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からだで感じる。

さて、主は巨大な魚に命じて、ヨナを呑み込ませられた。ヨナは三日三晩魚の腹の中にいた。

旧約聖書 ヨナ書2章1節 (新共同訳)

こんにちは、くどちんです。キリスト教学校で聖書科教員をしている、牧師です。

「あーーー、そういうことかーーー」と深く悟った時のことを「腑に落ちる」と言い表しますね。「腑」とははらわたや肝という意味で、そこから心の底という意味にも通じていくようです。受け止めた思いがお腹の底の方にすとーんと収まっていく感じが、まさに「腑に落ちる」。いやー、よくぞその言葉で表現してくれたものだなー、と感心します。

最近ではこれを「腹落ちする」とかって言うようですね。「腑」よりも「腹」の方が、今の人たちの言葉の感覚としてもっと分かりやすいということなんでしょう。

ただ、言葉の感覚として「腑」ではピンとこなくなった世代にとっても、やっぱり何かを深く実感を持って理解するのは「おなかの辺り」なんだな、そこは変わらないんだな、と思います。

冒頭でご紹介した聖書箇所は、別の意味で「腹に落ちちゃった」ヨナさんの物語。

神さまからの言葉を取り次ぐ「預言者」であるヨナは、敵国アッシリアの首都ニネヴェの人々に「神さまがあなたたちを滅ぼそうとしている」と伝える役割を神さまから与えられます。敵国に行くのなんて嫌だと思ったヨナは、なんと神さまに背いて反対方向へ行く船に乗り逃亡を図ります! でも神さまは全てお見通し(当たり前か)。その船は神さまの力によって嵐に見舞われます。おののく乗組員たちにヨナは、「この嵐は神さまに背いた自分のせいだから、俺を海へ放り込めば嵐は収まるよ」と告げます。そう言われても……とまごまごする船員たちでしたが、結局はやむなくヨナの言う通りにします。海中へ投げ込まれたヨナは神さまが遣わした大魚に呑み込まれ、その大魚の腹の中で三日三晩考え、「やっぱり神さまに従わなきゃダメだなー」と悔い改めたところ、大魚は陸地へヨナを吐き出したのでした。

まあその後もヨナさんの一筋縄ではいかない預言の道中は続くのですが、この「大魚の腹の中のヨナ」というイメージがとてもユーモラスで、子ども向け絵本などでもよく描かれる有名な場面です。

ヨナは大魚の「(文字通り)腑に落ちた」のですが、そこでいろいろ考えて思い直した、というのが面白いところです。深い理解や気付き、悔い改めというのは、古今東西「腹の底」で起こるものなのだなぁ、と思わされます。

「腹」や「腑」のみならず、私たちはやはり思いや考えにおいても、頭や心の中だけでなく「体を懸けて」「体を通じて」捉えている部分が多くあるのでしょう。

私はプロテスタントの牧師ですが、プロテスタントの弱みはこの点だな、ということをしばしば思います。カトリックなどの他教派に比べ、身体的に感じる部分、身体的に表現する部分が少なくされてきた。むしろそれらが少ないということの中に、自分たちの信仰のありようの核を見出してきたところがあるからです。

確かに目に見えるもの、体で感じられるものの持つパワーは、時に思慮深さや批判的思考の妨げにもなります。でも「だからそれらを全て退ける」というのももったいない、それはそれで何か大事なものを見落とすことになりかねない、という気もするのです。

たとえばこの一年、私たちは「直接、身をもって会う」ということが難しい日々を過ごしました。それによってオンラインで繋がる方策が一気に浸透しましたし、それはそれでとても便利な一面もありました。でもやっぱり身体を懸けて会うということ、飛び越えられない時間や場所を身をもって共有するということ、ちょっとした息遣いや微かな仕草、温もりの感じられる距離感に居るということは、オンラインでは埋められない「何か」を私たちにもたらしてくれると、かえって確信させられたのです。

ヨナが三日三晩を過ごした大魚の腹の底は、どんな感じだったのでしょう。生暖かかったり生臭かったり、大魚の動きに合わせたうねりがあったり、ごぼごぼと低くくぐもった音が聞こえたり、じめじめぬるぬるしていたり、真っ暗なようでいて何かが微かにじっとりと光って見えたり……。そんな中でヨナは恐らく自分自身の中のどうしようもない、生々しい「弱さ」「醜さ」と向き合ったのではないかな、と想像します。

大事な人には会いに行く。伝えたい言葉は肉声をもって届ける。傷付くことがあったらちゃんと自分の胸の痛みを受け止める。嬉しい時には腹から声を出して笑う。そんな身体性を、時には積極的に意識しておきたいな、などと思うのでした。


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