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きし方とゆく末①

 年の瀬も押し迫った十二月二十九日。夕方に発表された箱根駅伝の区間エントリーは様々な媒体で波風を立てた。

 一番のトピックは東体大一年・松本遥希の二区起用だ。それまでに叩き出してきた一万メートル二十六分台に迫る記録から言えば、順当と言えば順当。というより、彼に限って言えば一年だてらの二区起用というより留学生たちとの区間新記録争いに注目が集まっている。

 その影に隠れて──と言ってはなんだが、青嵐大のエントリーもなかなかどうして物議を醸していた。

 青嵐大駅伝部において一番の注目株は、やはり遥希の兄である有希のエントリーだ。彼は補欠に回っているので、当然のこと当日変更で入れ替えが発生するはずと誰もが予想している。予選会こそ体調不良で棄権となったが、その後の記録会においては有希もまた遥希に肉薄した記録を出しているためだ。

 しかし、層が薄い青嵐大のエントリーでは当日変更を行うとしたって限りがある。

 普通、エース級の走力を持った選手を投入するなら二区や九区、十区のような長距離区間が定石だ。しかし青嵐大の事前エントリーでは既に、いずれの区間にも三、四年の外せないメンバーが配置されている。

 主務を兼ねてきたユメタは二区にエントリーされているが、準備が間に合っていないのではないか。はたまた十区の喜久井は怪我の再発か。あるいは、松本有希は山の神として降臨するのか──世間では様々な下馬評が囁かれている。

 しかし夕真の目から見た駅伝部のメンバーは、主力の上級生も下級生たちの様子もすこぶる良好。五区と六区にそれぞれ配置された如月と濱田はどうやらたまに別メニューで坂道の対策を練っているようだが、それ以外のメンバーはいつもと何ら変わらない練習をしている。

 大晦日に至っては、練習もそこそこに午後の早い時間から三浦ハウスの庭先で餅つきが催された。三ヶ日の兵料づくりも兼ねて──とのことだが、いかにもイベント好きが高じて企業までしたノブタやユメタの考えそうなことだ。

 弥生さんが舵取りをし、蒸しあがった餅米が駅伝部の中でも力自慢のメンバーたちによってぺたんぺたんと突かれていく。

 そのうちにちらほらと近所のご老人たちや奥様たちも顔を出しはじめ、三浦ハウスのお勝手は大量の米に野菜、それにおせちや惣菜の密閉容器で溢れかえった。

「──喜久井。納豆とネギ混ぜ終わったけど。次は?」

「あざす! じゃあこっちの大根、もう皮剥いてあるんでおろしちゃってもらえます?」

「わかった」

 鍋いっぱいのお雑煮を仕込んでいる弥生さんの後ろで、夕真は喜久井とつきたての餅に添えるトッピングの準備に勤んだ。改めて見ると喜久井の包丁捌きはなかなかのものだ。三年間に渡る朝食当番の成果だろうか。それとも、実家でも日常的に台所には立っていたのか──。

「……先輩。どんなに熱い視線で見つめてくれたって、こればっかりはお漏らしするわけにはいかねーっす」

 包丁を置き、顔を上げた喜久井と目が合う。開口一番にわけの分からないことを言われ、思わず眉間に皺を寄せた。

「は? お漏らしって何……」

「またまた。どーせ箱根の区間エントリーのことでも考えてたんでしょ?」

 喜久井は知ったような口ぶりで言ってはやれやれと息を吐いたが、そんな彼のドヤ顔とは裏腹に憶測は全くもって掠りもしていなかったので「ああー」と思わず声が出た。

「流石にお前が口を割るとは思ってない。ただ、結構包丁使うの上手いなと思って」

「とととっ、突然の褒められ!」

 夕真が何気なく発した言葉に対し、喜久井はあからさまに顔を赤くして「えへへ」と頭をかく。

「い、いやあ、実家でもわりと母親の手伝いとかお菓子作ったりとかはしてたんですけどね! でもいわゆる家庭料理的なのの段取りとか包丁の使い方は弥生さん仕込みですよ! この三年近くでいろんな料理教えてもらいました! ね!?」

