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ロングディスタンス⑦

 ユメタが駅伝部のグループチャットに貼り付けた部員名簿の写真。そこに印字された「松本有希 文学部(夜間) 一年」の文字を見て、夕真はすぐに都内の他校で関東学生陸上競技連盟の幹事をしている後輩に連絡を取った。

 彼女は一年を通してロードとトラックと問わず大会の運営に関わっているので、今の松本兄弟についても何か聞けるのではないかと目論んだのだ。

「わあっ、織部先輩っ! お久しぶりですーっ!」

 高校時代の夕真が唯一、連絡先を交換した女の子──ウツギちゃんこと卯木うつぎ星奈せいなは、初めて会った時よりも格段に垢抜けた雰囲気をこれでもかと言うほど全身から迸らせていた。まるで昔の自分を見ているようで、胸元を掻き毟りたくなってくる。

「……久しぶり。急だったのに、今日は時間作ってくれてありがとう」

「いえいえこちらこそっ! 今シーズンの青嵐大駅伝部のことは私も気になっていたので、お話できて嬉しいですっ!」

 夕真の知っている「新聞部のウツギちゃん」はいつもどこか自信無さげで、恐縮そうに肩を縮めている大人しそうな子だった。そんな彼女がどうして真逆のタイプのまひると仲が良いのかとあの頃は不思議に思っていたものだが、今ならその理由が分かる。

「卯木さん。確かに俺、場所はそっちに任せるとは言ったけど」

「はいっ! ここなら大学関係の内緒話もし放題ですっ! それに私、まひるちゃんのお話もたくさんしたいんですっ!」

「それはいいよ? 別に。全然聞くよ。しかしここは、俺の立ち入っていい店なのか……?」

 新宿駅で待ち合わせをして、彼女の言うままに歩き始めて少し。ここのところはすっかりご無沙汰ではあるものの歩き慣れた道順に少しずつ嫌な予感を覚え、彼女が元気に「到着ですっ!」と指し示したドアにはしっかりと「レズビアンBar」と書いてあった。予感の的中に思わず眉間を揉む。

「大丈夫ですよっ! 今日はミックスデーなんで、たぶん時間が深くなってきたらゲイの常連さんとかも来ると思いますっ!」

「そ、そう……なら、いいんだけど……」

 と応えつつも、夕真はやっぱり内心では共感性羞恥のあまりのたうち回るのであった。何を隠そう自分も二十歳の頃は「自分の庭かのように新宿二丁目を闊歩する俺!」に酔いしれていた。

 察するに、彼女とまひるは単なる「ウマの合う親友同士」ではなかったんだろう。少なくとも彼女の方は夕真が喜久井に抱いたのと同じ感情をまひるに抱いていて、お節介焼きのまひるに合わせて大人しくて頼りないキャラを演じていたのだと思う。

 二人は同じ大学を受験したもののまひるだけ落ちてしまい、彼女は今、第二志望だった山梨の女子体育大に通っている。だからこそ卯木は、陸上競技の大会を運営・サポートする連盟の幹事をしているに違いない。それにしても揃って第一志望に滑るとは、とんだボンクラ兄妹である。

 卯木はこの店に通い慣れているようで、カウンターの内側にいるギャル風のママと気安い様子で挨拶を交わしカウンターの奥へ夕真を促した。

「先輩、何飲みます?」

「同じのでいいよ」

「じゃ、ママーっ! ジントニ二つお願いしまーすっ!」

 やっぱり彼女は元気いっぱいにママへ告げ、じきにお通しの小皿とジントニックのグラスがカウンターに並んだ。結局昼を食べそびれたままの空きっ腹に、久々のアルコールが沁みる。

「──ところでさっそく本題なんだけど」

 酔っ払う前に聞かねば! とやや前のめりに早口で切り出すと、卯木は一気にグラスを半分ほど空けてから「はいっ!」と背筋を伸ばして見せた。

「高校の時、君らの一つ下に松本遥希と松本有希って双子がいたろ。覚えてる?」

「はいはいはいはい。覚えてるも何も、遥希くんとは大会でよく会いますよ。相変わらずキョーレツっていうか、モーレツっていうか……ルーキーにして既に、全大学生ランナーの最強仮想敵! って感じですね」

