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予選会 -We must go- ④

「あははははは! あいつ、一体なんなんだ!? 十五キロ過ぎてあの加速力!! 信じらんねえ!!」

 土田コーチが高らかに上げた笑い声で、はっと我に返る。

「やばっ! タイム!!」

 シャッターを切るのと声援を送るのに夢中になっていて、レースの速報値を伝えるのをすっかり忘れていた。

「ま、いいべそれは。喜久井はもう大丈夫だろ」

 あっけらかんとそう言った土田コーチは、一瞬だけ晴れ晴れとした顔をして見せる。が、すぐに鳩尾あたりをさすりながら眉間に皺を寄せた。

「問題はノブタたちだ。十五キロ時点での確定順位……うちは十位まで上がってたけど、十一位との差が十秒もない。一、二年がどれだけ前に喰らいついていけるかが、正真正銘大マジで天国と地獄の分かれ道になる」

 それを聞いて、夕真の鳩尾もぎゅうっと悲鳴を上げたような気がした。予選会の現場に来るのは久しぶりだが、テレビ中継は毎年欠かさずチェックしていたので雰囲気はよく知っている。

 天国と地獄。土田コーチの言った通り、それが一番ぴったりの言葉だ。もし青嵐大が十一位、しかも十位との差が十秒もなかったとしたら──今日走った十一人は、自分が削り出すことのできなかった一秒未満を悔やみ一生このことを引きずるに違いない。

「きっとすぐにあいつらも来る。っていうか、来てもらわないと困る! ってわけで、ちょっとコイツ借りてっていい? もう少し手前で指示出ししてくる」

 土田コーチは有希の肩に手を乗せ、反対の手でコースの手前の方に親指を向けた。夕真は、先輩二人の間で視線を行き来させている有希に向かって頷いて見せる。

「……分かりました。頼みます」

「ありがとう。タマっちはここで写真に集中してて。そっちこそ頼んだぜ!」

 早口でそう言い残し、土田コーチは有希を連れて人混みの中に消えていった。コース沿いは何十メートルにも渡って鈴なりの人だかりが続いているが、出場チームのジャージを着ていれば詰めかけたギャラリーもきっと場所を譲ってくれるだろう。

 ほどなくして御科が。それからユメタが夕真の前を走り抜けて行った。次に駆けてきたのは意外なことに一年の濱田で、けれどその後すぐにノブタと一、二年たちが続け様に彼を追いかけていった。

 夕真ももちろん、彼らのひとりひとりに力の限り声援を送った。しかし、それが耳に入っているとは思えなかった。なぜなら夕真の前を駆け抜けていった彼らは一人残らず脇目もふらず、ただ一点前だけを見て必死に足を運んでいたからだ。

「ゔゔんっ──のどあめ買い忘れた……」

 そうして十一人を見送った頃には、夕真の喉はすっかり潰れていた。大会には毎年来ていたけれど自校の応援は実に三年ぶりで、やっぱり少し勝手を忘れていたようだ。

 そういやあの時は一袋平らげたんだっけ。と準備不足を悔いつつリュックにレンズをしまい、代わりにペットボトルを出す。

「……ああ、そんなこともあったなあ」

 五百ミリペットボトルに残っていた水を一息で空け、感慨とともに口元を拭った。三年前の予選会では確か、今日よりもずっと声を枯らしていたような気がする。

 それでも晩には「声が小さかった」って何度も顔面にグーパン食らって、一晩中ブーブー鼻血垂らしてたっけ……。

 夕真はそんなことを思い出しながら、空になったペットボトルを捻り潰す。そしてそれをリュックへ戻し、足早に結果発表の行われる広場を目指した。

 昭和記念公園で随一の広さを誇る「みんなの原っぱ」は、ゴール地点のすぐそばにある。そのため付近でレースを観戦していたギャラリーが結果発表も見届けようと集まり始めていて、ネットは輪をかけて繋がらなくなっていた。

 そんな中でも、各大学の陣営は広場のそこここにブルーシートを敷いたりテントを張ったりして控室がわりにしている。注目の新興校やいわゆる古豪の周りには、早くも多くのマスコミが詰めかけているようだ。

 一方の青嵐大陣営はというと閑散としたもので、マスコミと思われる人影はひとつもない。ただ、一人また一人と陣地へ戻ってくる今日の助っ人たちへ、弥生さんがニコニコしながら弁当を配っているのみだ。

