ロングディスタンス⑨

 少し飲まない期間が続いただけで、酒にはずいぶん弱くなったと思う。

 一人暮らしをしていた頃は、ひとりで居ても誰かと居ても晩は昨夜開けたような強い酒を何本も呷っていたのに。

「……気持ち悪い」

 夕真は独り呻きながら体を起こし、枕元の携帯に手を伸ばした。焦点が合わないのは眼鏡をかけていないせいだ。

 覚えている。喜久井は部屋を出ていく前、ご丁寧に夕真の顔から眼鏡を外してノートパソコンのキーボードの上へ置いた。その時囁かれた「おやすみなさい」の低い響きが、浅い眠りから覚めた今でも耳元に甘く纏わり付いて離れない。

 その眼鏡をかけ、ベッドを降りた。見慣れた部屋の惨状に頭痛が増す。「どう考えても幻滅するなって方がおかしいだろ……」とこめかみを揉みながら、夕真はそろりと部屋を出た。

 窓の外は少しだけ白んで来てはいるが、この家ではまだ誰もが深い眠りの中にいる時間だ。床のきしむ音に気を配りながら、忍び足で洗面所へ向かう。

 歯磨き用に置いてある自分のコップで続け様に水を二杯飲み干して、かけたばかりの眼鏡をまた外して顔を洗った。

 ひっでえ顔。いつものことだけど。と心の中で自分を嘲った。その言葉がなんだか今朝はやけにちくちくと胸を刺す。

 鏡に写っているのはいつもと同じ、冴えない卑屈な自分の顔。けれど瞬きの度に、そんな織部夕真を「選んだ」男の顔がちらつくので胸が痛いのだ。

 自分のことは、正直なところやっぱりどうでもいい。ただ、喜久井が選び、喜久井を作っている彼の選択の中に「織部夕真」がいるなら。夕真にできることは──というか、自分がしなくてはならないことはどうやら、山のようにありそうだ。

「……掃除して、髪でも切るか」

 パーマもカラーも取れかけた長い前髪を、濡れたままかき上げて夕真は眼鏡をかけた。

 そうしてまたそろりそろりと部屋へ帰って、カーテンと窓を開ける。夜半に外を歩いている時は蒸し暑くて仕方がなかったが、夜明けの時間は流石に少し風が冷たい。

 まずはパソコンの周りに食べ散らかしたガムやら栄養補助食品やらの包み紙をくずかごへ片付け、記事を書くのに参照しては積みっぱなしにしていた資料やらスクラップブックやらをもとの場所へ戻そうとした。

 が、そもそも戻す場所をまだ作っていないことに、その時になってようやく気がついた。入院中に強制引っ越しを完遂され、運び込まれた段ボール箱から出してそのままだったのだ。

 胸に本とスクラップを抱えたまま、しばし立ち竦んで考えを巡らせる。

 元いた部屋で使っていたカラーボックスがここにないと言うことは、恐らくあのどさくさで壊れでもしたんだろう。しかし、ここだって年度末には出ていくのだ。絶賛借金返済中の身で、あんまり大きなものを買い足すのも躊躇われる。

 なんにせよ今すぐどうこうできることではないし、朝飯の時にでもノブタかユメタに不用品のラックか何かないか聞いてみよう。と決め、夕真はひとまずそれらを段ボール箱へ戻した。そして今度は、床に散らかした洗濯物の回収へ取り掛かる。

 靴下と肌着・下着が異様に多い。使い捨てにしていたというつもりは全くないものの、無意識に洗濯を怠けて買い足し続けていたんだろう。無駄遣いの極みだ。

 一方で、上京した頃にはしゃいで買った古着や小物。それに歴代彼氏たちに貰った多種多様な彼らの趣味が反映された服や下着の詰まった段ボールは、ダルマ落としなら最初に叩かなければならない位置で封さえ開けられていない。

 捨てよう! 一回全部捨てよう!!

