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〈遊びのエチカ〉好きなルールを見つける

遊びとはなんだろう。それは「楽しいゲームをすること」ではないだろうか。ゲームには必ずルールがある。自分が好きなルールが楽しいゲーム、すなわち遊びを生み出す。

一方、楽しくないゲームもある。楽しくないものは遊びじゃない。労働だ。金銭の有無は関係ない。自分が好きじゃない。ルールで動くゲームへの参加は、労働と言える。

遊びは自分らしさを感じられ、労働は他の人らしさしか感じられない。生きている間、できるだけ前者をしていたいと私たちは思う。皆、自分らしくあり、自分の本質を表現したいからだ。

自分らしくと言うのは心の底から楽しいかどうかでわかる。楽しいか全くそうでないかと極端に分けるより、どれぐらい楽しいと思っているかで自分に合った活動かどうかが分かる。合うのだから、そうでない場合に比べて、心も体も楽だ。楽しいことは楽なのだ。

嫌なことを30分無理やりさせられるより、好きなことを3時間集中したほうが楽である。これは驚くべきことのように思える。長い時間活動した方がエネルギーを使うので、疲れたり苦しかったりしそうなものだ。好きなことをして時間があっという間に過ぎてしまうのは、エネルギーの枯渇を感じにくいからだろう。苦しければ時を過ごすこと自体に大きな負荷が生じる。だから、時間の存在をお守りのように認識し、長く(重く)思えてしまう。

好きなルールのゲームで遊んでいれば、時間は軽やかに私たちを運んでくれる。爽やかな風に乗るみたいに。ゆえに私たちが遊ぶため、遊び続けるために必要なことは次の2つに集約される。

①好きなルールを見つける。
② ①で見つけたルールのゲームを実行する。

私たちが労働してしまうのは、2つのうちどちらかが欠けている時だ。

①の好きなルールを見つけるためには、いろいろなルールのゲームにまず参加してみる必要があり、どんなルールがあるのかは、人と関わったり、自然や道具と戯れたり、スポーツや勉強を教わったりなどしながら学ぶことになる。人間同士のルール、物理法則のルール、1人遊びのルール、何かを表現するためのルール。文章を書くには、母語の文字や文法のルールを知らないといけない。サッカーを楽しむためには、手を使ってはならないというルールを知らねばならない。

たくさんのルールに身を浸しているうちに、好きなルールとそうでないルールがわかってくる。それがわかれば①はクリアだ。これは人生と言うゲームのルールとも言える。

①ができれば②だ。ゲームを実行する。毎日の中で自分が楽しめるぐらいの時間をプレイに当てる。ゲームは種目や科目になっているものに限らない。「友達とのおしゃべり」だってゲームだ。そこにはルールが存在するから。友達と話している時、何をしゃべってもいいわけじゃない。独り言みたいに相手を無視してしゃべっても会話が成り立たず心地よくない。楽しくない。しっかり相手の言葉を聞き理解して反応し、それでいながら自分の発したい気持ちや伝えたいことを言葉に乗せなければならない。複雑なことをやっている。ルールはあるのだ。

でも、独り言よりも楽しい何かがあるから、私たちは「友達とおしゃべりする」というゲームで遊ぶ。ルールは、自分の自由を奪う制約だけを指すのではない。より自分らしく人生を楽しむための乗り物のようなものだ。自転車は乗る人の体の動きを制限してしまうけど、歩くより早く楽に、爽やかな風を受けながら私たちを進ませてくれる。自分に合う乗り物を見つけるという点で、好きなゲームを選ぶことは似ている。

このゲームを毎日程良い時間遊べたら、労働ばかりの人生よりはるかに楽しいはずだ。

②、すなわちゲームの実行を妨げるものはなんだろう?人間は皆、自分が好きなルールのゲームを楽しんで生きたいはずなのに、どうしてそうしてばかりいられないのだろう。

とても難しい問題だ。例えば幼い頃から絵を描くのが大好きだった子供がいる。彼/彼女は親の方針で芸術系でなく、一般的な会社勤めを押されたため、仕事で絵を描くことはなくなった。家庭も持って仕事や家事、育児して絵を描く発想すら出ない。そのまま子供が大きくなり、仕事を辞めることになるまで絵を描くことはない。久しぶりに時間がたっぷり余ったので描き始めたら、自分が絵を好きだったことを思い出す。なんて楽しいのだろうと感動する。なぜこの活動を長い間手放してしまっていたのだろうという悲しみも含みながら。

人は案外簡単に好きなゲームを手放す。金にならないからだ。プロの画家は絵を描き続けるだろう。あるいはイラストレーターとして稼いでいる場合も。だがそうではない場合、仕事や家事、育児などの「必要なこと」に時間や心が圧迫されてしまう。それらが自分の遊びとして楽しめるものなら、絵が無くても自分の「表現」は続いており、幸福だろう。しかしそうでない場合、純粋な労働のみで人生の半分ほどの時間が消費されることになる。

不思議な話だ。好きなことをしていたい人生で、好きなことをするためにお金を稼いでいるのに、お金にならないから好きなことができず、人生が楽しくないのである。

この矛盾はどこにあるのか。まず①ができていない。忘れている。自分の好きなゲームを探し、思い出す。そうしないとお金の使い道がわからず、いつの間にか消えていったり、無いと不安になり、稼ぎ続けてしまう。過剰に。好きなことに使うはずのお金を好きなことに使えていないと、「お金が足りないから好きなことができていないのではないか」と考えやすくなってゆくからだ。お金は道具であって、万能の薬でも神様でもない。好きなことをするために、人の力を借りるための道具だ。食べるのも、住むのも、好きなルールのゲームで遊ぶためのものだ。だから極論、好きなことを思う存分し続けられるなら、お金なんて1円も要らないのだ。

