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予選会 -We must go- ①

 十月二十日。日曜日。空には厚く、重たい雲が垂れ込めている。

 ここ数年、箱根駅伝の予選会では雨が降ることが多い。少なくとも夕真が青嵐大のスポーツ紙──通称〝青スポ〟の記者として参加した過去三回の予選会はいずれも雨。もしくは、曇りのち雨だった。

「今年も降りそうだなあ……」

 ノブタは信号待ちでブレーキを踏んだ直後、三浦ハウスから出発した駅伝部員と夕真で鮨詰めになった車の運転席から外に頭を出して唸る。

「まあ現に、九時から十一時にかけての降水確率は六十パーセントだしね。降るでしょ。でも風はそこまで強く吹かないみたいだし、カンカン照りよりはマシじゃない? 暑いと御科と如月が途中でバテちゃうもん。なあ?」

 と助手席のユメタに名前を出されると、一年の如月は「この夏は正直堪えました……」と肩を竦めて見せたが、御科は大きなヘッドフォンをかけたまま手元のリズムゲームに夢中になっている。二人はともに豪雪地帯の出身で、寒さと雪雨の悪天候には強いが暑さにはめっぽう弱いのだ。

「てかそうだ。重陽。松本のヤツ、まじで現地集合で大丈夫なわけ? 携帯で連絡つかないっての不安しかないんだけど。公衆電話だって使えないし」

 信号が青に変わり、ノブタはぐんとアクセルを踏み込みながらバックミラー越しに後部座席を一瞥した。

「ああはい。大丈夫みたいです。ついさっき電車の中で合流したって、ハマーがグループラインに送ってくれてます」

 夕真の隣で物理的に肩を竦ませている喜久井が、窮屈そうに両手で携帯を抱えながら応える。するとすぐに、バックミラーに映るノブタの顔が綻んだ。

「お、そうか。ってことは電車組は全員オンタイムで到着ってカンジだな。じゃあ重陽、西川口の改札で短中距離の助っ人と合流して公園向かってって返しといて」

「了解です」

 喜久井が大きな手でちまちまとメッセージを打ち送信すると、当然ながら車に乗っている全員の携帯から大なり小なり音がして、誰からともなく笑いだした。

 松本さえいれば予選会突破は安泰。車の中にはそんなリラックスムードと、現実味を帯びてきた「箱根駅伝出場」への興奮とがない交ぜになって満ち満ちている。

 箱根駅伝の予選会は駅伝形式ではなく、ハーフマラソンのタイムトライアルで行われる。チームの上位十名までのタイムを足し、短い順に十チームが箱根駅伝の本戦出場権を得られるというルールだ。レースは一チームあたり最大で十二名まで走ることができ、青嵐大駅伝部はこれに総力を上げ十二名で挑むことになる。

 地味かつアウトサイダーな存在でありながら、チーム青嵐大は各々が堅実にタイムを縮めてきた。今年度で言えば、関東インカレは喜久井が一万メートルで決勝進出、ノブタとユメタもハーフマラソンで結果を出し、御科もまた別の大会でコースレコードを更新するなどの活躍を見せている。

 そんな先輩たちへ追いつけ追い越せとばかりに一、二年も調子を上げてきているし、その甲斐あってかネットの下馬評では青嵐大も「本戦出場のボーダー線上にあるチーム」として名前が上がることも少なくない。

 とそんなところへ、強豪校エース級の記録を持つ有希がどうしたことか後期からの新規加入。これにより、青嵐大の予選会突破は決して夢物語でもギャンブルでもなくなったのだ。現に有希の持つ記録は一万メートルでもハーフマラソンでも群を抜いていた。別格の走りである。

 ただ一つ彼について懸念があるとすれば、今も患っている神経症──失声症と対人恐怖症が、大人数でのレースにどう影響するのかということと、今日この昭和記念公園に集う数多のランナーは彼のどういう眼差しで見るのかという、この二点だ。

 夕真の見立てでは、松本有希のメンタルは喜久井やノブタやユメタが認識しているそれよりもずっと脆い。そして傷は根深い。

 彼の失声症の原因が卯木から聞いた「真相」であるとするなら──関東中から箱根を目指して来た数百人にものぼる学生ランナーが集結するこの予選会に、よくぞ出てくれる気になったものだ。