 少しずつ明るくなり鳥の囀りが聞こえ始めた部屋で、夕真は誰にともなくそう呟いて頷いた。

 ひとまず積まれたままになっている段ボールを一度全て開封し、中身をひっくり返し、要るモノと要らないモノに分ける。

 服飾品はだいたい要らないモノだ。冬季レースの追うのに使い勝手が良いと思って自分で買ったアウトドアウェア以外は捨てる。本やスクラップ、書き溜めたメモのノートは要るモノだ。知識と経験の集合体──言わば、夕真の「選んできたモノ」はきっとこの先も財産になる。

 そうして「要るモノ」と「要らないモノ」を仕分けしていく作業は、否が応にも夕真に選択の機会を強いた。そして、その一つ一つを経る度に夕真は、今の自分を形創ってきたものの正体を否が応にも思い知らされたのだった。

 どうして自分ばっかりこんな目に! と思ってきた数年だった。けれど振り返ってみれば、そうした数多の痛みは夕真にとってほとんどが「要らないモノ」だったのだ。

 無駄な時間を過ごしてきた。そう考えると情けなくて鼻の奥がつんと痛む。けれど、夕真だって常に必死だった。力の限りを尽くして生きてきたと言っても過言ではない。

 そうして必死になって生きてきて、それでもこの程度。そう思うと死にたくなる。けれど時間はかかったものの、その末に今ここへたどり着いているいるのだとすれば。それはひとつのレースを走りきってゴールテープを切ったと言えるのかもしれない。

 自分の選んできたものが、自分の人生を形作っていくのだとすれば。それをひとつの基準とすると、夕真にとっての「要るモノ」と「要らないモノ」の仕分けは実に容易だった。

 夕真は写真と、陸上と、そして喜久井エヴァンズ重陽が好きだ。

 喜久井のことが「好きだ」というのはひとりのアスリートとして、というのもあるが、当然のこと性愛の対象としての「好きだ」も含まれる。けれどそれを押し殺して余りあるほどに、夕真はずっと自分のことが嫌いだったし自分のことを「好きだ」という人間のことも信用していなかった。

 その結果がこの遠回りだ。夕真が自分自身のことを認め、愛する気持ちを持っていたとするなら。自分たちは、彼が高二の終わりに走ったあのハーフマラソンの日に結ばれていたに違いない。

 けれど彼は、そんな夕真を選んでくれたという。夢のようなことだ。

 正確には、今まで見ていた悪い夢からはっと覚めたような心地がした。

 自分が彼の姿を写す鏡ならば、相応の姿で向かい合わなければならない。という想いが、気負いなく圧力もなく、まだ今よりは多少まともだった頃──たとえば、彼を初めてフィルムに納めたあの天気の良い朝に目を覚ました時のような形で──夕真の心の底に雫として落ちてきたのだ。

 なので夕真は今こうして、二日酔いの頭痛と下痢と吐き気と倦怠感をおして、脂汗をかきながら部屋の掃除をしている。

 何某かのハイになっている自覚はある。もしかしたら、今もまだ酔っ払っているのかもしれない。けれど、とても清々しい気分であるのは確かだ。

 今日を境に変われる気がした。少なくとも、変わろうという気持ちを強く持てているのだ。目に映る全てが山吹色の朝日に輝いて見える。

 あんまり機嫌の良かった夕真は鼻歌なんか口ずさみ、けれどその内に、視界が山吹色──もとい黄色がかって見えるのは疲労と睡眠不足が原因の霞み目であることに思い至り、情けなくは思ったがどうしてかそんな自分が可愛く思えてひとり笑った。

