷広島に帰るが、まもなく原爆投下、爆心地から1.2キロの長兄宅が堅牢なうえに、民喜は狭い便所の中にいて助かった。
その後、また上京するが、4年後に吉祥寺と西荻窪の間の中央線の線路に身を横たえて自殺。民喜の友人には遠藤周作梶山季之埴谷雄高、佐藤春夫などがいる。そういえば佐藤春夫も太宰治の芥川賞取りたい病に迷惑したひとりである。
千葉には白樺派がいた。我孫子から手賀沼の畔に文化人たちが別荘を構えた。

Wikipedia「白樺派」を勝手に修正して以下に転載。

手賀沼の北岸は、当時は農村地帯であったが、我孫子駅が開業して都心からアクセスが良くなり、別荘地として人気が出た。
大正3年(1914)に柳宗悦夫妻が、宗悦の叔父・嘉納治五郎の別荘向かいに引っ越した。嘉納治五郎は講道館を興した柔道家だ。
柳夫妻に誘われる形で『白樺』同人たちが手賀沼湖畔に越してきた。大正4年(1915)には志賀直哉夫妻が移り住んだ。直哉は当時、父との不和に悩み、愛児が夭逝する不幸もあったが、ここで創作意欲を回復させ、「城の崎にて」「小僧の神様」「暗夜行路(前編)」を執筆した。さらに大正5年(1916)には武者小路実篤、彼らとの交流から大正6年(1917)には英国人の陶芸家バーナード・リーチが窯を築いた。
志賀直哉が京都へ転居した大正12年(1923)を最後に、各作家の居所は散り散りになるが、彼らの濃密な交流や東京からの文化人の来訪により、手賀沼北畔は白樺派や民芸運動の拠点となった。

おおそうだ。我孫子駅ホームにある「弥生軒」は、かつて画家の山下清が5年間働いていた立ち食いそば屋だ。山下清は軽度の障害を持っており、市川の施設・八幡学園に収容され、学園には馴染めなかったものの、独学で、ちぎり絵の技術を習得した。しばらくして学園を脱走して我孫子の弥生軒で住み込みで働いた。

…まだまだ僕が知らない千葉と作家・芸術家の所縁があるに違いない。

それでは、また。

あ、最後に千葉寺時代の中也の詩を…。

(丘の上サあがって、丘の上サあがって)
丘の上サ上がって、丘の上サ上がって、
千葉の街サ見たば、千葉の街サ見たばヨ、
県庁の屋根の上に、県庁の屋根の上にヨ、
緑のお椀が一つ、ふせてあった。
そのお椀にヨ、その緑のお椀に、
雨サ振ったば、雨サ降ったばヨ、
つやがー出る、つやがー出る

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