月例落選 短歌編 2022年10月号
すっかり定着した観のある「月例落選」シリーズだ。『角川短歌』10月号への投函は雑詠が7月12日、題詠が13日。
題詠の兼題は「自由」。難しい言葉だ。日本語としていつ頃から使われるようになったのか知らないが、元からある言葉とは思えない。何物にも拘束されない「自分」というものが想定できたとして、その「自分」という独立した存在の思うがままという意味であるとするなら、単なる幻想だろう。ここでは「自由」の意味を問うことが目的ではなく、「自由」という言葉を歌に詠み込むという遊びなので、幻想云々はひとまずおいておく。
何ひとつ思うことなく徒然に白紙のままの自由研究
腹すかし食べたいものも特になくただ横たわる自由な暮らし
分かれ道行方を知らず立ち尽くす知らないことに自由などない
自分には独創性というものが欠けているので、「自由」というものは子供の頃から厄介だった。夏休みの宿題の自由研究などは殆ど拷問のように感じられたものだ。
食べ物の好き嫌いは今はない。社会人になって接待をしたりされたりするようになって、好きの嫌いのと言っていられなくなったからだ。つまり、社会人になる前はかなり偏食だった。幸いなことに、それでも食に関して不自由を感じることは無かった。今は、そこそこ健康に毎日を送っているが、更に齢を重ねて全ての面で気力が低下すれば、ただ寝ているというだけで、それ以外は「自由」な暮らしになるのかもしれない。
とりあえず、今、最後の晩餐に何が食べたいと問われれば、あつあつのご飯と納豆だ。納豆を筆頭に大豆やその他の豆と豆を使った加工食品が好きだ。今年の5月の連休に日帰りで水戸に遊びに行った。水戸といえば納豆だ。地元の当たり前のスーパーで地元メーカーの納豆をいくつか買い求めた。流石に旨いと思うものがあって、土地の文化というものを実感した。
雑詠は以下の4首。
運だめし求人応募宝くじお祈りメール運は温存
先駆けを追い越す暑さ百日紅風が気づいて冷やしにかかる
居抜きの巣燕の雛が無事育つ去年の不毛は記憶の隅へ
反対を地道に崩し基礎築く千切れた旗に「断固反対」
ちょっと今回の歌はどれも酷いと自分でも思う。できなければ無理に投稿しなくても良いのではないかと思わないこともないのだが、続けることで見えてくることはあるので、それが見たくてやめるにやめられないでいる。
5月28日の応募締め切りということで、ほぼ日が契約社員の募集をしていた。日本の会社の求人に応募するのは久しぶりなので、ちゃんと履歴書を書いて、写真店で写真を撮影し、一生懸命に応募書類を作った。最長3年とのことだったので、採用ということになれば63歳で契約満了となり、ちょうど良いのではないかと思ったのである。また、残り少ない人生なので、今までにやったことのないようなことをするのも面白いのではないかとも思った。問題は給与だった。時給1,250円。月に何時間の勤務になるのかわからなかったが、たぶん、今よりは労働時間が短い。収入は激減する。それで生活ができるのか。
5月といえば、ドリームジャンボ宝くじ。抽選は6月13日だった。宝くじを買うことはないのだが、宝くじ付き定期預金をしている。たまたまこの回は、その定期とは別の銀行のキャンペーンもあって通常よりわずかばかり多い枚数のくじがあった。
そこでこう考えた。もし、ほぼ日に就職が決まれば経済的に窮する。そこにジャンボがどーんと当たる。採用と当選はセットだ、と。くじと採用に何の因果もないけれど、そういうところに偶然があるというのが現実というものだ。就職のほうは、書類選考の後に面接などがあるだろうから、実際にはジャンボの抽選と面接の案内が同時くらいと踏んだ。なんとなくイケる気がした。
ところが、宝くじの抽選日6月13日に先立つ6月2日にほぼ日からメールが来た。タイミングが想定と違うことで、届いたメールを読む前に全てを悟った。
感じの良い文面だが、内容は良くない。つくづく思う。宝くじって当たらないなぁ、と。とりあえず、運は温存だ。
「運がいいとか悪いとか人は時々口にするけど、そういうことって確かにあると、あなたを見ててそう思う」だろうか。もう人生の残り時間は少なくなっているのだから、いつまでも温存しているわけにはいかない。ぼちぼちどーんと来ないとマズイのではないか。何がどうマズイのかわからないが。
私はかまわないのだが、運を管理している神とか仏の世界を心配している。あまり運不運を偏在させると神仏考課で賞与や翌年の年俸に響くのではないのか。今年はどこが当番なのだろう。その神社だか寺だか教会に御供え物を持って注意喚起に出かけないといけない。御供えは船橋屋のくず餅にしようか。
最後の歌はわからないだろう。今は京王線沿線に住んでいる。笹塚=仙川間が高架になる予定で、2014年に事業認可され、当初の予定では2023年3月末には完成しているはずだった。都内の住宅密集地域で、用地買収が容易ではないのは誰の目にも明らかだった。工事予定の沿線には「断固反対」とか「高架反対」の幟が無数に翻っていた。昨年あたりから沿線の空き地が急に増えたように見えた。一方で、「反対」の幟は減り、残った幟は朽ちてゆく。誰もが等しく満足して暮らすわけにはいかない。意思表示をして当座の利害を明らかにするのは当然だ。しかし、それだけで事は済むのだろうか。
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