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クラフトビールと店長の愚痴 第966話・9.17

「最近、疲れているんでしょうかね。テレビをつけっぱなしにして寝てるんですよ」ここは都内にあるクラフトビールの専門店。店長で、日本語が達者なフィリピン人ニコールサントスは、カウンター越しに常連客の相手をしている。

「そりゃあ、ダメですね。店長、しっかり休まないと」常連客のひとりのつぶやきに口元を緩めるニコール。「休みたいけどお店も大変だからね。それで疲れちゃってるのかしら。はあ、良い味出してるビールが多いのに」そう言って一瞬天井を見つめるニコール。それを聞いた常連客はついつい貢献したい気持ちになる。「だったら、よし、もう一杯だ。何がいいかなぁ」

 常連客は、そういって一杯のクラフトビールを注文する。そのやり取りを見て、カウンターの端にいる男がわずかに反応した。見た目は静かに黙り込み、視線をやや下方向に向けながら、ギネスビールのパイントグラスを傾けているが、心の中では少し笑っている。彼はニコールのパートナーの西岡信二。

「うまく常連客に勧めているなあ」そう思いつつ、静かにギネスの黒い液体を口の中に含んだ。

ーーーーー

 それから1時間が経過する。常連客はすでに店を後にしており、店のほかのスタッフも帰った状態。店内に残っているのは店長のニコールと、信二だけだ。
「お疲れさん」信二は他の客やスタッフがいなくなった瞬間、表情が和やかになる。それをみたニコールも口元を緩める。
「今日は、いつもより2時間も早く来たからびっくりした!」ここで口を開いたニコールの言葉には嘘が無い。信二もそれをわかっている。

「うん、今日はちょっと早く仕事が終わったんで、けっこう長居したな。でも早い時間からいると、本当にいろんな人が来るんだなって。横で見ていて楽しかった」そういうとグラスに残されたビールを一気飲み。
「もう一杯飲むわ」と本当は閉店時間間近だけど、そこはニコールは問題なく対処する。プライベートでは恋愛関係のあるパートナー。しかし、ニコールにはオーナーは別にいる雇われ店長のお店だから、会計上はちゃんとやる。

「はい」「うん、ありがとう」信二は、ギネスのパイントに口をつける。さっきまではちびちび飲んでいたのに、店内にはニコールしかいないことをよそに、一気にギネスをパイントグラスを傾け、口元と喉を動かしながら3分の1まで飲んだ。

「でもさ」飲み終わった信二が口を開く。「やっぱ。うまいなって思ったよトークが」「へえ、どこで?」ニコールの質問に信二は語りだす。
「テレビをつけっぱなしにしているほど疲れている。休みたいけど店が大変。それから良いビールがある。というところだよ、すごいわ」

 こうして信二がふた口目を飲むが、ニコールの表情が突然暗くなる。飲み終わったところでニコールが口を開く。「それ、トークというより結構本音なんだけど......」

「え?」この言葉に信二は戸惑う。そして少し動揺した。ニコールの発言の前にグラスをコースターの上に置いた後だったからよかったが、そうでなければビールを媚びしていたかもしれないような衝撃。
「本音って!ちょっと、テレビを消し忘れているほど疲れているのか?」ニコールは大きくうなづくと「だって、この後に、後片付けとかしてたら深夜何時だと」
 信二は次の言葉が出ない。むしろ何も考えずにギネスを注文したことに罪悪感すら沸き起こる。「ご、ごめん、でもゆっくりと」
「あ、シンジ。いいの、そういうつもりじゃない。ここでふたり一緒にいるの好きだから気にしないで!」ニコールは必死に否定する。

「そうか、でもテレビを消し忘れるほど疲れるのは」
「うん、テレビを見ずに寝ればいいんだけど、ついつい見ちゃうの」「何見るの」「いや、別に......」ニコールはそれから黙り込む。
「で、その休みたいけどというのも、休んでないの。いやそんなことは」信二は仕事柄出張が多い。だから毎週ニコールの休みごとに会っているわけでもないから少し不安だ」

「それは、最近スタッフがふたりやめちゃったから......」ニコールの表情が暗い。だがその問題は信二が対応できる話とは違う。
「ニコールは店長さんだもんな」ここで信二は一気にパイントグラスに入ったギネスビールを飲み干す。
「よし、今日はもう帰ろう」信二は空になったグラスをニコールに手渡した。

「よし、今日もニコールの家に行くよ」店からの帰り際。一応まだ一緒に住んでいないが、信二は一週間の大半をニコールの家にいる。
「いろいろ大変なんだなあ」「うん、愚痴っちゃったね」店を出ると、店長という鎧がとれたのか、ひとりのあどけない女性になるニコール。

「そんなのいいよ。そうだなあ、そろそろそっちに住もうかな」何気ない信二の声にニコールは反応する。「え、住もうって一緒に!」信二はうなづく。

 信二の頭の中では、今日のニコールの愚痴を聞いて、直接的にサポートはできないが、一緒に住むことによって少しでも改善できればという気がした。だから信二は思い切った決断ができたのだ。
「それ、うれしい!いつも一緒にいてくれるだけでいい!」ニコールが店では絶対に見せない満面の笑顔を見せると、そのまま信二に体を寄せてくる。
 信二はそれを見て、今回思い切って決断をしたことが正しいと確信した。

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