「お疲れ様です弥生さん。──大丈夫ですかこいつら。生きてる?」

 ブルーシートの真ん中では、たった今レースを走破してきた十一人が漏れなくひっくり返って放心している。まさに死屍累々といった様相だ。

「ああ、夕真くん。お疲れ様。ま、あれだけの大激走をしてくればねえ……そりゃこうなるわ。とりあえずさっきバナナ食べさせたから、結果の出る頃には復活してるでしょう」

 なるほど。と夕真が相槌を打ったところで、片手にバナナの皮を握りしめた喜久井がゆらりと起き上がった。

「……お疲れ様です」

 どこかぼんやりした様子で夕真を見上げて目を細めた喜久井の顔は、まだ少し紅潮している。ほかのメンバーよりも肌が白いので、血色がより目立っているだけかもしれないが。

「お疲れ様。いい走りだったよ」

「やった! じゃあ、ちゃんとおれが一番カッコイイとこ撮ってくれました?」

「ああ──」

 少し強い風が吹いて、芝生のかけらがぱらぱらと舞い上がった。それはまだ汗の引いていない喜久井の顔に張り付き、彼はむず痒そうに頬を強く擦る。

「──当然だろ。今日はそのために来てんだから」

 なんだか無性にキスしたくなって、夕真は彼の前にしゃがみこんだ。けれどそんな脈絡のない衝動はぐっと堪えて、反対側の頬に付いている芝生のかけらを取ってやる。

 喜久井は一瞬だけ少し目を丸くして見せたが、すぐにまた、今度は照れ臭そうに目を細めて「へへ」と笑った。

「なんか変な感じ。先輩、そんな素直な人でしたっけ?」

「うるさいないいだろ別に。っていうか青スポの取材だしマジのマジで当然だから」

 痛いところを突かれ、結局早口で捲し立ててしまった。喜久井はそんな夕真の口ぶりにも慣れたもので「ああ。そういやそうですね」なんて応えてひとつくしゃみをした。

「はいお前らー。起きた起きた! 起きてとっととベンチコート着ろー。体冷やすなー。はい、そこも! いちゃいちゃしない!」

 そんなところへ土田コーチが有希とともに戻ってきて手を叩く。するとほかの出走メンバーたちもまたうめき声を上げながらのそのそと起き上がり、自分のクラブバッグからベンチコートやウインドブレーカーを引っ張り出しては着込み始める。

「えへへ。いちゃいちゃですって」

 喜久井もまた上機嫌で自分の鞄に腕を伸ばし、ニヤニヤしながら復唱した。

「いいからさっさと何か着ろ。いつまでもハイんなってんじゃないよ全く……」

 と小言を垂れる自分が、我ながら可愛くない。

 ああもう! もう!! 今日ぐらいは素直に労うべきだろうにこういうところが俺はダメ! いい加減にしろ織部夕真!!

 と夕真は内心で自分を叱りつけ、結果発表の行われる演台の方を見た。するとちょうど、スーツ姿の陸連幹部ふたり──片方は卯木だ──が、結果の記された大きなボードを壇上へ運び込んでいるところだった。

   *   *   *

 空は高く青く澄み渡り、柔らかく暖かな日差しの中ではエメラルドみたいな緑色をした草のかけらがパチパチと爆ぜている。

 そんな常軌を逸した美しい視界の中で夕真が日差しと同じくらい柔らかな微笑みを浮かべているものだから、重陽は「もしかしておれ……死んだ……? ここは……天……国……?」と、錯覚する。

「──いつまでもハイんなってんじゃないよ全く」

 が。彼が微笑みを浮かべた彼が、ものの数十秒でまたいつものクールな表情を浮かべるので「あ、おれ死んでないしこれ夢とかじゃないわ」と重陽は気を取り直しベンチコートを羽織った。

「さむっ……」

 現実を自覚すると、急に体温が下がったような気がした。風も冷たい。

「黙って立ってっと、フツーに十月下旬なみの体感温度なんだよなあ……」

 すぐそばには、普段に輪をかけて青白い顔でいる御科が幽霊のようにゆらりと佇んでいた。

「ハイってより、どっちかってーとダウナー入ってない? 全然実感ないっていうか」

「ダウ……ナー……」

「あ、やっぱいいです」

 とぼんやり聞き返した重陽の目を見て、御科はため息混じりに手のひらへ息を吐きかけ目を逸らす。そんな彼の目線を追ってみて、重陽はようやく彼の言葉の意味を理解した。

 御科の目線の先──みんなの原っぱに設えられた演台の上には、今まさにこの予選会のレース結果を発表するための大きなボードが運び込まれたところだった。

 少し間を開けてから、そのことに気がついた瞬間。重陽は「ヒエッ」と声ならぬ声を飲み込んで背筋を伸ばす。

「濱田! 綿貫! とっとと立つ! 御科は背筋伸ばす! 胸張って顔上げろー。どっから見られても恥ずかしくないようにしてろよー。……実際、どっから撮られてるか分かんないからな」

