絵図を読む②「大阪狭山藩陣屋」 -地域のお宝さがし-80

前回は、大阪狭山藩陣屋の様相を見ましたが、今回は藩士住宅などを紹介します。

■陣屋の景観■
 狭山藩士は、小田原以来の旧臣と藩主の親族、河内移封後に召し抱えられた家臣に分かれます。旧臣は朝比家(分家2)・山上家(分家2)・井出家(分家3)、親族は舟越家・江馬家で、上級藩士に属します。上屋敷図の「大町筋」に面する広い敷地が、概ね上級藩士の住宅です(図1)。

図1

図1 上屋敷図

●土地拝領●
 上級藩士には土地のみが与えられ、住宅は各自で建築し、庭や菜園を設けたようです。拝領地は、明和年間(1764~71)では約200~1,000坪、平均約406坪で、旧臣や親族には平均よりも大きな敷地が与えられています(表1、注1)。

画像2

 拝領地は、安政4年(1857)には平均約443坪と増加しています。配領地が増加した要因として、田畑の用水に使われていた溝や道筋が屋敷地に取り込まれていったことが掲げられますが、この取り込みが、上屋敷における景観の変貌につながるものと思われます。
 一方、笠原家のように、中級藩士が土地を拝領する場合もあります。笠原家は、医師・儒官を勤め、藩校の創設や藩士の教育にも尽力するなど、同藩で重要な地位にいたため、家格に鑑みて土地が与えられたと考えられます(注2)。


1)旧臣である山上登家の敷地が狭い理由は不明。
2)表1姓名欄の「笠原玄龍」は、安永7年(1778)生まれで矛盾する(『市史第一巻本文編』p412)。表を作成するために参照した『狭山藩史料 第五輯 別所文書其一』には、「笠原玄龍」と明記されているが、同史料は、「明和年中改之節古記之通相記し置」とあり、後年の写しであることから、誤記と考えられる。
 明和年間の笠原家当主は、「笠原同竹棟里」(明和7年隠居)、もしくは、その後継の「笠原玄白棟宜」と思われるが、名前の類似から、「玄白」の可能性が高い。

●塀・垣●
 敷地の周囲に設けられる塀・垣の設置には、藩が行う「御用普請」と居住者が行う「自分普請」がありました。その区分と概略的な配置を図1に示しました。
御用普請塀 「御用普請塀」(赤色)は、「大町筋」の南端「南表門」付近の「朝比奈清」家・「御子様御殿」・「槍術稽古場」の東面、「大町筋」以外では、「御子様御殿」・「槍術稽古場」・「田中傳」家・「舟越司」家の西面、「大川卯波」家の北面・東面、「宮城伸吾」家・「江馬廉吉」家の東面、「東門筋」に面する「下山」家の南面、「植田」家の南面・北面などに設けられています。
御用普請垣 「御用普請垣」(緑色)は、「笠原」家の西面、「林茂」家の南面などに設けられています。ただし、「笠原」家では「自分普請垣」が願いで「御用普請垣」になり、「舟越司」家でも「自分普請垣」が「御用普請塀」になるなど、その運用は一律ではなかったようです。自分普請塀 「自分普請塀」(青色)は、「大町筋」に面する「田中傳」家・「笠原」家・「舟越仲」家の東面、「大川卯波」家・「宮城伸吾」家・「内田縄」家・「江馬廉吉」家・「山上雲平」家・「井出甚七郎」家・「林兎盛」家・「田中源三郎」・「村上」家・「下山」家の西面、「大町筋」以外では、両「舟越」家の南面、「大川卯波」家・「宮城伸吾」家・「内田縄」家・「江馬廉吉」家・「山上雲平」家・「井出甚七郎」家の南面など、主に上級藩士住宅の敷地境界に設けられています。
自分普請垣 「自分普請垣」(紫色)は、「山上運平」家の東面、「林兎盛」家・「田中源三郎」家の敷地境界と東面、「田中源三郎」家・「村上」家の東面、「山上兵治」家・「林茂」家の境界に設けられています。
これらから、「御用普請塀」は、敷地が池や他領・山に接する、陣屋の防御に関わる重要な場所のほか、「南表門」・「東門」付近の景観が意識された場所に設けられたと考えられます。一方、陣屋のメインストリートである「大町筋」の景観は、その大半が「自分普請塀」によって形成されていたことが分かります。また、「御用普請垣」・「自分普請垣」は、敷地背面の境界に多く設けられていました。なお、「自分普請」が「御用普請」に変更された事例から、種々の条件に対応した規定の存在が推測されます。

