卒論のミカタⅡ(1)若紫巻が『源氏物語』の出発点であることの是非について

昭和女子大学名誉教授 久下裕利(Kuge Hirtoshi)
実践女子大学文芸資料研究所客員研究員

~『源氏物語』研究の最前線(1)~

◇若紫巻が『源氏物語』の出発点であることの是非について
 昭和女子大学定年退職後、2年ほど福家俊幸氏(早稲田大学教育学部教授)の尽力で早稲田大学教育学部で非常勤講師として教壇に立ちました。教室の建物は私が大学院生時代通った建物のままであった(指導教授の研究室がこの建物にあった。院生の授業は研究室で行なうのが常である)。その授業は主に平安時代の後期物語に関する講義でしたが、しばしば源氏物語に言及することがありました。そのような折、まじめそうな二人の女子学生から、授業後、源氏物語に関する質問を受け、最後にどのような本で勉強したらよいのかと聞かれました。そこで紹介したのが、『源氏物語の鑑賞と基礎知識』(至文堂、平成13年~16年)でした。同書はていねいな本文読解と基礎知識の修得には欠かせませんので、今でも推薦したいと思います。

 唐突ですが、夕顔物語の収束が明石物語の着想を牽引することになったのではないかという節があります。(これから述べようとすることは、研究領域で言えば、成立論ということになるでしょう)
 というのも、夕顔の父親は近衛の〈三位中将〉(三位中将に関して詳しくは神野志隆光「〈三位中将〉と『源氏物語』」。山中裕編『平安時代の歴史と文学・文学編』吉川弘文館、1981年11月刊、参照)であったが、「わが身のほどの心もとなさを思すめりしに」(夕顔巻)とあり、京での官位昇進がのぞめないうちに亡くなってしまったのである。また一方、明石の君の父親の入道も、大臣の孫でありながら、近衛中将を捨てて、播磨の守(横井孝「明石の入道と近衛中将の風景」『源氏物語の風景』武蔵野書院、2013年5月刊。なお、阿部秋生『源氏物語の研究序説』(東京大学出版会、1959年3月刊)は、近衛中将を捨て、播磨守に転身したことを前例のない史実として、その特異性を娘の栄達を望む入道の「異常な理由」を物語の企てにみますが、それも摂関政治の縮図でしょう。)の道を選んだのも「ひがもの」(若紫巻。「ひがもの」の系譜は『うつほ物語』の俊蔭から。)であるがゆえ、時流に乗れずに京官であることを諦め、地方に転出したのです。両者ともに近衛中将程度の官職では藤原氏の中でも特定のエリートしか昇進を望めなくなっている当時の世相が反映している設定となっているとみるべきでしょう。『枕草子』が「上達部は」の項に挙げる「権中納言」(神尾暢子「官職呼称の人間映像―堤中納言の権中納言」(『王朝国語の表現映像』新典社、1982年4月刊)は有名な論考)や「宰相の中将」(久下『王朝物語文学の研究』武蔵野書院、2012年5月刊。当論考における不備は、笹山晴生『古代衛府制度の研究』(東京大学出版会、1985年4月刊)参照。但し横井前掲論考も引く万寿2(1025)年の『小右記』の例は、紫式部の時代よりも後期物語にとって重要な宰相中将像考証に関わる点、当記述ではなく別に論じることになるでしょう。)「三位の中将」あるいは「君達は」の項に挙げる「頭の中将」「権の中将」「四位の少将」なども、摂関家の若年の子息(伊周:17歳宰相中将→18歳権中納言。隆家:15歳四位少将→16歳三位中将→17歳権中納言)をイメージしての指摘でしょう。

『源氏物語』では、光源氏は17歳で中将(帚木巻)、18歳で三位中将(紅葉賀巻)そして19歳で宰相中将となる。左大臣家の子息で光源氏のライバルとなる頭中将(正妻となった葵の上の兄。ほぼ源氏と同年齢)は、桐壺巻では蔵人少将(この時期、右大臣家の四の君と政略結婚。)帚木巻(雨夜の品定め)で夕顔との愛人関係が語られる時は中将で、二人の間に既に幼な子(のちの玉鬘)が誕生しています。

 光源氏が須磨で流謫生活の折り、右大臣側に憚らず旧交をあたために来た時期は宰相中将でした。光源氏が京に帰還する澪標巻で冷泉帝が即位すると権中納言となりました。史上では藤原斉信が頭中将(正暦五〈994〉年八月)から宰相中将(長徳二〈996〉年四月)になりますが、いち早く道隆側から道長側へくら換えします。『枕草子』「頭の中将のすずろなるそら言を聞きて」の頭中将が斉信です。頭中将という官職は一条朝の指標となる官職と言ってもよいでしょう。斉信は彰子中宮の近くに仕える権大夫から中宮大夫と信任厚く昇進出世していきます。要するに、一条朝の若年エリートの昇進コースとして頭中将→三位中将→宰相中将というのがパターンとして考えられ、それが源氏物語にも反映しているとみられます。
                     (2020年9月9日。つづく)