「そうなんだ……相変わらずってことは、高校時代からそんな感じだったってこと?」

 夕真が矢継ぎ早に尋ねると、彼女は「あ、そっか!」と何かに納得したようにぽんと一つ手を打った。

「そういえば、先輩は世代が直接かぶってないですもんね! 彼、マス向けにはすっごいお行儀いいからあんま分かんないか」

 確かに、夕真が把握している高校時代の松本遥希の情報は全てマスメディアを通したものだ。それに加え、今は自分がマス側の人間でもある。

「彼は、んー……良く言うと、自分にも他人にも超厳しくて言葉きつくてストイックっていうか──」

「じゃあ、悪く言うと?」

「悪魔ですね。悪くっていうか、率直に言って」

 即答だった。

「悪魔に良心売り渡して、代わりに速さをゲットしたんじゃないかって感じします。……東体大の長距離部門って今年からSNS禁止になったじゃないですか。あれ、遥希くん対策って話ですよ。彼にああいうのやらせたら、炎上するの分かり切ってますからね」

「ああ……それは聞いたことあるな。というかマス向けに行儀良くても、既に匿名掲示板じゃアホほど専用アンチスレ立ってるし」

「おおっ! やっぱり織部先輩も知ってました!? まあ、本人そういうのわざわざ見に行くタイプじゃないのが救いですけど……もし何かの弾みで見つけちゃったら絶対煽りに煽りまくってお祭り騒ぎになりますよ。とにかく、発信は絶対やらせちゃダメなタイプの人です。遥希くんは」

 そう言うと卯木はグラスに残ったジントニックを一息で飲み干し、さっそくお代わりを頼む。豪胆である。

「──じゃあ、有希の方は? どんなやつだった? 喜久井とはちょっと仲良かったみたいなことは聞いてるんだけど、卒業してから音信不通になったって心配してた」

「おおっと。そこツッコんじゃいますう?」

 ペースが早いのでてっきり酒豪なのかと思いきや、卯木はすっかり赤ら顔だ。

「彼らが二年の時の、インハイ地方予選の話は知ってますよね?」

「ああ。まあ……大枠は」

 昼休みの部室でも話題に上がったが、松本有希は地方予選で暴力沙汰を起こし、他校の選手に後遺症の残る大怪我を負わせたという。学生陸上界隈ではまあまあセンセーショナルな大事件だった。

「実はあれ、遥希くんが有希くんになりすまして起こした事件だったっていう噂が最近、まことしやかに囁かれていてですね……」

 夕真は思わず、口へ運ぼうとしていたグラスをコースターの上に戻した。

「……それって、ソースはあるの?」

「ないですよ。噂ですもん。強いて言うならアンチスレの書き込み?」

「便所の落書きだろそんなもん」

「でも遥希くんの人柄知ってる人間なら、きっとみんな『やりかねない』って思いますよ」

 なんせ悪魔なんで。と付け足し、卯木はお代わりのジントニックを今度はちびちび傾ける。

「仮にそれが本当だったとして、有希の方はなんで黙ってるんだよ。普通に考えてあり得ないだろそれって」

「そうなんですよね。だから噂レベルの眉唾話です。……ただ私とまひるちゃんは、あの噂って本当なんじゃないかって思ってます」

 卯木もまたコースターの上にグラスを置き、赤ら顔ではあるが真剣な顔で続けた。

「有希くんって、もともと極端に無口だったんです。でも喜久井先輩には結構懐いてたっていうか、当時の陸上部で有希くんの味方してたの喜久井先輩ぐらいだったって、まひるちゃん言ってました。で、その喜久井先輩が卒業しちゃってからは誰とも一言も話さなくなっちゃったみたいって」

「……つまり、話せないから汚名返上したくてもできなかったと? そんなことってある?」

「なくはないかなって、私は思います。教職課程の講義でちらっと習ったんですけど、神経症の一種でそういう症状もあるみたいなんですよ。緘黙とか失声症って言って、ストレスとかショックで声が全然出せなくなっちゃうって言うのが」

 つまり彼にとって、喜久井がいなくなることは声を失うほどのショックだったということなんだろうか。そんなまさか。とやっぱり思いはするものの同時に、なくはない。とも思えてしまう。

 もし自分が有希と同じように、喜久井の後輩という立場で出会っていたら──もしかしたら、彼を失ったあとにあの場所で過ごさなければならない「くそくらえ」な時間の長さに絶望して声を失うかもしれない。