「──ノブタ。もしあったらでいいんだけど、カラーボックスかなんか……本棚的なモノで使ってないのあったら貸してもらえないか」

 朝食後のストレッチを終えたノブタに切り出すと、彼は「えっ」と声を上げて一瞬だけ目を瞠り、夕真の真意を察るようにじっと顔を覗き込んできた。

「キャビネットならちょうど次の粗大ゴミの日に捨てようと思ってたの一個あるけど……どういう風の吹き回し?」

「いや、ちょっと身辺整理を……」

「おいおいおいおい早まるなよタマっち。疲れてんのか? ちょっと休め? な? 顔色悪いぜ!?」

「ごめん今のは俺の言い方が悪かった。整理整頓だ。整理整頓!」

 ノブタに両肩を揺さぶられ、夕真は慌てて訂正する。顔色が悪いのはきっと二日酔いのせいだが、今にも世を儚んでしまいそうなほどなのだろうか。

「今更だけど、運んでもらった段ボール開けたんだよ。でも仕舞うところなくて床に積んじゃってるからさ」

「なんだよ驚かせんなよ……っていうかじゃあ、キャビネットじゃ小さいよな──あ、そうだ。おーい! 御科!」

 ノブタはくるりと踵を返し、濡れ縁に腰掛けて靴紐を結び直している御科を呼んだ。うっ。と息を詰まらせたのはきっと夕真ばかりではない。顔を上げた御科もまた、にわかに眉を寄せている。

 夕真は、彼には好かれていない自覚がある。理由も割合明らかだ。

 御科は喜久井と同じく丹後が熱心に口説き落としてきた地方の実力者で、彼もまた丹後を頼って上京したのだ。そんな彼が「DV野郎製造機」とまで言われた夕真をどう思っているかなど、わざわざ聞かなくても分かる。

「なんでしょう。主将」

「お前、この週末に本棚変えるっつってたよな。今使ってるやつタマっちに譲ってやれない?」

 彼は胡乱なものを見るように夕真を一瞥し、それから視点をノブタの方へ合わせた。

「……いいすよ。長いこと使ってたから結構ガタ来てますけど、それでもよければ」

 御科はそう言って口角を上げて見せたが、その笑みはあくまでノブタに向けられたものだ。そして、そんな彼の頑なさも理解して余りある。

 けれど、分かっていても、純粋な拒絶は結構堪える。

「あ、ありがとう。助かるよ。今度なんかお礼させて」

 ぎこちなく発した夕真に対して、御科は立ち上がって二度三度と屈伸をしながら、

「大丈夫っす」

 と抑揚のない声で言って、ようやくまともに夕真の顔を見た。

「捨てるのにも金かかるし、タダで引き取ってくれんなら儲けもんっすわ。あざっす」

 紛うかたなき──もとよりそれが全く得意ではないだろう彼が──愛想笑いを浮かべ、御科は小走りで後輩たちと話している喜久井へ駆け寄っていく。

 そんな彼の態度に夕真は、なんだか今までの自分のありようを眉間に突きつけられたような気がして胸元を掻きむしりたくなった。世界は鏡。だとするならば、夕真の鏡にはヒビが入りところどころ欠けていて、修繕へと取り掛かった手に容赦無く切り傷を付ける。

「──なーんて。とんだ感傷、乙」

 自転車の前輪を駅の駐輪場へ突っ込みながら、夕真は喜久井や御科の口調を真似て呟いた。相手の立場になってみれば、つい寸前に抱いたような感傷はなんだかひどく癪に障る。ありていな言葉で言えば「被害者ぶりやがって」とでも言ったところか。

 とは言えやはり、夕真にだって思うところがないわけではない。事実だけを追えば自分は確かに「被害者」であるし、払った犠牲だって数多ある。

 何より夕真は、今日の今日になってようやく「相手に不満があるなら、ぶん殴る前に別れ話だろ常識で考えて……」という当たり前のことに気が付いてしまった。

 今となっては丸一日前までの自分がどうしてそう思えなかったのかが理解できないのだが、これまでのことについて不思議と迷いなく、日の出とともに自然と「いや、おかしいだろ」と思うようになったのだ。

 という夕真の立場の言い分と、御科の立場の言い分は、おそらく全く矛盾しない。自分の傷は自分のもので、彼の傷は彼のもの。それだけのことだ。

 自分や御科だけではない。丹後尚武という人は──きっと、夕真と同じように──その行いで多くの人間の心に「傷」を負わせ、そして、同じだけ彼も「傷」を負ったに違いない。

 そして、その傷を癒すため、例えば御科は「恨み」を選び、夕真は「自虐」を選び、丹後は「暴力」を選んだ。

 それだけのこと。本当に、たったそれだけのことだ。選んだモノが法に触れるか触れないか、それだけの違いだ。同じように喜久井にも、土田コーチにも、ノブタやユメタにもきっと傷を手当てするために選んだモノがあるに違いない。

