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『うつ病の脳科学』を読んで、うつ病について思ったこと


この本を知った経緯

とくさんという人のTwitterをよく見ていた。noteもたまに。それで、とくさんがツイッターで挙げていたこの本の一部の引用と、タイトルを見て気になって読んでみた。きっかけになった投稿は忘れてしまったけれど、確か、うつ病のメカニズムについての話だった。

この半年くらい、初めて部下を持ったのだけれど、「部下のメンタルケア」も上司の仕事の一つと言われていて、あんまり無責任なことを適当にいうわけにもいかないし、できる限り正しい判断と対処をしたいので、基本的なところをを知るために買ってみた。

面白かったところをところどころ抜き出してまとめてみた。


精神科医、悪い奴説の真偽

精神科医の『診断』は、その人のエピソードがどうだとか、証言がなんだとか、そういうものを基準にしてはダメで、実際カラダにどんな症状が出ているかを優先的に見なければいけない。聞こうとしている内容は、その人のエピソードではなくどんな症状が出ているのか、というところだから、そちらを優先的に聞こうとすることで、「この人は話を聞いてくれない!」という不満になり、だから、「ろくに話も聞かずに薬だけ出す」というイメージがあるのだろうと思う。

精神薬は、というよりは、”薬自体”があまり良くないものとして扱われている気がする。特に精神疾患に関しては、感染症などと違って、薬を飲むことは対症療法であり、根本治療にはなり得ないので、”薬漬け”にされるだけ、みたいな批判がある。そういう人もいるのかもしれないけれど、それはその他大勢の、精神科医として働いているプロの人たちへの敬意がなさすぎだし、さっき書いた「症状をもとに診断しなければいけない」という方針の誤解があったのかもと思うと、納得だった。

精神科医や、精神薬に対して、ちょっと、「薬漬け論」に近い考えを持っていた自分の視野の狭さを感じた。大事なのは、薬の役割と医者の役割をきちんと知り、対症療法に加えて根本治療を目指すことだと思う。


うつ病(またはストレス下)の時の思考パターン


①全か無かの発想

「もうオシマイだ〜ムリ〜><」からの「おっしゃやったるわ!」とか、「俺はダメ人間だ〜」からの「いや、あいつがクズなんだ!」とか、「もう 仕事行くor死ぬ かしかないなぁ」とか。100ー0の発想になってしまう。これは脳の扁桃体(危機察知のための脳の部位)の反応による。自然界で身の危険を感じたら「戦う」「逃げる」の2択を瞬時に決めなければ、それが死に直結するから。

②過剰な一般化

「俺は"いつも"人に迷惑をかける」「”毎回”自分がゴミ出ししている気がする」「私のやることは”いつも”うまくいかない」など、なんでも”全て”とか”いつも”と思えてしまう状態。現実どうかということと関係なく、過度に被害を被っている感覚になったりする。

③ラベリング

「きっと〜〜なはず」「あいつは私を嫌っているに違いない」など。勝手に根拠なき自己判断をして、他人を決めつける。客観的な根拠は薄い。むしろ自分のものの見方を援護するような情報ばかりに目を向けてしまう。

鬱に対する「逃げればいいじゃん」の意味のなさ

ストレスとか鬱で扁桃体優位になると、発想がとにかく極端になって、前頭葉(脳の言葉や論理を司る場所)での思考や選択肢を増やすということができなくなる。

だから、発想がどんどん極端になっていった結果、「会社に行くか、死ぬか」みたいな2択になっているが、このとき本人は本当にその2つの選択肢しか挙がらない状況になっている。というか、それくらい疲弊しないと「死にたい」までが出てこないんだと思う。イメージ、パソコンやスマホとかがめちゃくちゃ暑くなって、アプリがクラッシュするか、しないか、くらいの状態。他の選択肢は、ない

もっと言い換えれば、前頭葉が麻痺して、扁桃体(脳の深部)の動きが優位になっているってことは、もはや酔っ払っているのと同じ(酔う=大脳の働きが麻痺する、だから)とも言える訳で、上記の「泥酔している人に、ちゃんと歩けばいいのに!」と言っているのと同じ、みたいな話になる。まず、酔ってる人がいたら、介抱をするし、その人の言う「大丈夫〜」「全然酔ってないから!」は信用しない。なぜなら、判断能力が皆無だから(笑)
そういう見方をすると、多少うつ病のことを深刻に見えるのではないだろうか?と思う。