 自分が彼の立場であったらきっと、どれほど走ることに執着があろうとも、少なくとも学生陸上からは距離を置くに違いない。現に彼自身、半年間は逡巡していたわけなのだし。

『俺は遥希に勝たないと走るのを辞められない。そのためのレースをするのに、一番都合が良かったのが青嵐大だっただけだ』

 数日前。早朝の部室でのことだ。夕真は、青スポの記者として有希にインタビューを試みた。昼は和菓子工場でのアルバイト、夜は講義という生活を送っている有希は、夜明け前から出勤時間までの数時間を主な練習時間にしている。その終わりがけに、少しだけ時間をもらったのだった。

 その時訊いた「進学先を青嵐大に選んだ決め手は?」という質問に彼は、夕真の渡したタブレットに慣れた手つきでそう打ち込んだ。

「……なるほど。都合が良かったっていうのは、たとえばどんなところが?」

 タブレットを眺めながら夕真が尋ねると、有希はにわかに目を眇めながらタブレットを自分の方へ引き寄せた。背中を丸めて指先で言葉を選ぶ様は、彼の極端なまでに不器用な人格そのものを表しているように見え、夕真は同情と親近感を抱いた。

『昼間部はどの学部も名門かもしれないが、夜間部は知名度も偏差値も低い。学費も安い。陸上も強くないし人もいない』

「ははっ。なかなかの毒舌だな。でも遥希と勝負するなら、強豪に進んだ方が機会は多そうだけど?」

 軸足を動かさないまま、半歩だけ彼の間合いに踏み込んだ。有希は不機嫌そうにマスクをぐっと眉間の方へ引き上げ、また指先で言葉を選び始めた。

『人が多いところにはノイズも多い。邪魔になる。ここが一番静かで打ち込めると思った。ここには脛に傷のある人間がいる』

 打ち終わると有希はタブレットから顔を上げ、夕真の目を睨め付けた。

「ノイズ……ね」

 夕真はつい寸前に彼がしたように、眼鏡のブリッジを眉間へ押し上げた。

「俺も昨日今日に陸上の取材を始めた人間じゃないから、お前が競技から一度ドロップアウトすることになった表向きの経緯は知ってる。──だから不可解なんだ。その経緯が事実だったとして、どうしてお前はまたここで走ることを選んだのかが」

 有希はタブレットへ視線を落としたまま、呼吸も忘れたかのように微動だにしなかった。

「……言葉にできないなら、無理しなくていい。記事はここまでの内容で書かせてもらうよ。あとで原稿送るから、認識違いとかで修正して欲しいところがあれば──」

 夕真がそう言ってタブレットを回収しようとすると、急に彼の指がそのディスプレイの上に踊った。

『本当は、高校で陸上をやめようと思っていた。遥希は俺がそう思っているのを知っていた。だから俺を排除した』

 ディスプレイに踊る文字が、夕真には呪いのように見えた。

『あの喧嘩を買ったのは俺じゃない。遥希だ』

 思わず固唾を飲んだが、夕真は動揺を押し殺すようにして「そうか」とだけ発し、ひと息ついてから続けた。

「それは要するに、遥希による〝なりすまし〟だったってことだな?」

 有希はすぐに、首を縦に振った。

「今の状況はお前が泣き寝入りした形になってるわけだけど、誤解を解けなかったのはどうしてか、訊いてもいい? 声が出せなくても、こんな風に筆談はできたと思うけど」

 しかし今度は、自分の打ち込んだ文字の並ぶタブレットをじっと見下ろしたまま、有希はしばらく固まっていた。いろいろなことを考えているんだろう。そう思った。

『わからない』

 そんな少しの間のあと。有希は戸惑いがちにそう打った。

『遥希は良かれと思ってそうした。だから俺もあいつも黙ってたんだと思う。でもうまく言えない』

「……わかった。ありがとう。本当に無理はしなくていいからな。大丈夫。このことも記事には書かない。それは約束する」

 不安げに震える指でタブレットのキーボードをなぞっていた有希は、夕真のその言葉で少し緊張を解いたのか、会釈をするように小さく頷いた。

「……じゃあ、質問を変える。高校で競技を辞めようと思ってた松本有希は、それより少し早い高二の夏で一度競技をドロップアウトせざるを得なくなったわけだけど。もう一度この駅伝部で走ろうと思ったのはどうして?」