 もしかすると「箱根駅伝」という目標は、駅伝部にとって──特に喜久井ら三年生以上のメンバーにとっては──そうした手当の手段。自分たちの傷を塞ぎ、乗り越えていくために成さなければならないものなのかも知れない。

 丹後尚武という人の築いた基礎の上に、梁となり柱となり建っている城のような集団。彼らはその基礎が、少なくとも自分たちの中では腐ってはいないことを証明するため、ああも必死に走っているのかも知れない。

「──おお。織部。さっぱりしたじゃん」

 出勤前に髪を切り人生初のベリーショートにしてきた夕真を一目見て、編集長は目を丸くして声を上げた。

「俺の後頭部って、こんなに平らだったんですね……行ってた美容室で頑なに短髪止められてた理由がようやく分かりました」

「ああまあ、言われてみれば確かに……」

 肩ごと少し首を傾け、編集長は夕真が居心地悪そうに撫でる頭を一瞥する。

「まあでも、いいんじゃない? 前から見る分には似合ってるよ。っていうか、短髪にしたくて別のとこ行ったんだ。織部、結構髪とか服とかポリシーあるタイプじゃなかったっけ?」

「ああいえ、単に今日の今日なんで予約できなくて。駅中の千円カット行ってきました」

「千円カット?」

「はい。どうしても、今日このタイミングで短くしたくて」

 編集長はいかにも「意外だ」という風に声を裏返し、何度か目を瞬かせて見せた。そりゃそうなるよな。と夕真自身も納得の反応だ。

 けれど、元を辿れば自分はもともと「こう」だったような気もする。高校を卒業するまで、夕真の私服は全て母親の買ってきたものだった。もっともそういうところが当時のコンプレックスであり、後に夕真は教科書通りの「大学デビュー」を果たすことになるのだが。

 社員の先輩や出入りするフリーランスの記者たちにも夕真の短髪は概ね好評だった。すっきりした。明るく見える。とあんまり誰からも言われるので、今までどんだけ陰気に見えてたんだ……と反省したほどだ。

「織部くん、今朝のニュース見た? 大麻の一斉摘発」

 会社に訪れたフリーの記者へコーヒーを出した時だった。彼はどこか爛々と目を輝かせながら夕真に尋ねてきた。

「見ました見ました。テレビでちらっとだけでしたけど……山梨で二十四人でしたっけ。すごい人数ですよね」

 朝食中の食堂に流れていた関東地方のニュース。その最初のトピックスが、山梨県内の限界集落で大麻コミュニティを形成していた男女二十四名を一斉摘発した。という事件についてだった。

「いや、人数もそうなんだけどさ。織部くんがここ入ってきた頃に、カネダってちょっとやんちゃな奴がいただろ。彼が捕まっててさあ。びっくりしたよ」

 それを聞いて、夕真は思わず「ひっ」と息を飲む。

 忘れもしないあの大雪の夜。夕真が丹後に、酒と一緒に飲ませた睡眠薬をくれたのは彼だ。確かに彼は少し……いや、結構やんちゃな人で、その頃からもう脱法ドラッグなどに手を染めている風ではあった。

 けれど夕真にとってカネダは、要領も面倒見もいい「気安く話せるバイト先の先輩」だった。打ち解けていた。だから彼にだけは少し茶化して丹後にDV癖があることを話していて、彼は夕真に「殺されると思ったら使いな」と言ってあの強い睡眠薬をくれたのだ。

「──そうですか。カネダさんが……ながら見しちゃってて、気付きませんでした」

「なあ。びっくりだろ? まあでも、まだ大麻の内に捕まってよかったのかもなあ。覚醒剤よりはまだマシだ。依存性も求刑も」

「確かにそうですね。うまく自助グループとかと繋がって、立ち直ってくれたらいいんですけど」

 そんな話をしていたところへ外出中だった社員の先輩が帰ってきて、その先輩を待っていたフリーランスの彼は夕真の出したカップを片手に「じゃ、コーヒーごちそうさま」と言って席を立つ。

 それからは、全く仕事に身が入らなかった。自分が何か法に触れるような罪を犯したわけではないのに、誰かに見張られているような、無言で責められているような気がして仕方がない。なんだかずっと落ち着かず、何度も携帯でネットニュースを見た。

 ああするしかなかった。正当防衛だ。褒められたやり口じゃないけど、ああでもしなきゃ家から出られなかった!

