見出し画像

食べたい時は元気な時

彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。
新約聖書 ルカによる福音書 24章41-43節 (新共同訳)

こんにちは、くどちんです。キリスト教主義学校で聖書科教員をしている、牧師です。

時々何の脈絡もなく「あ、あれ食べたい」と思い付くことってありませんか? 私はめちゃくちゃあります。

このnoteの更新告知用に使い始めたTwitterで、時々そのような衝動的な欲求をつぶやいています。寝る前になって「焼き立てパン食べたい」とか。

これらの欲求を、私は「唐突食欲」と勝手に名付けています。「あんかけ焼きそば!!」とか、「うっ……グリーンカレーが呼んでる……」とか。これが唐突食欲。(さも大事なことのようにしてどうでもいいことを語っていますね)

でもね、この唐突食欲が湧き起こる時って、たぶん心身共に元気な時だと思います。
心身のどちらかが疲れてきたり、エネルギーダウンしたりすると、「食べたい」と思うことが減ってきてしまう。
もちろん、疲れ過ぎてやけ食い……みたいなこともありますが、こういう時って「これが食べたい」と思って、食べて満足する、というような健全なプロセスではなくて、まさしくやけになって手当たり次第食べているようなところがあるから、やっぱり「食べたいな」という気持ちが自然に湧いてくるのって、健やかさの一つの証なんじゃないかなと思います。

今の私、少し前までやたらとこの「唐突食欲」が湧いていたので、「うん、今、私悪くない感じやな」と思っていたのですが、この数日ちょっとそれがなくなってきちゃいました。いかんね。早く寝るとか、のんびりリラックスする時間を持つとか、しないとね。

さて冒頭に引用したのは、復活したイエスが弟子たちの前に姿を現した場面の一部分。
今はちょうど「復活節」、イースターの後の、復活を思う期間の真っ最中なのですが、数ある復活物語の中でも私が妙に心惹かれる一場面がこちらです。
復活の姿を現したイエスが、不思議がる弟子たちの前で「何か食べ物があるか」と尋ね、焼き魚を食べる……。

シュール過ぎんか?!!!

初めて読んだ時はびっくりしたよね。

これ、何となく私は「河原で串に差して焼いた鮎」みたいな絵面を思い浮かべてしまうんですが、皆さんはいかがですか。切り身派の人とかいますか。子どもたちと絵に描いてみたら面白そう。

ともあれ、復活したイエスさま、もちろん「ほら、私だよ~」っていう確認の意味でものを食べているのはそうなんだけど、それより何よりお腹空いてたんじゃない? と思ったりします。
っていうか、「他ならぬ自分がそこにいること」の証明が、「ものを食べること」って、どうなのよ。
イエスさま、生前は(という言い方が良いのか分からんけど)「この人ほんとよく食べるよね~」「いつもおいしそうにもの食べるよね~」「食べてる姿見ると、『あ、この人らしいな』って思っちゃう~」みたいなキャラだったんだろうか。
実際、実は同じ福音書の中で、「大食漢で大酒飲みだ!」と揶揄されたり中傷されたりすることをイエス自らこぼしています。
……仲良くなれそうじゃない??? イエスさま、今度飲みに行く? みたいな気分になる。(なりません?)

いずれにせよ、やっぱり復活のイエスは健やかで元気だったんだな、と思います。だって、「唐突食欲」に任せて焼き魚食べてるっぽい感じするもん。

私たちの罪を背負って十字架で死なれたイエスさまが、復活早々焼き魚もぐもぐするくらい元気なら、「あー、やっぱり私の罪ってイエスさまのおかげで許されて、こっからは元気に健やかに生きることを頑張ればいいんだわー」みたいな気持ちになれそうです。

新年度が始まってもうすぐ一ヶ月。新しい環境への適応は思いの外疲れるもので、そろそろしんどくなってきている人も多いかもしれません。私もその一人です。
でもこんな時だからこそ、「あー、なんかおいしいもん無いかなー」って、復活のイエスさまみたいにもぐもぐ食べられたらいいなと思います。
おいしいもの、好きなものをちゃんと求めて、ちゃんと食べて、心も体も健やかでいましょうね。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?