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人生の夏休み

「課長わかりました。もう我慢の限界です。今すぐに会社を辞めさせていただきます」
「君、ちょっと待て。何をバカなことを言っているんだ!」
 戸惑う課長を無視した国沢は席を立ち、そのまま昼下がりのオフィスを退室した。「おい、誰かアイツを止めろ」

 課長の命令で、国沢よりも年下の社員3人がオフィスの入口付近に向かい、国沢の前に立ちふさがる。
「どけ!俺はもう会社を辞めたんだ」「そういうわけには行きません。課長の命令です。ここを通すわけには」
「うるせぇんだよ!」国沢はオフィスに響くような大声を張り上げる。席に座っていたほぼ全員の視線が国沢に突き刺さった。そして入口に立ちふさがる若手社員3人と、もみあいになる。しかし10歳以上若い社員3人が相手では、国沢に勝ち目はない。しばらく抵抗したが、ついにその場で抑えつけられてしまう。そしてこっちに向かって来たのは課長。
 不気味に笑いながら、口をゆがめて国沢の前に立つ。若手社員に抑えられて身動き取れない国沢は、課長を睨んだ。しかし課長は、銀縁の眼鏡を軽く直すと国沢の顔めがけて、思いっきり蹴りを入れる。
「うっ」
「ふん、無能なクセにでかい声を出して。お前なんか邪魔だから辞めてもらうのはうれしいが、そんな強引なやり方されたらこっちが困るんだよ。お前がおかしなことをしたせいで、俺様の出世に響くじゃねぇか」
「な、う・ウルセイ!」国沢は大声を出す。すると、また課長の蹴りが顔に向かって!

ーーー

 瞬間場面が変わる。「はあ、ああ夢かあ」国沢は嫌な夢を見たと思った。気がつけば上半身に汗をかいている。嫌な余韻が十数秒続いた。
 しかし、この後の気分は急に晴れやかになる。国沢はすでにその会社を、昨日退職していたからだ。
「あ、十時。そう俺はもう会社に行かなくていいんだ」国沢はそうつぶやくと昨日までのことを思い出す。
「あんな夢みたいな嫌な奴ではないけど、やっぱり年下の上司は苦手だった」国沢はベッドから起き上がると黒縁の眼鏡をかける。
 国沢は、大学を卒業してから15年務めていた会社を退職。彼が入社したときには業界の準大手クラスだったので、国沢の卒業した大学でも十分入社できた。しかし会社はどんどん成長。去年にはついに業界最大手にのし上がった。
「5年前に海外拠点ができて、そこに行くのをエントリーしたまでは良かったな。向こうの支社長と過ごしたクアラルンプールは、本当に楽しかった。年中夏みたいに暑いけど、いろんな民族がいてそれを見るだけで新鮮。カラフルなデザインのモスクも多くあったし、それ以上に活気があった」

 国沢は、テーブルに座り、冷蔵庫からコーラを取り出そうとしたが、ふと何かを思いつき止める。代わりに取り出したのは缶ビール。
「そうそう、今日から休み。まだ会社に籍はあるけど、溜まりに溜まった有給1か月分の大放出。だから飲んでいいんだ。1本くらいは」そう自分に言い聞かせると、缶ビールとグラスを用意。缶ビールのタブを引き、ふたを開ける。すると内部に溜まっていた炭酸がはじける音が、聞こえたような気がした。気にせずにコップに注ぐ。コップは下の方に黄金の液体。上には徐々に泡の層が増えて行く。国沢はまだ寝ぼけているのか、うまくビールが継げず、全部入れ終ったときは、半分近くが泡で覆いつくされていた。
「まあいいや」国沢は気にせずにコップのビールを口に付けた。コップから口の中に入る泡とビール。一瞬麦芽の甘いアロマを鼻から感じる。そのまま喉に押し込み喉の奥まで炭酸が染みわたった。やがてホップのものと思われる苦みが喉から上がってくる。それが口の中に心地よく広がった。
 だがそれ以上に平日の朝からビールを飲むというという、正月のような行為を、国沢はひとり楽しむ。気が付けばコップのビールを半分平らげていた。

「それが半年前に日本に戻ったのはいいけど。あの課長がなあ。あの会社も大きくなり過ぎたんだよ。彼は東大出てるから、すぐに出世したのはいいけど、何だかなあ人間味の薄い人だった。まあお互い大人だから、あんな夢みたいなこともなく、俺が自営業をしたいという口実で円満退職。
 そうだよ俺のために先週みんなで送別会までしてくれて、あのときの課長はいい人のような気がしたなあ。仕事に厳しい人だったのかな。それにしても夢では俺を羽交い絞めにしていたあの3人。俺を引きとめたあの若造たちは、みんな寂しそうだった。今となってはどっちが夢だから解らないわ」
 国沢は、コップに残ったビールをすべて飲み干すと、缶に少しだけ残っていた残りのビールを注いだ。
「ああ、8月かあ。天気が良いから今日も暑くなるかな」そう頭の中で呟くと国沢は思いっきり手を伸ばす。

「確か来年の5月に天皇が代替わりになる。平成も来年までか。そうああいう人も代が変わるように、俺の人生も次の段階。新しい道に進まないといけない。課長の存在はその後押しをしてくれたんだと、プラスで考えよう」
 そうひとりでつぶやきながら、残りのビールをすべて飲み干した。

「そうだ、せっかくの休みだから旅に出よう。マレーシア行ってみようかな。1週間ほど旅をしたら、この後どういう人生を送るか答えが出るかもしれない。うん、こんな機会はめったにないぞ。学生時代と同じ今は夏休み。そしてこれは、今までとは違う人生を歩むために与えられた、人生の夏休みなんだ」
 ビールを飲み終えた国沢は、次は冷蔵庫に入ってる冷え切ったペットボトルの水を取り出した。そしてキャップのふたを開けると、ボトルごと口に含む。
 ふと国沢は窓を見た。ちょうど天気も良く夏の青々とした空が広がっている。「その前にちょっと近くの公園まで散歩するか」そうつぶやくと、そのまま出かける準備を始めるのだった。


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こちらは36日目です

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シリーズ 日々掌編短編小説 203

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