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「愚か」に見えてもいいから「大らか」でありたい。

イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された。「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」弟子たちは、だれについて言っておられるのか察しかねて、顔を見合わせた。イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた。シモン・ペトロはこの弟子に、だれについて言っておられるのかと尋ねるように合図した。その弟子が、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、それはだれのことですか」と言うと、イエスは、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられた。それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われた。新約聖書 ヨハネによる福音書13章21-27節 (新共同訳)

こんにちは、くどちんです。キリスト教主義学校で聖書科教員をしている、牧師です。

先日法律に関するある講演を伺う機会がありました。お話を聞いていて改めて「教員や学校って、『一般社会』とやっぱりいろいろ違いがあるんだなぁ」と思いました。弁護士さんいわく、学校関連の訴訟では時に「法的責任」以上に「道義的責任」が問われてしまう、学校側教員側がそれを過剰に背負ってしまうケースがある、とのこと。何となく分かる気がします。

教員という仕事の特徴は、出会う人数が多いということ。そしてその人たちとの関係性が、一般社会での私たちのオフィシャルな人間関係よりも深くなりがち、深くならざるを得ないということ。この辺りが先の「過剰なまでの責任感」にも繋がっているのかもしれません。

たとえば仕事の場で出会った相手が何か間違った振る舞いをしていても、それを心配したり、改善を促すべく指摘したりすることって、難しい気がします。同じ職場内の後輩相手であれば教えてあげることもあるでしょう。けれど、それでも相手はもう「いい大人」ですから、言っても伝わらなかったり変わらなかったりすることも承知の上、「言うだけ言ったらあとは相手の判断だから、仕方ないな」と割り切るところも出てくるように思います。実際私も同僚や後輩に対してはそうです。

でも生徒が相手だと、この「伝えたい、分かって欲しい」の部分がもう少し強くなります。押し付けたり矯正したりまではしませんが(そうなってはいけないと常々自戒していますが)、心理的な距離感が世の中一般と比べて近くなりがちなのです。だから、「放っておけない」。

それって結構疲れます。心理的な距離を詰めるということは、こちらも傷付く可能性が高くなるからです。(もちろんそこには喜びの可能性もあるのですが。)

相手に伝わると信じてこちらの心を先に開いてみせる。もしかしたら通じないかもしれません。それどころか、嘲笑されたり裏切られたりして傷付くかもしれません。それでもまず、こちらが胸襟を開いて歩み寄る。相手に対してこちらが「先払いの信頼」というカードを切る。

これって結構覚悟の要ることです。こちらが先に手札を見せてしまったら、相手がつけあがるんじゃないか、裏切るんじゃないかと、やっぱり不安になっちゃいますよね。

こちらが先に心を開くことで、相手が「この人は大らかに受け止めてくれている、だから自分も心を開こう」と思ってくれるなら万々歳です。けれども相手によっては、「先に手札を見せてくるなんて、この人はバカなんじゃないか?」と、食い物にされてしまうことだってあるでしょう。

誰かの大らかさを理解するには、それを示された側にも誠実さが必要なのでしょう。互いにその誠実さがあると信じるからこそ、こちらが先に手札をさらけ出すことができるのです。

とはいえ、やっぱりつい損得で計って、「こちらの度量の大きさが分かってもらえるのなら見せてやってもいいけれど……」などと、狭量な自分をさらけ出してしまうこともあります。情けなや。

「大らか」でいたいのに、「愚か」と思われることを恐れて、結局疑いを拭い切れない。それは理想的ではないなぁと思います。

「愚か」と思われることを恐れずに「大らか」を貫くにはどうすればいいのか。そう考えた時、「主ご自身がそれをすでに実践しておられたのではなかったか?」と思い当たりました。それが冒頭の聖書箇所、ユダの裏切りを知りつつ、「最後の晩餐」の時を共にされたイエスの姿です。

イエスは裏切りを知りつつもまだユダを招いておられました。ユダと共におられました。これってものすごいことだなぁ、としみじみ思います。でもそういう「愚かなまでの先払い」こそが、「愛」なのかもしれません。

ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

宮沢賢治とその作品は仏教との関わりの深いものでしょうけれど、ここにはキリスト教にも通じるものがあるのではないかと感じます。

侮られ軽んじられてなお、大らかに相手を許し続けること。敵と思われる人に愛で報いること。己を呪う者のために祈ること。

主イエスの姿に倣うことは難しいですが、裏切られることを恐れない愛と勇気を、そこから学びたいと思うこの頃です。

210221愚かより大らかnote


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