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臆病と熱病②

 写真部でフィルムの現像とプリントをしているのは、今は夕真だけだ。後輩たちにも一応ひと通りの手順は教えたけれど、この学校で暗室を使うのはどうやら夕真で最後になりそうである。

 喜久井が持ってきた印画紙は大四切──B4と大体同じくらいのサイズの大きなものだった。夕真が普段使うのは大きくてもたかだかA4くらいのもので、それ以上のサイズの印画紙は大会や文化祭の展示で使うくらいなので少し緊張する。

「……よし。できた」

 印画紙を部室の乾燥棚に並べ、ほっと息をついた。暗室作業はほとんど水仕事なので冬場はなかなか手指に堪えるが、その分愛着も湧く。

 大きな印画紙にプリントしたあの瞬間は、やっぱり夕真の目を奪った。けれど彼の母親が息子の晴れ姿として、ポートレート的にこれを「いい写真だ」と思ってくれているのだとしたら、それはそれで嬉しいけれど夕真とは少し解釈が異なる。

 撮影者の贔屓目かも知れないし、夕真は彼の何を知っているわけでもない。

 なんならこの写真を撮った時には名前すら知らなかったわけだけれど、自分の切り取ったこの瞬間には何か、喜久井の心の底に降りて行ったその先にあるものを偶然にも掬い上げてしまったような気がするのだ。そういう意味では、ある意味「スクープ」写真と言える。

 歯を食いしばり、大きなフォームで泳ぐようにライバルを抜き去った喜久井。

 必死の形相で、何に怯え何から逃げているのか。知りたい。自分が掬い取ってしまったものの正体が知りたい。

 この写真は、そういうある種無粋な好奇心を掻き立てるものだった。少なくとも夕真にとっては。

 三階にある写真部の部室からはグラウンドがよく見下ろせた。陸上部は今日も、石灰でラインを引いた即席のトラックを使って練習をしている。

 喜久井はその白線に沿って、バターにならんばかりの勢いでぐるぐるぐるぐる走り続けていた。ひとりだけ髪が長くておまけに赤毛なので、すごく目立つ。

 夕真は貸し出し用に置いてある部のデジタル一眼に望遠レンズを取り付け、グラウンドを周回する喜久井をスナイパーのように狙った。けれどもレンズの倍率が今ひとつ足りなくて、どうにも構図が決まらない。

「──先輩、何撮ってるんですか?」

 眼鏡越しにファインダーを覗いていたスナイパー夕真であったが、うっかり後輩に背後を取られてカメラを降ろした。

「ああ、喜久井くん……」

「いや別に」

 図星を突かれ、つい早口になる。しかし後輩はそんな夕真に構わないまま、乾燥棚でサーキュレーターの風に吹かれている写真を一瞥した。

「この間の県大会、すごかったみたいですね。観に行ってたんですか?」

「まさか。たまたまだよ」

「たまたまあんなとこに行きます?」

「妹に呼び出されたんだ」

 そんな雑談を交わしながら夕真は首にカメラを提げ、コートを羽織った。三百ミリの望遠ではろくな構図にならなさそうだし何より、隠し撮りをしているみたいでやっぱり気分が良くない。

 「ちょっと外出てくる。たぶんすぐ戻るけど、先帰るなら鍵かけちゃって」

 ほかの部員にも聞こえるように声をかけ、部室を出てきた。暮れなずんだグラウンドは茜色に染まり、そこを周回する彼らの影は長くなったり短くなったりを延々と繰り返している。

 夕真は極力気配を消してグラウンドに近付いた。けれどファインダーを覗いた瞬間にあっさり喜久井と目が合い、あまつさえ彼は人懐っこく手なんか振ってくるのでレンズ越しに気まずい思いをした。

「お疲れ様っす! もしかして、写真持ってきてくれた感じですか?」

 グラウンドの周回ノルマをこなし練習を切り上げたらしい喜久井は、勢いそのまま夕真に駆け寄り屈託ない笑みを向ける。

「いや。写真は今まだ部室で乾かしてる。……たぶん、もう乾いてるけど」

「なんだ。じゃあ、シンプルに部活撮りにきてくれたんすね。あざす! いい写真撮れました?」

「……まあ、それなりに」

「やった! どれどれー?」

 誰も見せるとは言っていない。けれどこう朗らかに言い切られると否定も出し渋りもしづらい上に、喜久井は勝手にぐいぐい手元のカメラを覗き込んでくる。

「……この間のレースほど大写しじゃないけど」

 と夕真はしぶしぶデジタル一眼を再生モードにして、小さな画面に撮れたてほやほやの写真を映してやった。

「あ、ほんとだー。でもすっげえ! ちょーきれー。さすがっすね!」

 ちょうどグラウンドの向こうに沈む夕日が綺麗だったので、そちらを主眼に据えてシャッターを切った。なので喜久井ほか陸上部の面々は逆光になっていて、シルエットだけが黒々と浮かんでいる構図だ。