             ~ ※ ~

 話を元に戻しますが、夕顔物語と明石物語とが源氏物語の成立上、どのような関係性があるというのでしょうか。それを解き明かさないと、上記の官職説明も無意味になってしまいます。では成立論に関して、わかり易く言い換えますと、紫式部はどのような順番で物語を書き、発表していったのでしょうか、ということになります。この点に関しては、かつて最も話題となったのが武田宗俊の〈玉鬘系後記挿入説〉ですが、その根拠となるのが、玉鬘系の人物が誰一人として紫の上系の物語に登場していないということです。ですから、『源氏物語』は紫の上系の物語が最初にまず成立して、その完成後に玉鬘系の物語が書かれたための現象で、先に出来上がっていた紫の上系の物語に後に玉鬘系の物語を一括挿入して、一体化を図ったということになります。こうした物語の成立の順番を指摘した説で、『源氏物語』第一部と言われる桐壷巻から藤裏葉巻までの三十三帖は、紫の上系十七帖と玉鬘系十六帖とが合体して成り立ったということになります。
 しかし、私は玉鬘系の人物が紫の上系の物語に登場しないという現象は成立の順番、つまり書かれた順番を意味するのではなく、書かれた物語の創作母体と享受基盤の相違による問題だと考えています。しかし、それを実証するためには、数多くの本文事例を論破していかねばなりませんから、相当困難な道のりが想定されます。既に私は「末摘花巻の成立とその波紋」(昭和女子大学「学苑」939号、平成31年〈2019〉年1月)において、寛弘2年(1005)年12月29日の彰子との初お目見えに際し、紫式部は手土産として新作の物語二巻、つまり若紫巻と末摘花巻とを持参したと考えています。
 若紫巻は紫の上系十七帖を領導するストーリーメイキングの初期設定がなされているので、桐壷巻に先立って紫の上系では最初に書かれた巻だったのではないかと思われます。この点に関しては後に詳しく述べることにして、まず末摘花の件を先に片付けておくことにします。
 末摘花はその冒頭に「思へどもなほあかざりし夕顔の露に後(おく)れし心地を、年月経れど、思し忘れず……」(小学館新編全集①265頁)とあって、はかなく亡くなった夕顔の面影を慕って導かれてゆく恋の物語であることは明らかですから、玉鬘系の物語ということになります。それが何故初出仕の当日手土産として若紫巻とともに彰子に贈られることになるのか、という疑問が生ずるはずです。
 それは、紫式部が道長家の女房とて宮仕えに出る経緯に関わることですが、夕顔巻を含む帚木三帖は、具平親王家周辺サロンで育まれた物語で、それが世に評判になり、道長の正妻倫子(もちろん彰子の母)あたりまで聞き及ぶに至り、紫式部を物語作者として特別に召しかかえることになったのでしょう。

  ※斎藤正昭『紫式部伝』(笠間書院、平成17〈2005〉年)は、具平親王家周辺において、夫宣孝没後の寡居期に帚木三帖は書かれたとした。久下はそれを「『源氏物語成立の真相・序ー紫式部、具平親王家初出仕説の波紋ー」(昭和女子大学「学苑」934、平成30〈2018〉年8月)で追認した。評判の物語の作者が初お目見えの時に手ぶらで参上するとは礼儀として考えられませんし、そうであれば、必ずや新作の物語を持参したことでしょう。彰子とて夕顔巻ぐらいは女房に読み上げさせて知っていたと判断するのは容易でしょうから、夕顔亡き後の光源氏の恋物語がどうなっていくのかに関心を持たれていて、十七歳の彰子が待ち望んでいたとしても不思議ではないはずです。若紫巻よりも夕顔巻の続篇としての末摘花巻の方にむしろ興味を持たれていたとしても、それは当然の背景があったと言えそうです。
 作者にしても具平親王家ではなく、新たに道長家に出仕するに際し、文雅よりも権謀術数が渦巻く後宮に関わることになるという覚悟があったでしょうから、いちおうのけじめをつけておくことが賢明だとの判断があったでしょう。なぜなら帚木三帖は具平親王家周辺で育まれた物語であったからです。前掲の拙論「末摘花巻の成立とその波紋」では、末摘花巻の巻末の一文「かかる人々の末々(すえずえ)いかなりけむ。」の解釈について一歩踏み込んでの考えを示すことができませんでした。