 そんな夕真の弁解を聞くものは誰もいない。なので、誰にも「丹後尚武と薬物を繋いだのは織部夕真ではない」ことを証明してもらうこともできない。

 過去の自分に背中から撃たれた。そんな気分だった。幸か不幸か銃弾は夕真の頬を掠めただけで彼方へ消えていったが、自分の平らな後頭部にレーザーポインターの赤い点が浮かんでいる様が、何度も鮮明に脳裏を過ぎる。

 だからなのかも知れない。会社の入っているビルを出たところで彼に呼び止められても、特別驚きはしなかった。なんだか「そういうことが起こる」ような予感はしていたのだ。

「それ以上俺に近づいたら通報します」

 喉を震わせた声は自分の知っている自分の声の百倍弱々しかった。

 けれど、彼──丹後尚武は、夕真の言葉で足を止めた。

「確かまだ保護観察中ですよね。この距離でここでなら話してもいいです。それ以上一歩でも近付いたら本当に通報します俺は本気です」

 彼の履く靴のつま先を見たまま顔は上げられなかったが、緊急通報のボタンを表示させた携帯の画面をつきつけ夕真は台本を読み上げるようなつもりで発した。視界にある彼の靴が、俄かにアスファルトから浮き上がる。肩と首が縮み上がる。

 その瞬間。夕真は対話に応じたことをこれ以上はないというほど後悔した。これぞ「人生のケアレスミス」だ。

 どうして無視して立ち去るか黙って通報しなかったのか。直感でしかなかった。この機会に彼との過去を精算できなければ、自分は一生、姿のない「暴力」という概念の影に怯えながら生きていかなければならない未来が確定してしまう気がした。そんなのまっぴら御免だ。

 しかしこのざまである。彼の声を聞き、顔を見ただけで、動悸がして体が震え、がちがちと奥歯が鳴る。そして彼は、夕真の忠告を聞かず地面から足を上げて見せたのだ。が──。

「……わかった。それでいい。怖がらせて悪かった」

 丹後はそのまま一歩下がり、居住まいを正すように両足を揃える。

「何かしようと思って来たんじゃないんだ。ただ、昨夜のことを謝りたくて……せめて、顔を上げてくれないか」

 噛んで含めるような口ぶりで言われて、無性に腹が立った。誰のせいでこんなに情けなく俯いたままでいると思っているのか。

「何かって……こうやって、待ち伏せみたいなことをしてる時点でもう『何か』してるって、そういう自覚ないんですか」

「けど、こうでもしなきゃ──」

「それはそっちの勝手でしょう! 俺はあなたに会って話がしたいだなんて少しも思ってなかった! 思うわけがない!!」

 俯いていても分かる。そばを通り過ぎていった人はおろか、車道を挟んだ反対側の歩道からも好奇の視線が飛んできている。

 ビルの出入り口が国道沿いにあってよかった。心底そう思った。人の目があれば、彼だって下手なことはできないはずだ。そう思えばこそ夕真は声を上げられた。

「……だったらどうしてバイト先を変えなかった」

「それは──」

「お前は逃げようと思えばどこへだって逃げられたはずだ」

 相変わらず噛んで含めるような、まるでこの世で一番正しいことを諭すかのような落ち着いた口ぶりで彼は言った。

 夕真の背筋を脂汗が伝う。しかし同時に、あれから二年半あまりが経って、彼は今どんな顔で話しているのかを確かめずにはいられなかった。

「どうして……」

 携帯の画面をつきつけたまま、夕真は恐る恐る顔を上げる。

「どうして俺が逃げなきゃいけないんですか」

 昨夜は気付かなかったが、丹後は少し痩せたようだった。薄い水色のシャツにスラックスというこざっぱりした格好で、声とは裏腹にひどく迷いのある瞳で夕真を見つめている。

「どうして俺が! 自分で選んで作ってきた生活を捨てて! 逃げなくちゃならないんですか!!」

 夕真がその迷いのある瞳を見つめ返してそう発すると、彼はまるでうたた寝から揺り起こされでもしたように目を瞠った。

「たっ、確かに、俺にも悪いところが、たくさんあったと思います。あなっ、あなたは、情に篤くて正しい人だから、おっ、俺の不義理がゆっ、許せなかったのも分かります。あなたのことを、たくさん傷つけてしまったと思います。けどっ!」