 声を張り上げ、もう一度手を叩いた土田コーチの顔は険しい。きっと二年半前のこと──丹後が逮捕されたあとのことを思い出しているんだろう。

 あの時も確かに、三浦ハウスは自分たちの預かり知らぬ時に何枚も写真を撮られていた。当然のこと頻繁に出入りをする土田コーチや下宿を始めたばかりの重陽もばっちり写っていて、ネットや週刊誌の記事を見た母親からの連絡がしばらく鬱陶しかったのをよく覚えている。

「喜久井。ぼーっとすんな。しゃきっとしろ」

「ユメタ先輩……」

「斜め前にいる二人組。あれ、確かネットニュース記者だ。お前が入ってきた頃にウチの周りをよくうろついてた」

「あ……」

 ユメタ主務が一瞥した方向へ目をやると、言われてみれば確かに見覚えのある二人組が自分たちを遠巻きにしていた。

「絶好のリベンジチャンスじゃんか。スマートにキメてやろうぜ」

 彼には予選通過の確信があるのだろうか。収支の黒字を計算している時と同じような笑みを口の端へ浮かべ、壇上を見据えている。重陽にはちょっと真似できそうにない。

 ややすると黒いバインダーを脇に抱えた連盟幹事が演台へ上がってきて、スタンドマイクの前で一礼した。みんなの原っぱを拍手が包む。

『──ただ今より、東京箱根間往復駅伝競走、予選会の結果発表を行います。本日の予選会からは、上位十校が、箱根駅伝本大会への出場権を獲得します。従いまして次回箱根駅伝は、シード校十校、予選会を通過した十校、そして、関東学生連合チームを加えた二十一チームが出場いたします』

 壇上の幹事が少し緊張したような手つきでバインダーを広げる。

『それでは結果を発表いたします』

 やがて拍手は止み、あたりは水を打ったように静かになった。

『第一位。──神奈川義塾大学』

 再びの拍手。そして、遠くの方から歓喜の声が聞こえた。とは言え神奈川義塾は、優勝経験も少なくはない強豪校だ。年始の前回大会で熾烈なシード権争いに絡んでいた。

『第二位。──帝都大学』

 同じように、こちらも納得の常連校。さすがにこの順位で「青嵐大学」の名前が出てくることはまずない。というのは、走っている時から分かっていた。箱根の山は険しく高い。

 三位から五位にも、ちょっとした番狂わせはあったものの聴き慣れた大学の名前が並んだ。六位と七位では、悲願の返り咲きを喜ぶ雄叫びがこだました。

 しかし重陽はそれを──というより青嵐大駅伝部のメンバーは全員、どこか別世界のできごとのように聴きながら黙って無感情に手を叩いている。

 本当に他人事と思っているわけではない。ひとえに、少しでもこの状況を自分とは切り離したところで捉えなければ心が潰れてしまいそうなのだ。少なくとも重陽はそうだ。

 箱根駅伝への切符を掴めたチームは、勝てて嬉しいから喜んでいるのではない。きっと生き残れた安堵に声を上げ咽び泣くのだ。

 そんな光景はどこかデスゲームに似ている。カウントアップ方式で壇上のボードから一枚また一枚と目隠しが取り外されていくごとに、どんどん足場が削られていくような心地がする。

『第八位。──鹿沼大学』

 全力は出し切ったが、課題の残るレースだった。給水前のポジショニングに、集団を力技で抜け出すための駆け引き。その判断のタイミング。後半の追い込みだって夕真が絶妙なポイントで声をかけてくれたので上手くいったが、そうでなかったらゴール直前でガス欠になっていただろう。

『第九位。──鴨緑大学』

 あの時もっと長く練習していれば。あの日もっと多くの距離を走っていれば。そんな後悔ばかりが走馬灯のように脳裏を駆け巡る。しかし過ぎた時間は返ってこない。何も取り返しがつかない。だから怖い。怖くて怖くて、今にも口から心臓がまろび出そうだ。

 ああ神様! 怠惰なおれをお許しください!! それから今までナメた口聞いてすみませんでした明日からちゃんとロザリオ持ち歩きますだからどうかお願いします!! おれたちを殺さないで!!