仕事が原因にせよ、人間関係が原因にせよ、逃げるにも色々と考えなければならないことが多い。信頼できる味方のような人にも、自分を傷つける敵のような人のことも、色々と考えてしまう。というのも、誰かに「どうしてそういう行動をしたの?」と聞かれた時に、説明できなければいけないような気がする。何かを決断するということは、それだけでかなり力を使うということだし、決断した瞬間からその道を自分で歩いていくという責任も発生する。


自分の体験

自分も、大学生時代と、社会人になった後に1度ずつ、うつっぽくなったことがある。

大学生時代は本当にギリギリ手前で、うつ診断の基準の「何をしていても抑うつ気分が2週間以上続く」の、2週間ジャストくらいだった。

寝ても起きても、ご飯の時もとにかく鬱々とした気分。それがずっと続く。ひどい日は、起きている間はほぼほぼ動悸が止まらない。そんなバカなと思うかもしれないけれど、自分でもそう思う。思考もだけど、自律神経がおかしくなっていたと思う。常に誰かに見られている、プレッシャーをかけられているような感覚だった。ただ、その実体はなく、なんとなく”何か”からのプレッシャーを感じていた。すごく後になって感じるのは、あれはきっと自分だったんだろうと思う。

もともと比較的楽観的だった自分がこういう経験をしたことは、後になって自分の中で大きな発見で、精神的なもろさというのは、誰しも持っている可能性があるということと、体や生活のバランスを崩してしまうことで、そういう人生の落とし穴のようなところに落ちることが容易くあるということを学部ことができた。

社会人になってからの方は、1週間以下の数日間だったように思う。『成果を出さないと』と強迫観念に駆られていた時期があった。具体的な症状としては、仕事している時以外、1日中動悸が止まらなかった。別にキツい上司がいる訳でも、仕事が過度にしんどい訳でもなかった。仕事関係でプレッシャーがなかった訳ではないけれど、それよりも初めての社会人生活での反動って感じだったように思う。

何よりも、やっぱりびっくりしたのが、ごく普通の当たり前の状態から、急にそういう状態になったり、ということが、当たり前にあり得るということだった。だからこそそういう分野(うつ病や精神疾患)に興味を持ったし、多少なりとも共感できる部分が増えたというところもある。


うつとの付き合い方

風邪や怪我なんかには、周りの人は”労わり”が先に来るけど、精神的な病気や不調には、なぜか"憐れみ"が向けられやすい気がする。

その実は、多分慣れてないのと、無知だからだと思う。どうしていいかわからんけどとりあえず”かわいそう”みたいな。

不慣れと無知ゆえに、希望が見えないのでは?と思う。風邪ならウイルス、怪我なら事故という原因が明確で、治る流れもなんとなく見えたりする。精神的な不調は、みじかな割にわかっていないことが多すぎるし、僕らが知らないことが多すぎることが、ただの”かわいそう”から始まり、当事者に対する精神論的な話に繋がったりしていそうに思う。まずはその実態がよくわからないものに関しては、情報を知るべきだ。医療関係の話、体(生命)に関する話には、よくわからない部分があまりにも多い。

そもそも『当事者』とは、どの線から区別されるのか。僕は自分の経験を踏まえても、この本を読んだ上でも、やはり、どんな人にでも精神的不調というのは急に起こり得ることだという理解をした。そういう意味では、誰しもが当事者だ。また、身近な人が急に精神的な不調を訴えるということもあり得るだろう。

誰かを守ったり、支えたりするための”知識”という武器を、できるだけ持っていたいと思う。こういう、活用頻度が高そうなものについては特に。



〜番外編〜

この本には、後半『エピジェネティクス』について、色々と書いてあった。要は、遺伝以外でのDNAなどが体に及ぼすメカニズムについて。もっと簡単に言えば、生まれた後の環境要因などが遺伝子や体の作り、脳の構造などにどのように影響するか、そういうものの科学的なジャンルだ。

この『エピジェネティクス』というものの存在を知っただけでも、この本を買って読んだ価値があったと思う。「遺伝子をオンにする」とか、めちゃくちゃ胡散臭いと思っていた自分をまた反省した。シンプルに面白かったけど、それは自分が漫画脳だからなのかもしれない(笑)

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