「別に。機材が揃ってればこのくらいは誰でも撮れる」

 喜久井のことは好きではないけれど、含みのない率直な言葉で賛辞を寄越されると照れ臭い。それでついつい警戒して、いつにも増してつっけんどんになった。

 喜久井はきっと、人の喜ぶ言葉を瞬間瞬間でそれこそスナイパーのように的確に選ぶ技術に長けている。それもおそらくはかなり自覚的に発揮していて、そうして相手の懐に抉り込んで何がしかの「対価」もしくは「目溢し」を得ている。そんな印象だ。

「プリントしたやつ、用意しておくから。着替え終わったら部室寄って」

 夕真は早々にカメラの電源を切り、カバーを被せて早口で続けた。本当はもう少し顔の分かる写真も撮っていたけれど、やっぱりなんだか盗撮をしてしまったような気がして後ろめたいし、それをしてしまった下心を引きずり出されそうで怖い。

 単純に、夕日に赤い髪を溶かしたみたいに靡かせて走る喜久井がきれいだった。客体として勝手に消費しシャッターを切ってしまったことが少し気まずい。そんな視点で切り取られた瞬間から、こちらの意図を悟られるのはもっと気まずい。

 「了解です。お待たせしてすみません。チョッパヤで支度してすぐ行きます!」

 そう言って喜久井は音がしそうなほどの敬礼をして見せ、運動部の部室棟へ駆けて行った。練習の時よりも力の抜けた、浮き足立ったような走り方だ。レースでもああいう走り方をしていたら、きっと夕真もなんとも思わなかっただろう。

 部室に残してきた後輩からは「先に帰ります」と携帯に届いていた。なので職員室でまた鍵を借り、乾燥棚から写真を降ろし裏打ちをしてから、厚紙のストレッジボックスに入れてやる。

「うわ、厳重っすねえ。なんか勿体ない。おれ、こんな大層に扱ってもらうほどイケてねーって感じ」

 写真を扱う夕真の手つきを興味深げに目で追いながら、喜久井は肩を竦めた。

「大層に扱ってるのは別にお前じゃない。写真だ」

 ことさら特別なことをしているわけではない。と言いたかっただけなのに、なんだか彼を下げたような言葉になってしまい夕真は少し慌てた。けれど喜久井は「そっか。そっすね」と頷いて、ずっと楽しそうに夕真の手元を眺めている。

「てか、自分でフィルム現像できるってすごくないすか。おれ、スマホのカメラしか触ったことないんすけど」

「別にすごくはないけど……普通はそんなもんじゃない? うちの部だって、フィルムやってるのは俺だけだし」

「マジで!? もったいなーっ! せっかく立派な暗室あんのに!」

 こんなチャラい陽キャの言うことなんか、調子がいいだけで信用ならん! と思っているはずなのに、どうしてもうっかり真に受けそうになる。

「先輩はいつからフィルムやってんすか? なかなかシブい趣味っすよね」

 なぜなら喜久井は、いやにキラキラした目でまっすぐに夕真のことを見つめてくるからだ。陰キャは虫と同じで、光と見るとほいほい引き寄せられてしまう性質を持つ。

「カメラは小学生の頃から触ってたかな。じいちゃんが好きなんだ。写真」

 むこうがノーマルでこちらがアブノーマル。弁えているし諦めてもいるが、むこう側の人間に迎え入れてもらえるような動きを見せられると、悲しいかなうっすら嬉しくなってしまう。

 そして大概の場合で、光源に近付き過ぎた虫はあえなく「キモっ」の一言で焼き殺されるのだ。分かっているのに、虫は季節を問わず何度でも火に飛び込む。

「へー。じゃあ、おじいさんに色々教えてもらったんすね。いーなー。うち、父方も母方も祖父母が遠方なんすよ。父方が東京で、母方なんかスコットランド!」

 羨ましそうに発せられた喜久井の言葉には、ひと含みの嘘も打算も感じられない。だからかえって胡散臭い。

「……お前、悩みなさそうってよく言われない?」

「あ、やっぱそう見えます?」

「そうとしか見えない」

「ちぇー。こう見えて、結構いろんなこと気にしいなのにな」

「だとしても、そういうとこ人から隠すタイプだろお前」

 夕真がそう言うと喜久井は一瞬だけぎょっとしたような目をして、それに驚いた夕真の目も泳いだ。反応が、予想の真反対だったからだ。

 しかし喜久井は、すぐにその反応を覆い隠すような薄ら笑いで「えー?」と阿るような声を上げる。

「なんでそう思うんすか?」

「別に。ただの偏見」

「なんすかヘンケンってウケる! 先輩、ワードセンス独特すぎでしょ!」

 “偏見”の言葉の意味も分かっていなさそうな喜久井は、また大袈裟なほど手を叩きながらケラケラ笑っている。そんな仕草はやっぱりどことなく、サルのおもちゃに似ていると思った。