「──というわけなので。学校辞めて雲隠れになっちゃったのも、もしかしたら治療のためもあるのかもねって、私とまひるちゃんは話していたわけです。憶測ですけど」

「わかった。ありがとう。そういう話が聞きたかったんだ今日は」

「いえいえっ! 他ならぬまひるちゃんのお兄さんのお役に立てたなら何よりですっ! やっぱりどこの大学マスも、遥希くんのことって知りたいですもんねっ!」

「ああ、うん。それもあるんだけど……」

 ほんとにあけっぴろげだなこの子は! と感心するやら羨ましいやらで苦笑しながら、お通しの乾き物を摘む。

「……これは一応、まだオフレコにして欲しいんだけど──この後期から、うちの駅伝部に入ってきたんだ。松本有希が」

「えええええっ!? ホントですか!? やばいやばいっ! 超大スクープっ!!」

 頭痛がするほどの高い声に、たまらずこめかみを押さえた。

「オフレコだからね!? 頼むよ!? ほんっとに頼むよ!?」

「もちろんですともっ! 私だって一応、元新聞部の端くれですからねっ! お任せくださいっ!」

「だけど君、試合の日にバッテリー落っことしてくるうっかりさんじゃないか……」

「やだもうっ! 何年前の話してるんですかあっ! そんなうっかりウツギはもうとっくに卒業したんですうーっ!」

 そう言って真っ赤な顔でケラケラ笑っている彼女は完全にうっかりウツギなわけだが、言ってしまった以上はもう彼女の口の固さに賭けるか、もしくはこのまま飲ませ続けて彼女の記憶ごと吹っ飛ばすしかない。

 と咄嗟に考えてしまい、夕真は「発想のガラが悪すぎる……」と自己嫌悪に暮れた。が、そのことにすぐ気付く程度には自分は真人間になりつつあるのだ。と捉えることにする。

 三浦ハウスに強制収用されてからの極めて健康で文化的な生活により、少しずつではあるが確実に自分の意識が変わりつつあるのを夕真は実感していた。

 自分ばかりがネタを提供してもらうのでは忍びないが酔っ払いの介抱をするのもそれはそれで面倒なので、夕真はうっかりウツギの三杯目を阻止する代わりに彼女の「まひるちゃんのここがカワイイ!」話に付き合う。

 女の子同士のことなのでなんとなくキラキラふんわりした少女漫画みたいなことを想像していたが普通に生々しくて、共感はしたものの身内の話なので少し引いた。

 卯木の住む女子寮には門限があるそうで、九時前には店を出て彼女を駅まで送ることにした。今頃あの崩壊寸前オンボロ廃墟トラックでは、松本有希捕獲作戦が展開されているに違いない。

「はーっ! 楽しかった! やっぱり恋バナは心のデトックスですねっ!」

「俺は別に恋バナをしに来たわけじゃないけど……まあ、こちらこそ役に立てたなら何よりだよ」

「えーっ!? じゃあ今度は先輩の恋バナ聞かせてくださいようっ! なんかないんですかあ!?」

「ない。全然ない。黒歴史しかな──っ!?」

 突然後ろから強く腕を引かれ、夕真は思い出したそのままの黒歴史に飲み込まれ呼吸を忘れた。

「夕真」

 名前を呼ばれ、体が震え出す。
 丹後尚武は、最後に目にした姿そのままだった。

「……織部先輩。お知り合いの方ですか?」

 夕真の尋常ならざる様子を認めてか、卯木は警戒心も露に二人の男の間で視線を行ったり来たりさせている。

「ああ、突然ごめん。懐かしい後ろ姿を見つけてつい。彼とは昔、ちょっとね」

 相変わらず外面だけは完璧だ。身なりもいっそ場違いなほどきちんとしていて、研ぎ澄まされた堂々としたオーラを放っている。

「そうですか。でもすみません。私たち急いでるんで」

「そうか。じゃあ、引き止めて悪かったね。行こうか夕真」

「困ります。見て分かりませんか? この人、体調が悪いんです」

「ああ、分かるよ。可哀想に。こんなに青い顔して。もう夜も遅いから、あとは俺に任せて」

「そう言うわけにはいきません。突然こんな道端で声をかけてきた人に──」

 夕真が息を詰まらせ一言も発せず固まっている間に、卯木は寸前までのはしゃぎ様からは考えられないほど毅然とした態度で彼と渡り合っている。情けなさのあまり嗚咽と涙が込み上げてきた。今にも吐きそうだ。

「先輩、大丈夫ですか? 気持ち悪い? 救急車呼びますか? それとも警察?」

 そんな夕真の顔を見て、卯木は耳の遠い老人にでも尋ねるように大きな声で発した。人の視線を集めるのが目的だろう。その効果はてきめんで、数々のぎょっとしたような視線に晒された丹後はようやく夕真の腕を開放する。