お金無しに人生を楽しむことは本来可能であって、プラス必要な分を欲するのが自然な経済的欲求であると言えよう。

もしかして、「②のルールを知っていながら実行できない」という問題は存在しないのではないだろうか。自分の遊びがどのようなものかを充分知っていて、あるいは思い出せているのなら、なんとしてでもその時間を作ろうとするはずだからだ。本当に大切だと思っているもののために、人は動く。

もし遊びを知っていながら、それを外から妨げられている場合、何とか遊びをしようと活動することが既に遊びなのではないだろうか。自由を手に入れるために戦うことは、すでに自由な心を持っていることになる。自由を手放すことを完全に許容してしまったとき、その人の心から自由が消える。遊びも、そのような原理が働いているのではないだろうか。

『進撃の巨人』の主人公エレン・イェーガーは、人類を食う巨人を駆逐し、自由を得るために戦っている。彼はそうしている時こそ最も自由であり、遊んでいるように見えた。しかし、誰と何のために戦っているのか分からなり始めた頃から、自分の自由のために欲しいルールがイメージできなくなり、不自由の中で労働に生きている印象を受ける。

人は自分が遊んでいるイメージを強く持ち、ワクワクしている限り遊び続けられる。ゆえに、課題は①に集約される。知ることだ。

自分が心から楽しいと思える遊びを見つけよう。知ろう。これこそが「遊びのエチカ」の大原則である。同時に、究極の目標でもある。

シンプルだ。知っていれば楽しい。

私は今、図書館で午前中に原稿用紙に万年筆で、ほどよく丁寧な字で、タイトルだけ決めて、後は自由に即興で原稿を書いている。このゲームが自分にとって最も楽しい遊びの1つだと知るまでに32年を費やした。

最高の遊びを見つけるのは結構大変で、いろいろ試していくことが必要なのだ。が、試しさえすればいいのがシンプルで良い。理科の実験みたいに、条件を少しずつ変えていきながら、つまらないルールだけ削って、楽しいルールを残していく運動を続ければいい。いや、むしろどの分野であっても、実はこの運動だけは共通している。この「ルール最適化」を始めた瞬間から、人は自由で、既に遊んでいるのだ。「自分ルールの最適化」である。

コツは、自分の楽しいことだけで1日を埋める理想のスケジュールを書いてみること。私は円グラフで翌日の24時間の理想系を毎晩書いているが、形式は合うものでいい。

楽しい理想スケジュールに書かれた活動のルールも、遂行する中でどんどん変えてゆく。すると心地よいゲームになり、それがまた円グラフの有り様を変容させていく。徐々にグラフは厚みや輝きを増していくはずだ。自分がプレイできる1番楽しい遊びが、毎日埋め尽くしていくのだから。

反対に、視覚化することで、労働の時間の存在も知れる。働く時間でなく、「好きじゃないルールのゲーム」のことだ。これをどうやって遊びに置き換えていくか、オセロみたいに労働をひっくり返して遊びを作り出していくか、というゲームが始まる。この時点で、すでに私たちは自由な遊びをスタートさせている。自分の至福に向けて動く活動ができることは至福なのだから。

いきなり自分にぴったり合った理想スケジュールなんて組めないだろう。最初はぐちゃぐちゃでいい。①の、好きなルールのゲームを見つけるために、毎日違う時間帯に違うことをしてみればいいし、全部できなくたっていい。そういうデータが得られるだけだ。

大切なのは、データを取得すること。それには仮説と結末の照合をするしかない。
「このスケジュールで動いたらどの部分が楽しくて、どこが大変かな。面倒で実行できないところはどこだろう」と。

これをするためには、今日や明日の理想スケジュールという仮説を紙に書いておくことが前提条件となる。これを多くの日重ねていくことで、理想スケジュールは自分の体に合った現実スケジュールとなっていく。

やる事はシンプルだ「意志の力」みたいなのは関係ない。やりたいことで固まったスケジュールは無理がない限りにおいて実行される。されなかったものは、「意志が弱かった」からではなくて「自分の好きなルールじゃなかった」という一言に尽きる。場所や時間帯や人や空気感や体調や分野やスタイルや道具なんかの、どこかが好きになれないのだ。そのどこが嫌いでどこが好きか、どれを変えられて、どれを妥協してもなおゲームを好きでいられるか、というデータは、実際に行動した時間、そして行動しなかった時間が与えてくれる。

そう、行動しなかったとしても有意義なのだ。理想スケジュールを書いている限りにおいて。それは自分の真の欲望と向き合うことだ。他人の欲望でなく、自分の欲望に真摯に向き合うことである。

理想スケジュールを書き出すという行為は、自分の欲望を可視化することである。モノじゃなくコト、どのような時間を過ごすということであって、モノは、そのための手段でしかない。ヒトすらもそうだ。

「愛するKとゆっくりとした時を過ごす」というコトにKというヒトは従属する。「愛するKと喧嘩をしたい」わけじゃないのだから。

可視化された欲望は、それを実行しなかったとしても、何らかの情報をくれる。「朝、自然の溢れる公園に行き読書する」というコトがスケジュールに書かれたが、できなかったとき、「読書は家でしたいのかも」「朝じゃなくて昼が良いかも」「朝が良かったのに、昨晩スマホでSNSを1時間も見ていたから起きれなかったんだ」などのルールの種が発見される。欲望で満ちた理想スケジュールを書いた瞬間、ルールの種は蒔かれたのである。

それらは時間が経てば育っていく。大なり小なり、色んな場所からたくさんの芽が出れば、残ったルールだけが花を咲かせ、「私だけの遊び畑」ができあがる。遊びは1日で手に入るものじゃない。畑や花壇のようにじっくり育てていくものである。

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