 通常「かかる人々」とは、末摘花をはじめ空蝉や軒端荻などを指すと言われていますが、夕顔の遺児のちの玉鬘までを含めてよいと考えています。これらの女性たちは帚木三帖の作中人物たちで、末摘花もその流れにそった人物たちですから、いわば具平親王家周辺サロンでの創出造型による登場人物となり、新たに主人となる道長家において、それらの人物たちをそのまま持ち込む訳にはいかなかったはずです。作者にとってけじめを示す必要があったのだと思われます。つまり、「かかる人々の末々いかなりけむ。」とは、これらの女性たちのその後の展開について読者に期待をつなぐ文辞なのではなく、その将来について物語はこれ以上語らないから全ては読者の想像に任せるという作者からの放棄の宣言だったのではないでしょうか。
 末摘花巻は、具平親王家周辺サロンから創作基盤を道長家へと移行するための物語であったのでしょう。巻末には二条院で紫の君と鼻に紅を塗って光源氏が戯れている場面が設定されています。紫の君は若紫巻で新たに女主人公として造型されたのですから、このような場面の構築が帚木系の物語から若紫系の物語へと変換されていく過程にあるといえるでしょう。

※武田説は玉鬘系後記挿入説ですから、玉鬘の呼称をもって二系列の物語構成を表しますが、この説に批判的な立場にある当論考では、これ以下玉鬘系の呼称を改め、帚木系とし、紫の上系の方も若紫系とします。

 斎藤正昭は『源氏物語のモデルたち』(笠間書院、平成26〈2014〉年)において『源氏物語』の主要な作中人物のことごとくにモデルの存在を指摘していますが、虚構の物語に実在の人物が描かれているとは限らないですから、多くの場合、モデルというよりも作中人物に実在人物のイメージが付帯していると判断できましょう。そういう意味で、帚木三帖の光源氏は具平親王のイメージを負って造型されているとみられます。特に夕顔の廃院での怪死事件は、『河海抄』が準拠として挙げる河原院に於ける源融の亡霊に加えて、具平親王の逸話として残っています。『古今著聞集』「後中書王具平親王雑仕を最愛の事」で知られる雑仕女との愛の逃避行と怪死事件は、まんざら説話の世界だけのことではなかったようで、紫式部の伯父藤原為頼の長男伊祐の養子となった頼成は親王の御楽胤だったのです。雑仕女との遺児をストレートに頼成と結びつけることはできないにしても、具平親王にはそのような性向があったらしいことを窺わせる雑仕女との逸話なのです。紫式部は宇治十帖で再び浮舟という八の宮の隠し子を登場させることで、具平親王像の拡充を図っています。

※近藤富枝『紫式部の恋 「源氏物語」誕生の謎を解く』(河出文庫)では雑仕女大顔の件は、具平親王にとって不都合でスキャンダラスな事件ということで、帚木三帖を含む玉鬘系十六帖は具平親王薨後の作としています。

 末摘花巻は、夕顔巻を引き継ぎながら新しい主人となる彰子の後宮にも受け入れ易いように工夫された人物設定がなされています。それは常陸宮の姫君である末摘花のもとに光源氏を導く役割を任って新たに登場した女房の名前でした。

  左衛門の乳母(めのと)とて、大弍のさしつぎに思(おぼ)いたるがむ
  すめ、大輔命婦(たいふのみやうぶ)とて、内裏(うち)にさぶらふ、
  わかむどほりの兵部大輔なるむすめなりけり。いといたう色好める若人
  にてありけるを、君も召使ひなどしたまふ。(①266頁)

 大輔命婦なる女房から末摘花の情報を聞き知って光源氏は興味を抱くことになります。その大輔命婦の素性を記したのが、上の引用本文なのですが、大弍の乳母の次に大事に思っている左衛門の乳母の娘だと言うのですから、夕顔巻で病気見舞いに訪れた惟光の母である大弍の乳母絡みで紹介され、光源氏周辺の生活圏内の人物だということになります。乳母の子ということで親しみを持てたのでしょう。こうして大輔命婦の素性を明かす本文から夕顔巻の人物設定を引き継いでいる訳ですが、次に大輔命婦という呼称に注視してみますと、『紫式部日記』に同名の古参の女房が見えますし、『栄花物語』「初花」巻では、この大輔命婦から道長は彰子の初めての懐妊を聞き出しています。末摘花において大輔命婦という呼称の女房が登場する意義について斎藤正昭は次のように述べています。

  大輔命婦の物語登場は、彰子中宮サロンにおける『源氏物語』を拡充する一助になったばかりでなく、そうしたサロン内での円滑な人間関係を構築する意味においても、大いに貢献したと思われる。実際は年配にして古参の大輔命婦を、若く好色な人物に置き換えたところに、紫式部のウィットが覗(のぞ)かれる。(前掲『源氏物語のモデルたち』125頁)

 細かなところまで配慮を怠らない紫式部の物語創作で、末摘花巻の披露発表の場が彰子中宮サロンとなることを前提とした作意とみられよう。つまり、末摘花巻は、旧主家具平親王家周辺での物語であった夕顔巻を引き継ぎながら、新天地での新たな物語展開を模索した物語だったのだといえよう。

                       (2021.2.10記、つづく)

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