 照れ隠しのためか早口で言って、コンロへ向かうエプロン姿の背中を見る喜久井。弥生さんは可笑しそうに肩を震わせながら火を弱め、鍋に蓋をして振り向いた。

「そうだね。今のメンバーで一番手伝ってくれるのが重陽くんかなあ。飲み込みも早いしね。この子は生活力があるよ。作るだけじゃなくて、後片付けの段取りもいいんだから」

「へえ。そうだったんですか。後片付けの段取り……」

 夕真と弥生さんが話している裏で、喜久井は確かにてきぱきと使った調理器具を洗い水切りの上へ並べていく。時折、得意げに夕真の方を見ながら。

「生活力かあ……そういうとこは、俺も見習わないとなあ」

「そうですよ先輩! あれから、貴重品はちゃんと鍵のかかるとこにしまってます? 通帳と印鑑、一緒にしてないでしょうね?」

「ししししまってるよ! っていうかもういいだろそれは!」

 もはや黒歴史と化している夏のできごとを蒸し返され、動揺のあまり大根を指ごとすりおろしそうになった。

「まあま、いいんじゃない? お互いにお互いの足りないところを補い合えればそれはそれで。生活力は重陽くんの方がありそうだけど、職業安定性は夕真くんの方が高そうだし」

「ですよねえ。アスリートのセカンドキャリア設計は難しいぜ? 引退後に身持ち崩した元アスリートを一体今まで何人見送って──……」

 そこまで発して、夕真ははたと気付いてしまった。

「……ちょっと待ってください。なんで俺と喜久井が〝補い合う〟前提の話に?」

「あら、素敵じゃない? 気の合うお友達同士で助け合って生活してくって。私くらいのおばちゃんたちなんか、集まったらいっつも『将来はみんなで同じ施設に入れたらいいよね』なんて話ばっかりしてるんだから」

 いや待て! 絶対今のはそういうニュアンスの話じゃなくなかったか!? と夕真は、にわかに目を泳がせる。喜久井は満更でもなさそうに、鼻歌なんか歌いながら上機嫌で夕真のおろした大根の水を切っている。

 年越しは、地方出身の下宿人はここで三浦家と共に。実家組の下級生はそれぞれの家で過ごすことになっている。レース直前だからといって特別なことはせず、いつもどおりに過ごした方がリラックスできてよかろうという土田コーチの計らいだ。

 例外は喜久井だ。いつも上野にある祖父母宅で年越しを過ごしている彼は、餅つき大会を中座し愛知から新幹線でやってくる母親を迎えに行くことになっている。──夕真と一緒に。

 確かに夕真は、気づけばかなりの年数を喜久井と過ごしてきた。夕真の〝友人〟の中では、もしかしたら一番付き合いが長くて濃いのが彼かもしれない。

 喜久井もあれでそこまで人にやすやすと心を開けっ広げにするタイプではないし、高校までのチームメイトやクラスメイトたちとはほとんど没交渉だという。

 もしかすると、友達の数で言えば喜久井も自分も案外似たり寄ったりなのかもしれない。そう考えれば、本人をして「過保護で心配性」な両親による「一人息子の友人を団欒へ招待しよう!」という発想も、まあそこまで突飛なものではないんだろう。

「──先輩。先輩! 次、降りますよ」

「ん? ああ。……もう着いたのか」

 と平静を装って口にしながらも「もう着いちゃったのか……っ!」と夕真は生唾を飲んだ。その真横で喜久井は、夕真の三倍は浅い呼吸で自分の携帯を凝視している。

「ど……どうした白い顔して」

「母がメリーさんなみに猛ライン送ってきてます」

 確かに、そう言っている間にも喜久井の携帯は小刻みにブルブルと細かく震え続けていた。

「え、な、なに。なんか怒ってんの? 遅刻とかは……してないよな」

 思わず夕真も腕時計を見た。新幹線の到着時刻までにはまだかなり余裕がある。東京へくる人に東京土産を、というのも少しマヌケな話ではあるが、菓子折りを見繕う時間だって見越して三浦ハウスを出てきた。