 かと思えば彼は片腕を高く上げ、夕真は咄嗟に両腕で頭を抱えた。が、次の瞬間。自分たちの真横にタクシーが停まる。

「その調子じゃ歩くのもひと苦労だろう。乗っていきなさい」

 丹後は夕真と卯木をそのタクシーへ押し込み、卯木の手にいくらだか分からないが紙幣を握らせ足早にその場を立ち去った。

 視界から彼が消え、ようやく元の呼吸が戻ってくる。タクシーの運転手はそんな夕真の様子を見て、露骨に嫌そうな顔をした。シートを汚しそうだと思われたんだろう。

「新宿駅までお願いします。南口の方で」

 そんな運転手に「どちらまで?」とぶっきらぼうに尋ねられ、卯木も少し喧嘩腰に行き先を告げる。そして降りる時には丹後に握らされた紙幣を、何かひどく汚いものでも捨てるように「お釣りは結構です」と叩きつけた。

「……ありがとう。助かった」

 タクシーを降り、自販機のミネラルウォーターを飲ませてもらって、そこでやっと声が出る。まさかこんな形で「ショックのあまり声が出なくなる」ことを体感するとは思わなかった。

「とんでもないっ! 当然のことをしたまでです。……女子大生やってると、嫌でもあの手の変態には慣れちゃいますからねえ」

 そう言って肩を竦めた卯木は、悲しくも頼もしい普通の女の子なんだろう。そう思うと余計に胸が痛んだし、もしかするとまひるも同じように「慣れて」しまっているんだろうか。なんてことに思いを馳せて腹立たしくなった。

「そうか。そうなんだな。家まで送ろうか? なんか心配になってきた」

「いやいやどの口が言ってんですかっ! むしろこのしっかりウツギが先輩をお家までお送りしたい気持ちでいっぱいなんですけどっ!? 門限あるんで帰りますがっ!」

 と言いながらも、しっかりウツギはその名の通り夕真をホームまでしっかり見送り、別れる間際には「電車降りたら連絡くださいねーっ!」と手を振ってくれた。

 乗り込んだ快速急行は、途中の停車駅でどっと混み始めた。気持ちが逆立っているのか、人と肩がぶつかり合うとひどく気持ちが塞ぐ。窓に映る自分の顔は嫌になるほど弱々しくて情けない。結局何にも変われてなんかいない。

 電車を降り、ひとまずは約束通り卯木に「着いたよ」とメッセージを送る。まひるからよく送られてくるのと同じキラキラしたスタンプですぐに反応があり、続いて「タクシー乗って帰りましょ! 私もそうします!」と返ってきた。

 駅伝部のグループチャットにも未読が溜まっていた。どうやら向こうは松本有希の捕獲に成功したらしい。

 奇しくも卯木やまひるの憶測は一部的中していて、要因は喜久井の卒業ではないようだが、有希は高二の夏から失声症を患っているということだった。

 とすると時期が一致するので、俄然「有希は遥希に濡れ衣を着せられた説」が信憑性を帯びてくる。東体大が突然SNSを禁じたのはもしかすると、そのことが露見するのを防ぐ意味もあるのかもしれない。

 卯木との約束通りタクシー乗り場で車を待ってはみたものの、待てど暮らせど来やしない。バスはとっくに終わっているが、いい加減待ちくたびれたので歩いて帰る。

 しっかりウツギがあんまりしっかりしているので一瞬うっかり自分のことを女子大生と勘違いしたが、貧弱ではあるもののそう言えば自分は男子大学生だ。別に夜道を少し歩くぐらいのことで神経質にならなくてもいいだろう。

 駅から三浦ハウスまでは、地図アプリによると約十キロ。喜久井が走ったら三十分くらいか。なんて考えながら暗い夜道を早足で歩く。残念ながら夕真の鈍足では、どんなに急いで歩いても二時間弱はかかりそうだ。

 もうすぐ十月になると言うのにやけに蒸し暑くて、異様に喉が乾く。店では乾き物と酒しか口にしなかったので小腹も空いた。帰り道にある最後のコンビニに寄って、ツナのおにぎりと、丹後がよく飲んでいたストロング系チューハイの大きい缶を買った。とても自棄っぱちな気分だったのだ。

 店を出て、駐車場のすみっこの縁石に腰掛けて缶を開け呷る。きっとガソリンってこんな味なんだろうな。みたいなケミカルな甘さで不味い。

 ──これは先輩にとって、最後のワンチャンスです。

 頭の中で、そんな喜久井の声が響く。そのワンチャンを、おそらく自分はものにできなかった。だって結局、なんにも変われていない。いろんな人にいろんな言葉をかけてもらって、助けてもらって、それは分かっている。言葉にしきれないくらいありがたい。