 重陽は辛抱たまらず目を瞑り、直立不動のままぎゅっと強く親指を握り込む。

「……大丈夫」

 とその時。重陽の冷え切った手を包み込んだものがあった。

「大丈夫。……いいレースだった。お前たちは負けない」

 すぐそばにいた夕真は、重陽の握り拳にそっと手を重ねたまま噛んで含めるように発した。その言葉がまるで預言のように聞こえ、瞠いたままの両目に滲んでいた涙がそのままこめかみを伝う。

『第十位。──』

 その場にいる誰もが固唾を飲んで壇上を見つめ、耳をそばだてた。──が。

『──及び第十一位は、映像判定の結果同一の記録が認められたため、上位十名の順位合計により成績が決定されました』

 ええええっ!? というどよめきと悲鳴の大波が、みんなの原っぱを一瞬で覆った。三浦兄弟はまるで鏡に映したような同じ動きで口元をおさえ、御科はポーカーフェイスに見えるが眼球を超高速で泳がせている。

 上京前、足の手術のために入院した時のことだ。重陽はベッドの上で暇を持て余し、ネットと電子書籍で箱根駅伝について調べられる限りを調べ尽くした。

 が。どの本でも過去のニュースでも、予選会で同立タイムが出た記録なんて見たことも聞いたこともない。

「そんなのアリかよ……っ!?」

 思わず、涙声で呟いた。夕真の手も震えていた。けれど彼は、震えながらもなお強く重陽の手を握ってくれていた。

 泣こうが喚こうが、結果はもう出ている。受け容れるしかない。それは分かっている。誰もがみんな分かっている。

 それでも祈らずにはいられない。ここでチームの名前が聞けるならたとえ寿命が半分になったって、いや、三分の一になったって構わない。そう思っている人間がこの広場にはきっと、余裕で百人以上はいるんだろう。

 しかしこのレースは──箱根駅伝予選会は、祈りや願いでどうにかなるような甘い大会ではない。自分の成果だけで奇跡を起こせるような夢みたいな大会でもない。

 天下の険の登山口はただ、そこへ踏み込むに足る速さと強さと機転を満たした者たちへ、来るべき時に口を開けるのみなのだ。

『第十位。──────────青嵐大学。記録、十時間四十八分十一秒』

 その瞬間。緊張の糸がプツンと音を立てて切れた。重陽は、音を立てて吸った息を吐けないまま夕真の顔を見た。

「え、い、今……」

 あまりのことに広場全体が戸惑いとどよめきに満たされ、不思議とどこからも大きな声が上がらなかった。重陽を見つめ返す夕真の目も、未だかつて見たことないくらいに大きく丸く瞠かれている。

「ああ……聞いた。俺も聞いたよ! 喜久井!! 夢じゃない!!」

 彼にそう言って両手で手を握ってもらって、ようやく重陽の体にも、じわじわとその結果が染み込んでくる。

『第十位。青嵐大学。記録、十時間四十八分十一秒。……以上の十校が、来年一月二日、三日に行われる東京箱根間往復駅伝競走に出場いたします』

 少し慌てたように、寸前よりも大きな声で壇上の幹事は繰り返した。それでなんだろうか。広場に集まった人たちはそこでようやく、思い思いに驚きや悲嘆の声を上げ始めた。

「やった……と、ですか……?」

 チームで最初に声を上げたのは綿貫だった。漫画みたいに腕で目元を擦りながら、眉間に皺を寄せて壇上のボードに目を凝らしている。

「いやそれ、漫画だったら完全にやってない……フラ……グ……ッ!」

 こんな状況下にあっても、御科は性分上、そう突っ込まずにはいられなかったんだろう。青い顔をした彼は紫色の唇からそんな言葉を零し、そのまま白目を剥いて後ろに引っくり返った。

「み、御科ーーーーッ!! しっかりしろーーーーッ!!」

 そんな彼にノブタ主将とユメタ主務が同時に駆け寄り、あわや地面に頭を強打というところでその背中を受け止める。しかし御科は、脱力したまま復活する様子がない。

「あ、あかんっす。腰抜けて動けねえ……箱根……マジすか……」

 同室の重陽でさえ、この二年半の間に一度だって聞いたことのない声で御科は呟いた。

「マジだよ! 御科!! 見ろよあのボード!! もっと高いとこじゃないと見えねえってか!?」

 ノブタ主将が声を震わせて笑いながらそう言ったのを合図に、チームと助っ人全員で御科を胴上げした。次に標的になったのは土田コーチで、重陽もまた三浦兄弟の次に宙を舞った。

 ──ただし、一回だけ。重陽の体は、胴上げするにはまだ少し重たいようだった。

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