 きっと、はたから見れば異常なのは自分の方だった。腰は引け、手は震え、乾いた喉からはつっかえつっかえの台詞しか出てこない。けれど夕真は、彼から目だけは逸らさずに、大きく息を吸ってから続ける。

「──俺の罪は、俺の罪。あなたの罪は、あなたの罪です」

 ビルの出入り口にあたる歩道の端でそうしてふたり、黙ったままお互いを見据えあった。

「……夕真は、自分も悪かったって、本当にそう思ってるのか?」

 少しして、やがて丹後の目が泳ぐ。

「……はい。心の底から思っています。だけど、俺は謝ろうとは思わない。あなたに謝って欲しいとも思ってない」

 丹後が、まるで足元の地面が崩れ落ちでもしたかのような顔をした。夕真はそんな姿の彼を見たことがなかったものの、どうしてか親近感を覚えて落ち着きを取り戻した。

 昨夜の俺と同じことが、この人にも起こっている。根拠はないが、そう確信した。

 悪夢にうなされている最中に「これは夢だ」と知覚したような、今までずっと認知を歪ませていた靄が一息で吹き飛んだような、そんな奇跡が今、彼の身にも起こっている。

「つまり夕真は、あくまで対話を拒むと?」

「そうしたい気持ちでいっぱいです」

「確かに、それだけのことを俺はしたものな」

「俯かないでください。俺はあなたと話をしている」

 夕真にも、自分の言葉は支離滅裂だという自覚があった。けれど言葉を選んでいる余裕などない。ひどく不安定で弱々しく見える彼のことを「大声で怒鳴りつけてやりたい」「ぼろぼろにしてやりたい」という衝動や、自分には当然それをする権利があるという思い込みと闘うので精一杯だ。

 けれど同時に、夕真はその感情と闘うことの難しさも思い知った。

 彼は一体、どれだけの間これと闘っていたのだろう。考えれば考えるほど胸が痛む。その時間に思いを馳せれば馳せるほど、屈してしまった彼を責められなくなる。

 ──が。要するにそれが自分の過ちで、屈してしまったということが彼の過ちなのだ。どちらも許されるべきではなく、どちらもずっと胸に抱えて生きなければならない、二つの独立した過ちだ。

「あなたのことが好きでした。それは本当です。……でも、一番じゃなかった」

 夕真がそう発すると、丹後は顔を上げ、悲しみとも憎しみともつかない目で再び夕真を見た。

「……今になって、ようやく認めるんだな」

 その声には、確かに恨みが込められていた。少なくとも夕真にはそういう響きで耳に届いた。

「そうか……。今になって、やっとか……」

 しかしその声色とは裏腹に、言い切った彼の表情にはひとひらの安堵も浮かんでいる。

「はい。──俺はずっと他の人を見ていて、その気持ちに蓋をしていた。それが俺の犯した間違いでした。これほど時間が経つまで気がつかなかったこともそうです。……そんな俺を傷つきながら愛してくれたことを、俺は今でもあなたに感謝しています」

 言葉にしてみると、いい思い出ばかりが蘇ってきて辛い。そして、そんな感傷に浸っている自分の都合の良さがたまらなく嫌だ。

「──だけど、それはそれ。これはこれだ」

 しかし夕真は、それをも「認める」ことで彼に応えたいと思った。そうすることで、もう開放されたかったのだ。自分で自分の過ちを責め続けることからも、人から大切に扱われることに対する罪悪感からも。

「俺はあなたを許さない。でも、見逃します。そういうことも、そういう人もいるんだって……できればあなたもそうしてください。俺が言いたいのはそれだけです。──では、これで」