 喜久井はおもちゃと同じように、人を喜ばせるために手を叩いて笑うんだろう。

 本当は写真にもカメラにも興味なんかないくせに、ニコニコ笑って接待トーク。

 これは偏見以外のなんでもないが、人の顔色を伺いながら場の空気に合わせて振る舞いを変える人間には大抵、隠しておきたい本性がある。ソースは夕真自身だ。

「……喜久井は、いつから陸上やってるんだ?」

 おもちゃみたいな空笑いを見ていられなくて、話の矛先を変える。

「おれっすか? おれも先輩と一緒で、小学生の時っす」

 喜久井は夕真の準備したストレッジボックスをクラブバッグに詰め、チャックを締めると「あざっす!」と軽い会釈をしてから話を続けた。

「少年団でサッカーやりながらたまに駅伝とか出てたんすけど、中学入ってから陸上一本に絞ったんすよ」

「ふうん。……走るのって楽しいか」

 夕真もまた帰り支度をしながら、何気なく聞いた。本当にこれといった意図のない質問だった。強いて言えば、予想通りの答えを聞いて安心したかっただけの。

「そうですねえ……」

 けれど、そう発した喜久井の声に陰りがあるような気がして顔を上げる。

 すると喜久井は軽率な問いかけをした夕真を共犯関係へ誘うように、緑色の瞳を細めて答えた。

「楽しいですよ。走ってる時はほかのこと考えなくていいから。おれは、走ってる間だけが楽しい。あとは全部苦しい」

 喜久井は窓の外に広がる夜を背負い、口の前に指を立てて妖しく笑う。

「秘密ですよ。おれ、見てのとーりそういうキャラじゃないんで」

 そんなことを突然打ち明けられ、戸惑いのままに「へえ」としか返すことができなかった。

「……なんでそんなこと俺に言うの」

「なんでって、聞かれたから」

「それは違うだろ」

「ちがわないですー。おれは聞かれたことに正直に答えただけですー」

「だから、なんで正直に答えるんだって聞いてんの。しまっとけよそういうのは」

 部室を施錠する夕真の横で、喜久井は「ああ、なんだ。そっちか」と拍子抜けしたような声を出す。

「だってなんか、先輩にはそういうのバレてるみたいだし。だったら取り繕うだけ損じゃないすか。そうする意味もないんだろうし。素のままでいていいなら、おれはそっちの方が楽なんで」

 夕真の脳裏に、自分の切り取ったあの瞬間が浮かんだ。喜久井が怯え、喜久井を追い立てていたものの正体が、今の言葉に集約されている気がする。

 けれど、それには確かにものすごく好奇心を掻き立てられていたはずなのに、分かってしまうと「そんなこと知って、俺に一体何ができるって言うんだ」という戸惑いと後悔ばかりが先に立って目が泳ぐ。

「……取り繕っといてくれよ。荷が重い」

「そんなあ。っていうか、先にデリカシーないこと言ってきたのそっちでしょ」

 ずばりと指摘されてしまい、何も言い返せない。

「そうだあと先輩、あんな風にコソコソしてないで堂々と写真撮りに来たらいいじゃないすか。写真部なんすから」

「コソコソはしてない断じてしてない」

「いや、完全に文春ムーブしてましたって。かえって目立ってましたけど」

 流れで一緒に外へ出てきたが、昼休みと違ってより明確にこちらの内心へ踏み込んでくる喜久井はやっぱり輪をかけて鬱陶しかった。そしてまた、残念なことに向こうの方が正論を言っているのが分かるだけに余計たちが悪い。

「来月またレースあるんで、今度は練習も堂々と撮りに来てくださいよ。俺に頼まれたってことにしてもらっていいんで! ね?」

 が、それは確かに魅力的な申し出ではあった。不可抗力とは言え、県大会の写真をカラーで残せなかったのはやっぱり少し心残りだったのだ。

「……いいけど、約束はできないよ。模試とかあるし」

「ああ。先輩、受験する感じっすか。この時期まだ部活出てるってことは、推薦とかで進路決まってるんだって思ってました」

「は? 今日はお前の写真プリントするために残ってたんですけど」

「ああっ!」

「取り繕ってないとお前、ほんとナチュラルにうざいな……」

 何を開き直っているのか、喜久井は手を叩きながらケラケラと笑っている。

 不規則に吐き出される白い息が、顔の周りを煙幕のように取り巻いていた。

 太陽みたいな笑顔は直視すると目に痛いので、そのくらいの雲がかかっていてくれるのがちょうどいい。

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