 けれど、ただただ恥ずかしいのだ。情けなくて、そんな自分が許せないのだ。消えてしまいたい。飲んでいるのが本当のガソリンだったらいいのにと思う。そんな風に思うこと自体が、なんにも変われていない証拠だ。それも分かっている。けれど、どうしようもない。暗い心は消えていかない。

「本っ当にそういうとこなんすわ。先輩の悪いとこは」

 心底から呆れ返ったような喜久井の声が、頭の中にリフレインした。そうそう。それでいい。俺のことなんかさっさと見放して、陽の当たる場所を存分に走ってくれ。でも、できればその時は何も言わずにフェードアウトしてくれたら嬉しい。ひどい言葉をかけられると堪えるから。

「ちょっと何言ってるか分かんないです。帰りますよ」

「──あ?」

 腕を強く引っ張られて、そこで意識がはっきりした。ストロング缶一本で泥酔して、そのまま駐車場にひっくり返っていたらしい。

「歩けます?」

「俺のことは三浦ハウスの桜の木の下に埋めてくれ」

「歩けませんね。お姫様抱っこされたくなかったら大人しく背中乗ってください」

 怒気を含んだ声に気圧され、黙って背中にしがみついた。よっ。と声を上げ、喜久井は軽々と夕真を背負って歩く。

「……なんでここにいるってわかったの」

「こんなこともあろうかと、位置共有の設定入れといたんです。気付かなかったでしょ?」

「全然気付かなかった……そういうの、ずっと気をつけてたのに」

「そういうプログラム組んだんですよ。一応、情報学部なんで」

「すごいなお前……」

 喜久井はどんどん大きくなっていく。体も、心も、夕真の胸の中で占める存在感も。大きすぎて、手が届く気がしない。少し汗ばんだ背中が熱くて、無性に辛い。

「……いつだったかお前、世界は鏡だって言ってたよな」

「そうですね。おれの座右の銘です。自分のしたこととか、選んだこととか、そういうのがぜーんぶ自分に返ってくるんですよ」

「じゃあさ。もし俺がお前を選んだら、お前も俺のこと殴る? 全部お前が悪いって言う? 俺がそういうことをして、そういうものを選んだんだって言う?」

 口に出したら泣きそうになったけれど、すんでのところでなんとか堪えた。喜久井はまた「よっ」と声に出して夕真を背負い直し答えた。

「……おれも、先輩の鏡ですよ」

 呆れでも怒りでもない、静かで透明な、ガラスみたいな声で喜久井は言った。

「インターハイ走って、都大路も……まあ、ずっこけて大怪我はしましたけど一応走って、辛い手術とリハビリに耐え、故障から蘇った『インディゴの不死鳥』で、あなたのためにDV野郎を通報して、救急車呼んで、コンビニの前で酔っ払ってひっくり返ってるの回収して、おんぶして歩いて……でもって申し訳ないことに今ちょっとムラっときてるのが、あなただけのヒーロー。あなたの選んだ喜久井エヴァンズ重陽です」

 ムラっとは余計だったよ。と突っ込もうとしたのに、あとからあとから涙と嗚咽が溢れて止まらず、一つも言葉にならない。

 そうだった。こういうところを好きになった。燃え上がるようなその気持ちを思い出した。

 どんなに姿形が変わっても、彼はずっと、やいのやいの言いながら寄り添ってくれていた。夕真がどんなに情けない姿を見せても、嫌いだとかなんだとか心ない言葉をかけても、今の今に至るまでずっと変わらず寄り添い続けてくれた。

 そんな彼が好きで好きで、たまらなくて、溺れるような恋をした。そして夕真は人前でも笑えるようになった。間違いなく、喜久井エヴァンズ重陽は夕真にとってのヒーローだ。

 そういう「好きだ」という気持ちは、やっぱり今でも燃えている。

 けれど、だからこそ喜久井には幸せになって欲しかった。それもずっと変わらない気持ちだ。とは言え、自分みたいなろくでなしにうつつを抜かしてほしくない。それも本心だ。手は伸ばせなかった。

 しかし、世界は鏡だ。本当にそうだった。喜久井のことが好きだと言う気持ちひとつで夕真はいろんな人を傷つけて、同じだけ自分も傷ついたのだ。そして自分が傷ついたのと同じ分だけ、きっと喜久井のことも傷つけてきた。もう何年も、長い間ずっと。

「……喜久井」

「はい」

「頼む……助けてくれ……」

「お安い御用です」

 なんということもなく喜久井は軽い調子で答え、林の中の坂道を夕真を背負い淡々と歩いて行った。

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