見出し画像

月例落選 2022年1月号

今月載せるはずの原稿を先月に書いてしまったことに気が付いた。諸々の都合上、先月の記事を今月の記事としてここにほぼ再掲して、先月号の記事を書き直した。

羚の脚のようだと言われたら崖よじ登る野生を想ふ
(かもしかの あしのようだと いわれたら がけよじのぼる やせいをおもう)

街静か「テナント求む」看板が通り賑わす古き街並み
(まちしずか てなんともとむ かんばんが とおりにぎわす ふるきまちなみ)

外国の人がばらまく泡銭泡に踊りて足元寒し
(とつくにの ひとがばらまく あぶくぜに あわにおどりて あしもとさむし)

またひとり身近な人が世を去りて自分の番がひとつ近づく
(またひとり みぢかなひとが よをさりて じぶんのばんが ひとつちかづく)

我ながら何の工夫も無い歌ばかりだ。今日、『角川短歌』の1月号が届いた。

さて、1月号落選歌を順に見ていく。女性の細くスラッと長い脚を形容して「かもしかのような脚」などということがある。しかし、羚は山岳部に暮らす動物であり、大変逞しい四肢を有している。10月に高野山を訪れたとき、タクシーの中から急峻な崖に立って草を食む羚を見た。その崖をものともせずに平然としている様子を見て、待てよ、と思った。「羚のような脚」とは、実はこういうことだったのではないか。細くスラッと長い、というのは奈良公園あたりをウロウロしている鹿のことで、何かの弾みで鹿と羚が入れ替えられて定着してしまったのではないか。花札の絵にある「鶯」は明らかに「メジロ」だ。誤解が誤解のまま世に定着されたことは他にもたくさんあるのだろう。そういうものは下手に蒸し返さないほうが、たぶん、いい。誤解が定着するのは、大抵、どうでもいいことで、誤解の定着がたくさんあるということは、…ま、やめておこう。どうでもいいことだ。

二首目も10月に奈良に出かけた時に印象に残った風景を詠んだ。三条通りから南のならまちに伸びるアーケードがあるのだが、以前に比べると一層シャッター商店街化が著しく、「テナント求む」の貼り紙ばかりが目立っていた。そんな風景は今や日本の至る所に広がっている。まだ建物があって、「テナント」を求めているうちはいい。入居が無いままに時間ばかりが経過すれば、建物が傷み、或いは持ち主の懐が痛み、やがて使用に耐えない状況になる。そうなると、建物を壊して駐車場に転換されたりする様になる。そういう場所ばかりになるとアーケードの意味がなくなり、アーケードが撤去される。何年か前に佐賀でそういう場所を見た。土地の人から、この通りがアーケード商店街で、などと説明を受けるから、そうだったんだなと思うのだが、何も知らずに歩いたら、そんなことは全くわからなかっただろう。

つい数年前まで「インバウンド」ブームだった。他所から人を引っ張ってきて、降って沸いたような人波に、それまで程々の賑わいだったところが侵食されて居心地が悪くなってしまったところがたくさんあった。それが突然人波が引いて、かといって昔のご贔屓も戻っては来ず、そして誰もいなくった、なんていう寒々とした風景ばかりが広がった。ここへ来て人の動きが戻ってはきたものの、ここからをどう見るのだろう。目先を追って右往左往してバタンとコケた後味の悪さから何かを学ぶのか、喉元過ぎれば何とやらで、いつまでも目先を追い続けるのか。

10月初旬に知り合いが亡くなった。そのことはこのnoteに書いた。それだけのこと。


読んでいただくことが何よりのサポートです。よろしくお願いいたします。