「いえ。怒っているというより……見たことないくらいはしゃいでますね。例えて言うなら、アニソンフェスで法被着てサイリウム振ってるおれや御科氏ぐらいはしゃいでます」

「お、おう……見たことないけど、なんとなくテンションは伝わったわ」

「じゃあよかったです。……本当なら、身内のそんなバカ高テンションなんて絶対人に見られたくないんですけどね」

 喜久井は、浅い呼吸を取り越し奥歯をガチガチ鳴らし始めた。何もそこまで言わなくても……と咄嗟に思ったが、実家で母が韓流アイドルのミュージックビデオを見ながら自作のうちわを振っているところは、確かに誰にも見られたくないかもしれない。

 要するに、喜久井の母親にとっては息子こそが推しも推されぬ〝最推し〟なのだ。彼を見ていると折に触れ、ああ、こいつはたくさん正しく愛されてここまで育ってきたんだなあ。と感じさせられることが多い。

 そりゃあ、自分だって両親や他の家族からないがしろにされてきたとは思わないし、自分だって家族のことは大切に思っている。けれど、喜久井は自分よりも人からの愛情を受け取るのが上手いんだろう。生い立ちや経験も関係しているかもしれない。

 これにはきっと色々な要素が絡み合っていて、一概に受け取れた愛情の総量がどうのこうのと言える話ではないと思う。が、何はともあれ、たぶんだけれど、お互いごく普通の家庭に育ったごく普通の男子大学生だが、喜久井エヴァンズ重陽の方がちょっとだけ──そう。器用だ。

 メリーさんこと喜久井の母(聞けば彼女のファーストネームは〝メアリー〟さんだそうなので、〝メリーさん〟でもあながち間違いではない)が小田原を過ぎた頃。夕真と重陽は新幹線の改札口に着いた。

「まだ時間あるし、ちょっと外見てく?」

 夕真は「東京ばな奈」の紙袋をぶら下げた手で、先の方に見える出口を指した。

「えー? 別にいいですって。何度も来てるし……明後日も来るんですし? それに、どうせ母が着いたらコース連れてけってせがまれますよ」

 そう応えた喜久井は、口ぶりとは全く裏腹な喜色満面で応えた。

 照れくさがりで、妙に遠慮がち。高校生の頃はそういうところが癪に触ったりもしたが、今となってはかえってそれも年下らしくて可愛く思える。

 というのは、あの頃よりも多少は自分に余裕が持てている。と思っていいんだろうか。などとぼんやり考えながら、夕真は自分の平たい後頭部をざりざりと摩った。

「そうか? じゃあ、いいけど……俺はもう一回、お前と二人で見ときたかったけどな。ほら、お前がオーキャンでこっち来た時、俺さ、スタートとゴールの場所間違えてただろ」

「あーっ! そんなこともありましたねえ!」

「……覚えてるくせに」

 思わず小声で言い返す。

「あ、やっぱバレてます?」

 喜久井はやっぱり、悪びれたところを見せずに肩を竦めて笑う。

「自分で『やっぱ』つっちゃってんじゃんよ。バレッバレだっつーの。昔から全然変わってないよなー。ほんとお前のそういうとこ──」

「らーらーらーっ! 聞こえない聞こえないっ! らーらーらーっ!!」

 なんか安心する。と言いかけた夕真の言葉を遮り、喜久井は耳を塞ぐ。

「どーせ『嫌い』でしょ? 知ってますよーだ。でも、おれはそういう先輩も好きですけどね!」

 その行いに夕真が眉を寄せると、喜久井は口を尖らせて拗ねながらもさらりと言った。

「ふてぶてしいヤツ。逆に羨ましいわ」

 この後に及んでもまだ憎まれ口を叩いている。そんな自分の上唇と下唇をギザギザに縫い付けてやりたい気持ちでいっぱいになった。そして、彼が言っていた「世界は自分の鏡なんです」という言葉が顔面にクリーンヒット。