 と目を逸らし、携帯の緊急通報モードを解除してポケットへしまう。

「夕真」

 呼び止められて顔を上げると、彼はその場に、じっと静かに佇んでいた。

「俺からも……二つだけ、伝えさせてくれないか」

 無視して立ち去ることも、しようと思えばできた。そうしなかったのは彼がまるで、出会った頃のような澄んだ瞳をしていたからだった。それで一気にその頃へ立ち戻ったような気がしてしまって、知らず識らずの内に笑みが溢れる。

「……それって、どうにかして一つに要約できないんですか? フツー一つでしょ。こういう時に『伝えたいこと』って言ったら」

「ご、ごめん。ちょっと、無理……かな」

 そうだった。彼にはそういうところもあった。夕真の前では抜けているところも多くて、味噌汁なんかを作ってもらった時には、決まって味が濃いの薄いのと繰り返している内に鍋をいっぱいにしていた。完璧じゃなくて、優しい人だった。

「いやまあ、別にいいですけど……」

 そんなことを思い出し、けれどすぐに「やっぱずるいなこの人」と我に返って夕真は口を引き結ぶ。そして、自分にできることは彼の「伝えたいこと」がなんであれ、毅然として距離を置くことだけだという意識を強く持ち直した。

「……で、なんです? 二つって」

 少しだけ警戒して見せながら夕真が促すと、丹後は「ああ、その……」と緊張気味に口を開く。

「ありがとう。これは言い訳だから、ただ、言わせてくれるだけでいい。──昨夜は偶然だったんだ。俺は素通りすべきだった。でも、できなかった。自分で自分がコントロールできなくて……今だってそうだ。俺は、お前に謝るべきですらない」

 苦しげに吐露する彼に歩み寄って、その肩を支えてやりたい気持ちで胸がいっぱいになった。しかし夕真はその気持ちを理論武装で制圧し、リアクションを差し控える。

 間違いなくここが正念場だ。ここで自分が彼に歩み寄れば、自分たちはまたあの血にまみれた共依存の日々を繰り返すに違いないのだ。

 それだけは、なんとしてでも避けなければならない。自分のために、彼のために、そして何より、自分たちに気持ちを分けてくれた多くの人たちのために。

「一つ目は終わりですね。二つ目は?」

 そんな夕真の決意が伝わったのか、彼は落ち着いた様子で再び口を開いた。

「俺が薬物に手を染めたことと、あの晩お前が俺に飲ませた薬の間に因果関係は一切ない」

 こちらの心の奥底をまっすぐに覗き込むような眼差しで丹後はそう言い切ると、丹後は懺悔でもするようにまたその目を逸らして早口で続ける。

「今朝、大麻のニュースであの頃の夕真の先輩の名前見て……お前、そういうの気にして背負い込むタイプだから、関係ないっていうのは伝えた方がいいんじゃないかと思って──居ても立ってもいられなくて」

「……そうですか」

 夕真には、そうして相槌を打つことが精一杯だった。

「あなたのことなんて全然思い出さなかったし、いい迷惑でしたけどね」

 そうして突き放すことが、夕真の精一杯の演技だった。

「……そうか」

 案の定、丹後は少し落胆した様子を見せながら目を伏せる。

「それならいいんだ」

 けれど清々しさを滲ませた目でそう言って、丹後はもう一度夕真を見据える。

「伝えたかったのはその二つだけだ。引き止めて悪かった」

 もうこれで、二度と会うことはないだろう。彼の目はそう言っていた。けれど口に出さなかったのはきっと、自分がそれを言うと脅迫になりかねないという自覚があるためなんだろう。

 夕真の惹かれた丹後尚武という人は、そういう聡い人だった。きっと、今でもそうなのだ。聡く、優しく、正しい人。けれどそのことと暴力性や心の弱さは、全くもって矛盾しない。

「──確かに、お伺いしました」

 夕真はできる限りの力で平静を装って応え、彼の背後数十メートルのところにある地下鉄の出入り口を一瞥した。

「用が済んだなら先にお帰りください。後を付けられていないかビクビクするのは嫌なので」

「わかった。……それじゃあ、これから寒くなるから体に気をつけて」

 そう言って彼は踵を返し、夕真に背を向けてゆっくりと、けれども確かな足取りで歩いて行った。あの頃庇っていた脚は随分よくなっているようだ。そのことについては、素直に「よかったな」と思う。

