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奇跡

先日、
小学2年生の授業のお手伝いをする
機会がありました。

それは、
命について学ぶ授業でした。

「命の始まりは、
0.2㎜の小さな卵のような
ものです。
難しい言葉で細胞と言います」
先生は言いました。

まだ小さな子どもたちには、
0.2㎜という大きさが
一体どれくらいなのか
検討がつきません。

先生は、小さな画用紙に
針の先でちょんと穴を空けたものを
一人一人に配りました。

「この中に、命の始まりの
ヒントが隠されています。
さあ、見つけられるかな?」

「何もないよ」
と言う子どもたちに、
画用紙をかざして見せながら、
「こうやって見たら、
見つけられるかな?」

「あった!」
「ちっちゃ~い!」

小さな小さな命の始まりを見つけ、
どの子も一様に驚きの声を上げました。

先生は続けました。

「小さいね。
みんな、始まりは
こんなに小さかったんだね。
それが、ここまで大きく成長しました。
みんなが、ここに、
こうして生きてるということは
奇跡なんだよね」



涙が溢れました。



そう、その通り。


16年前。
私は、そのことを
身をもって実感しました。


2004年の夏、
私のお腹の中に
小さな命が誕生しました。
私たち夫婦にとって、
待望の赤ちゃんでした。
もう嬉しくて嬉しくてたまりませんでした。

その後、お腹の赤ちゃんは元気に成長し、
やがて、胎動を感じるようになりました。
検診の最中にも絶えず動き
「元気な赤ちゃんですね」
と先生は笑いました。
ちょうどその頃、
お腹の赤ちゃんが、
女の子であることも分かりました。

7ヶ月を過ぎた頃から、
娘の成長が著しく遅くなりました。
心配する私に向かって
「しばらく様子をみましょう」
先生は笑顔で言いました。

しかし、
9ヶ月を目前に、
いよいよ腸管の異常が疑われ、
産まれた後、手術の必要があることが
告げられました。
「命に関わる病気ではないですから、
安心して下さい」
先生はそう言いました。

小さな娘の体に
メスを入れることを想像しました。
ショックで、涙が止まりませんでした。
涙が涸れるほど泣きました。

でも、ふと、
『命に関わる病気ではない』
先生の言葉を思い出しました。

母親の私が泣いていてどうする、
しっかりしなくちゃ
そう、自分に言い聞かせ、
私は、この子を絶対に守る、
そう決意したのです。



それから、数日後の、検診の時。
先生は言いました。


「…赤ちゃん…亡くなっていますね…」

それは、本当に突然のことでした。
なぜ…
なぜ、私たちの子が…



翌日、陣痛を起こす治療をしました。
夜になって、陣痛が始まりました。

長い苦しみの末、
ようやく会えた娘は、
大きく口を開け、目を閉じたまま、
ピクリとも動きませんでした。

死んだ娘をこの腕に抱き、
「ごめんね…」
それ以外の言葉が見つかりませんでした。

深い深い谷底に落ちていくようでした。

娘の命がもう元には戻らないことを
受け止めなければなりませんでした。

辛く悲しい日々が続きました。

何気ない言動に
深く傷付くこともありました。

そして、気付いたのです。
私もまた、知らず知らずのうちに、
誰かを傷付けてきたのかもしれない…と。

一方で、
主人をはじめ、
周囲の人たちの
優しさが、
愛が
手に取るように分かりました。

みんなの優しさ、愛によって、
私は、
少しずつ、
少しずつ、
前を向いて歩けるようになっていきました。

命、
生、
死、
人生についてあれほど深く
考えたことはありませんでした。

娘は、9ヶ月という短い人生で、
私たちにたくさんの学びをもたらしてくれました。

命の尊さ、
生きる喜び、
愛すること、
感謝すること。

もしかしたら、
娘は、
このことを私たちに伝えるために
短い人生を選び
私たち夫婦の元にやってきたのかもしれません。

娘のおかげで、
私の人生は豊かなものになりました。
何より
娘のおかげで、
私は、母になることができたのです。



娘を亡くした後も、
2度の悲しい別れがありました。


でも、私たちにも
奇跡が起きたのです。

そう、
息子が元気に誕生したのです。

息子が生きているということ。
私たち、一人一人が生きているということ。

普段は、その奇跡について、
深く考えることはありませんが、

時折、
ふとした瞬間に
喜びと感謝で
胸がいっぱいになることがあります。

この命の授業の時のように。

この日、
教室にいた
子どもたち一人一人の命が、
本当にキラキラと輝いて見えました。

「あぁ、
たくさんの奇跡が
今ここにある」

そう思ったら、
嬉しくて嬉しくて
涙が止まりませんでした。







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