 十八歳から二十二歳まで。他人も自分も大いに傷つけながら五年間積み重ねてきた初恋。その結果がこれである。

 ふとしたことではあるけれど、一事が万事。手を伸ばせば届きそうなところに見えるのに、どうした訳かいつだってすごくすごく遠い。

「──じゃあま、さくっと行きますか。急いで歩けば五分ちょいくらいで行けるでしょ」

 そう言うと、喜久井は夕真が片手にぶら下げている紙袋をさっと持ち去り早足で歩き出した。

「え、い、いいのか?」

「ええ。いいですよ。他ならぬ先輩の頼みですからね! それに、三十分ぼーっとホームに立ってんのも寒いし」

「……ありがとう」

 人波をかき分けていく背中に、小声で呟く。彼はちらりと夕真の方を見て一言「どういたしまして」と微笑んだ。

 箱根駅伝・復路のゴール地点──即ち十区のゴールは、讀賣新聞本社ビルと大手町ビルの間だ。

 その昔に夕真が往路のスタート地点とごっちゃにして覚えていた場所も同じビルの目の前ではあるものの、ゴール地点の方が「歴代優勝校銘板」や「箱根駅伝・絆の像」などがあってより観光名所然としている。

「今にして思えば、なんであん時間違えたのか意味分かんないんだよな……どう考えてもゴールの方が派手だろ」

「まあまあ。あの頃って先輩、陸上沼に浸かってまだ一年もしてない頃でしょ? それ考えたら別に路地の一本ぐらい、大した違いじゃないですって。──お、あったあった」

 ビル風の吹き荒ぶ路地の間に目を凝らしながら歩いていた喜久井は、絆の像のすぐそばにある街路樹のそばにしゃがみ込んだ。

「ここです。ここ! 本物のゴールライン!」

 今日一番の笑顔で喜久井が指差していたのは、歩道に埋め込まれた金色の板──紛うかたなき箱根駅伝のゴールラインだった。

「ここが……そうか。本物の……」

「ま、今なら先輩にとっても『ご存知!』って感じでしょうけどね」

「いや……こうやってちゃんと見るのは初めてかも。写真撮っとこ」

 そうして夕真が携帯で写真を撮っているのを、喜久井は真横で黙って見つめていた。風の冷たさで指はかじかむのに、眼差しの熱さで頬は火照る。

「……やっと走るんだな。箱根」

「おおっと。よもやよもや? ってヤツですか?」

「まさか。その反対だよ。……俺はずっと、お前のことは信じてた」

 立ち上がり、三日後に彼の駆けてくるコースを前にした夕真の顔を、強いビル風が叩いた。冷たくて痛い。いつかの夜に自転車で駆け抜けた時速二十キロの世界を思い出した。

 寒くて寂しくて、静かで虚しく美しい世界。

 自分の苦しみは自分だけのもので、どんなに必死で、ひとりきりで傷だらけになって乗り越えても、誰の目の前からも一瞬で過ぎ去ってしまうできごと。

「……長かったなあ。全然、一瞬なんかじゃないよ。走るって、すごいな」

 思ったままを口にして、喜久井の目を見る。彼の瞳はやっぱり、太陽をいくつも重ねたみたいにきらきら明るくて眩しい。

「そうかもしれない。──でも、おれたちはゴールがあるから走れるんですよ」

 夕日が沈む時に一瞬だけ見ることのできる緑色の光をその瞳に宿らせて、喜久井も立ち上がった。

「そろそろ行きましょうか」

「うん。行こう」

 さっと伸べられた手を思うがままに取り、ほんの数十メートルだけ手をつないで歩いた。


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