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たまに短歌 少子化対策

お願いだカネを出すから産んでくれ
その後のことは知らないけれど

おねがいだ かねをだすから うんでくれ
そのごのことは しらないけれど

というのが、どこかの国の「少子化対策」とかいうものであるように見える。わかりやすいのは結構だが、政策として、つまり政治として、更に言えば人として、野卑で低俗に過ぎないかと思う。たまたま最近手にした『興福』の令和6年9月1日号の巻頭で興福寺寺務老院の多川俊映さんがこう書いている。

この問題ははなはだデリケートで、たしかに政治経済の問題でありながら、同時に、というか本質的に、一人々々の人生観というか人生そのもの、あるいは、いのちそのものに直結していて、そうした観点からいえば、政治や経済が声高に危機感を表明しても、なかなか納得感のある結論は得られない。というか、ある種の違和感さえ立ちはだかって止まないのだ。
 つまり、政治や経済の立場からみれば、出生率の低下・少子化は労働力の不足をきたして大問題かもしれないが、若い男女が自分たちの子供を望み・産もうとするとき、端的にいって、将来の労働力としての子どもを意識しているわけではないからだ。むろん、その子が成長して、社会に何らかの貢献してくれれば嬉しい、という淡いイメージはあるとしても、自分たちの子が「将来の労働力」だなんて、思いもよらぬことなのではあるまいか。

多川俊映『興福』第二〇五号 令和六年九月一日発行

少子化の何が問題なのか、という議論はあまり聞いたことがなく、よく見聞きするのは「20XX年には年金生活者一人をYY人分の年金保険料で支えないといけなくなる」とか、「生産年齢人口が現在からZZ%減少すると、日本の産業の競争力がどうこう」というような話ばかりのような気がする。政治・経済の世界では子供を潜在的生産要素としか見ておらず、生身の人間ではなくて機械や生産活動の資源と同列に置いた議論しかしていないのではないか。それは、政治や行政に携わる人たち自身が生きることの実感に乏しい暮らしをしているからではないか。人は経験を超えて発想できないものだ。

この国には少子化担当大臣なるものが居るらしい。2007年8月27日、第一次安倍改造内閣で設置され、初代大臣は上川陽子。現在は26代目で加藤鮎子である。大臣設置から17年で26代22名の大臣がいる。そもそも日本は首相の平均在任期間が短いので大臣の在任期間が短いのは仕方がないのだが、それにしても任期が1年に満たないようなポストでどのような仕事ができるものなのだろうか。ちなみに少子化担当大臣として最も長い在任期間であったのは第三次安倍内閣の第一次改造内閣と第二次改造内閣で連続して在任した加藤勝信だが、それにしても2015年10月7日から2017年8月3日までの約1年10ヶ月でしかない。そもそも大臣を設置する意味があるのか、という話だ。

ところで、この国では、政治家は国民の代表者として選挙で選出され、その政治家の中から総理大臣が選ばれて内閣を組織し、内閣が行政を取り仕切ることになっているはずだ。政治が野卑で低俗であるのは、そういう国民の国だから、ということになる。誠に面目ないことである。

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