■上級藩士住宅■
 上級藩士の席次は、安政4年(1857)では家老・中老・用人・物頭・物頭格ですが、明治2年(1869)には家老・中老・番頭・番頭格・用人・用人格・大目付・物頭・物頭格と細分化しています。
●平面●
 上級藩士住宅は、居住者が建築したので、それらの平面は不明ですが、相応の格式を整えていた「評定所」の座敷構成をみてみましょう。「評定所」は、安永4年(1775)に古御殿役所を取り払い、地形を広げて建築されました。敷地内には、「評定所」(梁行2間・桁行10.5間)とその西部にもう1棟(梁行2.5間・桁行5間)、そのほかに門・土間・廊下などが設けられていました。なお、この地に嘉永7年(1854)正月、藩校「簡修館」が設けられます。上屋敷図の「簡修館」に、「白洲」とあるのは、その名残かも知れません。
 「評定所」には、玄関(8畳)、式台(2間6畳・押入付)、次の間(8畳)、三の間(4畳)、座敷(6畳、床の間[1間1畳]・押入付)、上雪隠(2ヶ所・板縁付)などが設けられていました。玄関・式台・座敷の床の間などは、武家住宅の格式を示すことから、上級武家住宅も同様の平面構成であったと推察されます。

■中・下級藩士住宅■
 中級藩士の席次は「給人」・「中小性」など、下級藩士は「供組」・「代官」・「徒士」と思われます(表2)。同表の備考欄に、各住宅の規模や屋根葺材などが示されています。中・下級藩士住宅は、主に「東門筋」や「横小路」などに配されていました。

画像3

●中級藩士住宅(独立住宅)●
 中級藩士の「給人」には、主屋(梁行3間・桁行6間)と離れ(梁行1間・桁行3.5間)で構成される独立家屋が供給されました(図2)。

図2

図2 給人住宅

 表2によると、給人住宅の屋根は「藁葺」、庇(下屋)は「瓦」ですが、長屋の屋根は「小麦藁葺」、下屋は「勘略葺」(桟瓦葺)とあるので、給人住宅の下屋は本瓦葺であったと思われます。風呂と便所は「継下シ」、つまり増築を前提とし、住宅が金銭で供給される時は、「壱貫八百目、金子三拾両」が渡され、古家を供給する時は藩が修復を行いました。
 藁葺屋根の武家住宅は、イメージしにくいかも知れませんが、中・下級藩士の住宅ではよく見られます(図3・4)。

図3

図3 篠山藩武家住宅

図4

図4 島原藩武家住宅

●中・下級藩士住宅(長屋)●
 中・下級藩士には、席次に応じた規模の長屋が供給されました。1軒あたり100坪の敷地に建てられた長屋は、4軒長屋であったとされますが、共同井戸が2軒単位であることから2軒長屋の可能性もあります。
 長屋の裏側の余地(70~80坪)には、座敷や納屋などが建てられましたが、蔵は禁じられていました。また、風呂・便所の記述が無いことから、共同であった可能性もあります。
席次による平面の差異 長屋の平面(図5~8)をみると、梁行が2.5間で共通し、図5~7までは、「中ノ間」10畳、「奥ノ間」6畳、「納戸」4畳と、主要な生活空間については席次による差異はありません。

図5

図5 中小性席長屋

図6

図6 中小性並長屋

図7

図7 供組長屋

図8

図8 徒士長屋

 一方、桁行は、図5は6間、図6は5.5間、図7は5間、図8は4間となり、桁行の長さによって席次による差異が設けられていました。さらに、土間の「板縁」をみると、中小性席長屋(図5)には、1間四方の「板縁」(2畳)に1間幅の「沓脱板」、中小性並長屋(図6)には、1間×3尺(1畳)の「板縁」と1間幅の「沓脱板」、諸室の規模が図5・6と同じ供組長屋(図7)と徒士長屋(図8)には、「板縁」が設けられていません。
 これらから、長屋では「板縁」の規模が中級藩士を区別し、「板縁」の有無が中級と下級藩士を区別する指標であったことが分かります。なお、「沓脱板」(図9)は、すべての長屋に設けられていますが、正式な式台ではありません。

図9

図9 沓脱板の例(篠山藩武家住宅)

■閑話休題■
 前回紹介しました、「大町筋」の両側と他の小路の片側に石垣で築かれた排水溝は、こんなイメージでしょうか。

図10

図10 島原藩武家住宅前の溝

次回は、陣屋図が描かれた契機について考えます。

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