 その質問には、有希はすぐに答えた。

『走ることをやめたら普通になれると思った。でも違った。俺は走ることしか脳のない人間だ。だから自分の人生の幕引きを自分でするためにここへ来た』

 ──その時背筋に走った、寒気とも痺れともつかない感覚が蘇る。ぶるりと一つ身震いをしたのが真横の喜久井にも伝わったのか、彼は「先輩?」と夕真の顔を心配そうに覗き込んできた。

「寒いですか? 今日は、何か上に羽織るもの持ってる?」

「大丈夫だよ。単なる武者振るいだ」

 露骨なやつめ……と思いながら平静を装い応えると、助手席のユメタが「うひゃひゃ!」と手を叩いて笑い出した。

「いや、なんでタマっちがブルってんの。ウケんだけど」

「うるさいないいだろ別に! こっちだって、八十二年ぶりの本戦出場記事が書けるか書けないかの瀬戸際なんだっつの。フツーに緊張するわ!」

 もしかすると人生きっての大一番になるかもしれないレースを控えた選手たちが、せっかくこれ以上ないほどリラックスしている。余計な動揺を与えてはいけない。

「……あ。俺の電話鳴ってる。ちょっと、ユメタ出て」

 そんなことを考えている時だった。ノブタはハンドルを片手にジャージのポケットから携帯を出し、助手席のユメタへ放った。

「おけおけ──なんだ。つっちー先輩じゃん。もしもーし。おはざーっす。あ、ユメタでーす。もう駅着きました?」

 そんな風に軽い調子で電話に出たユメタの声のトーンが、どんどん落ちていく。

「──はい、はい。了解です。じゃあ、申し訳ないんすけど先輩からほかのメンバーに場所取りの指示出ししてもらっていいすか。で、そのまま松本とその場に待機でお願いします。こっちももうすぐ着くんで……はい。分かりました。じゃまた後で!」

 電話を切り、一息ついて、ユメタはノブタのジャージのポケットに携帯を戻した。

「つっちー先輩、なんて?」

 穏やかじゃない空気を察知してか、電話を渡した時よりもずっと低い声ででノブタが聞き返す。

「駅で松本が倒れたって」

「はあ!?」

 と声を上げたのはノブタばかりではない。車中のほぼ全員が、戸惑いに腰を浮かせていた。

 と声を上げたのはノブタばかりではない。車中のほぼ全員が、戸惑いに腰を浮かせていた。

「うーん……あいつ、神経症持ちだけあって繊細だからなあ。つっちー先輩は緊張で過呼吸起こしたんだろうって言ってるから、まあすぐ治るとは思うけど……念のため駅の医務室で休ませてもらってるって。つーわけでノブタ、駅の方に一旦車回してくれる? 俺はちょっと様子見てくるけど、後から合流するから先行ってて」

 ユメタは努めて軽い口調でそう言って、ノブタもまた「おっけー了解」と同じ調子で返しウインカーを上げた。

「まあ、大エースとは言えあいつも一年ボーズだからな。お前らは存分に先輩の背中見せてやんな!」

 ノブタはいつもの調子でバックミラー越しに後部座席を見て目を細めたものの、急ハンドルで西立川駅へとハンドルを切る。

「……正常化バイアス」

 喜久井が、肩の触れ合う場所にいる夕真にだけ辛うじて聞こえるくらいの声で小さく呟き、固唾を飲んだ。

 夕真も思わず、彼にだけ分かるであろうくらいに小さく頷いた。が、本音を言うと喜久井のウィークポイントはそんな敏感さだと夕真はずっと思っている。

 他のメンバーと同じように、もしくは御科のように我関せずを貫くことができれば、必要以上に心を揺り動かされずに済んだはずだ。

「──じゃ、ちょっくら様子見てすぐに行くから! 松本以外の電車組と助っ人軍団は先に場所取り行ってるはずだから、うまいこと合流しといて!」

 ノブタが駐車場へ車を入れる前に駅前で停車すると、ユメタは早口でそう告げて助手席をまろび出て行った。と同時に、夕真も喜久井とは反対側のスライドドアを引いて後部座席を飛び出した。

 背後からは「先輩!?」という喜久井の声が聞こえたものの、彼は車内に残ることを選んだらしい。全くもって正しい判断だ。あっぱれである。

 高校時代に夕真が最後に撮ったハーフマラソンの大会でもそうだった。彼には、自分がその時真にすべきことを判断する洞察力がある。

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