 丹後は地下への階段を降りる時に一度だけ振り向いたものの、もう夕真のことは見ない。

 夕真はそんな彼の姿が視界から消えてゆくと同時に、自分も踵を返し反対方向へ歩き出した。安堵とも惜別とも怒りとも悲しみとも喜びともつかない涙が頬を伝い、息を詰まらせる。ただひとつ──いや、ふたつ確かなことがあるとすれば、丹後尚武はやっぱり「ずるい男」だということと、紛れもなく彼もまた夕真にとっての「ヒーロー」だったということだ。

 彼の存在も彼と過ごした時間も夕真自身が選んできたもので、きっとその痕跡はどんなことがあっても夕真の人生からは絶対になくならないものなんだろう。そのことが夕真は、痛くて痛くてたまらない。けれど彼は最後の最後で、一番の「痛み」を持ち帰ってくれた。

 だからと言って、それだけで全てを帳消しにすることなんてできようもない。夕真の体には彼に付けられた傷跡が数多残っていて、今でも夕真は男の怒鳴り声が耳に入ったり、テレビや映画で暴力的なシーンが流れてくると息の仕方が分からなくなることがある。

 自分の心や体を力任せに作り替えられてしまった屈辱を、夕真は一生忘れないだろう。けれどいい意味でも悪い意味でも「それはそれ、これはこれ」なのだ。恨みと感謝は、少なくとも夕真の中では矛盾しない。彼の傍若無人を憎みながら誠実さを認めることができれば、自分の選び取ってきた人生に堂々とイエスが言えるような気がした。

 旧トラックへ向かうと、着いた頃には既にとっぷり日が暮れていた。けれど予選会を直前に控えたトラックはまだ、投光器の煌々とした白い光に照らされている。

 夕真は鞄からカメラを取り出し、縦長になって走っている彼らにレンズを向けた。先頭を引っ張っているのは喜久井だ。いつもは夕真がカメラを構えると目敏く目線を寄越してくる彼だが、今はあたりが暗いせいなのか走りに打ち込んでいるせいなのか、珍しくこちらに気付くような様子はない。

 しめしめ。とばかりに二度、三度とシャッターを切った。バックストレートに差し掛かる前にレンズを単焦点から望遠に替え、もう一度。

 その時だった。やっぱりレンズ越しに喜久井と目が合って、彼は「びっくり仰天」という言葉がこれ以上相応しい顔もないだろう。という様相で目を瞠った。

「──先輩! どーしたんすかそのアタマ!! 超かっこいいんですけど!?」

 練習メニューをこなした喜久井は、クールダウンもそこそこに駆け寄ってきては右から左から夕真のベリーショートをベタ褒めする。

「どうしたっていうか、別に……思いつき?」

「おおーっ、いっすねいっすね! ナイス思いつき!」

 昨日までの夕真なら、いつもの見え透いたおべっかだと思って取り合わなかっただろう。

 けれど今は、彼が心の底から自分にその言葉と笑顔を直球でぶつけてきているのが分かるだけに死ぬほど照れ臭い。いつかのように、夢に出そうだ。

「なんか、すっきりして見違えましたね。昨日までとは別人みたいです。あ、いやっ! 髪長いのが似合ってなかったとかじゃなくて!」

「そんな慌てなくても、分かってるよ。……俺も思ってるし。すっきりしたって。もっと早くこうすればよかったって」

 もっと早くこうすればよかった。どうしてもっと早くこうなれなかったのか。そんな後悔は、やっぱりとめどなく溢れてくる。

「いやいや。思い立ったが吉日ですよ。ってわけで、昨日でも明日でもなくて、今日が先輩の吉日ってコトです!」

 しかし喜久井は──夕真にとっての一番の「ヒーロー」は、その名の通り太陽をいくつも重ねたような笑顔で夕真の後悔さえも明るく照らすのだった。


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