マスクに想う10年

午後2時46分。

黙とう。

あの2011年3月もマスクをしていた。

放射線が怖かったから。

この2021年3月の今もマスクをしている。

もちろん新型コロナウィルスを予防するため。


死ぬかもしれない、

そう恐怖を感じた、あの強く長い揺れ。

情報が欲しくてつけたTVに(我が家は何とか停電を逃れました)

進む津波と
飲み込まれそうになりながら必死で逃げる車の光景。

届かないとわかっていながら

逃げて~~~!と叫んでいた。

それは現実なのに、どうしても現実感のない映像だった。

10年という月日は、あっという間だったとも思うし

もっと遠い昔のようにも思える。

私の住むところは

名前はHAPPY ISLAND。

福の島です。

その中でも私の住む地域は、

避難を余儀なくされた人々に比べれば

被害は少なかった。

震災当時は、被災地の自覚はあったものの

この福の島に起こったことに向き合うスタンスが、
10年の間に県外の人とほぼ同じになってしまっている時もある。

それに気づいて唖然とする。


夫の母の故郷は
東京電力福島第一原子力発電所のある大熊町で

実家は原発から直線距離で3キロ。

帰還困難区域。

震災前には

その本家へ向かい国道6号線を南下していく途中

原子力発電所を眺めていた。

水色地に白のデザインは

私には青空に羽ばたく白い鳥に見え

その平和、安全をイメージするような建屋が
爆発事故であんな状態になったことは、
本当にショックだった。

事故直後、本家の皆は、

着の身着のままで全町避難となり、

あちこちと避難先が変わっていき、

最終的にたどり着いたのが会津。

仮設住宅住まいで数年過ごし、

その後、大熊の家をあきらめ

会津を終の棲家と、家も建てた。

雪の降らない浜通りで育った人たちも

会津の冬に慣れてきたという。


文章にすると、たかだか2行で終わってしまう。

でもその2行の行間には

大小の、濃淡の、様々な出来事と想いがあったはずだ。

きっと、今も、すっきり割り切って生きていくことはできないだろう。

でも、生きていかなければならない。

会津に移り住んだ本家の皆さんは

そこで新たな出会いがあって、家族ができた。

きっと、
もう自由に参ることのできなくなった、
大熊のお墓に眠る本家の叔父さんも
喜んでいると思う。

優しい人だったから。

福の島の人たちは、この10年必死に頑張ってきた。

風評被害とも戦い、

それでも日本酒でもお米でも

日本で一番となった。

未来を描くロボット研究の拠点もできた。

そうしてこれからも頑張っていくんだと思う。

私は、ただ小さな狭い世界でコツコツ生きていくだけだけど

県民として、ずっと見つめ続けていこうと思う。

廃炉まで30年くらい?

それまで私、生きているかなあ。



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