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優越感ではなく自己肯定感を ~失敗名鑑 聖書編 #03 カイン

アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。主はカインに言われた。
「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」
カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。

旧約聖書 創世記 4章4-8節 (新共同訳)

こんにちは、くどちんです。牧師で、約15年キリスト教学校の聖書科教員をしています。

「アンガーマネジメント」という言葉を初めて聞いたのは、秘書に向かって「ちがうだろー」と怒鳴った議員さんの話だった気がします。「アンガーマネジメント」とは、「怒り」をマネジメントする、コントロールすることで、その怒りが深刻な問題を引き起こさないようにする……ということだそうです。ためしに調べてみたら「協会」もあるし、ユーキ〇ンの講座までありました。

かちんと来たらすぐ言動に出てしまうタイプの人は、確かにそれで損をしてしまいがちなのかもしれません。割合としては、そういう人は多いのでしょうか? 私は逆です。「むむう……!」と思いながらすぐさま発散できずに腹の中でくすぶらせ、「いや、でも向こうにも言い分があるのかも……」なんて考え込んでしまって、だんだん萎えてくる怒りを持て余し、消化不良なまま黙ってしまうことが多いタイプです。敢えて「怒って見せる」時も、なんかいろいろ考えてしまいがち。その後やたらと後悔したりして。ぱーんと直情発散傾向の人がむしろ健全に思えて羨ましかったりもします。

冒頭の聖書箇所は、「人類最初の殺人」と言われるカインとアベルのお話です。カインは「カッと来てグッ」と行動に繋げてしまうタイプの人だったんですね(往年のヒット曲的表現)。こういう人こそアンガーマネジメントですよ、きっと。

カインはなんで「カッと」きちゃったんでしょうか。それは、弟アベルと共に神さまに捧げものをしたところ、神さまがアベルの捧げものの方だけを喜ばれたからです。

なぜ神さまはアベルの捧げものだけに目を留められたのか。この話は「牧畜民が耕作民より勝っているという逸話である」なんていう解釈もあるのですが、普通に読むと「うへー、神さまがあからさまな贔屓をしたからやん」と思いますよね。

でもふと思うのは、「アベルを褒める」ことは「カインを否定した」ことになるのか、ということです。

うーん、確かに「目も向けてもらえなかった」と思うと、ちょっと神さま勘弁してよ、という気にはなります。けれどもそれ以上に私は「カインよ、アベルと比べずに、自分と神さまと、そして神さまへの捧げもののことだけに心を向けられたら良かったのにね」と思ってしまうのです。それは、私もカインと同じく、すぐに他者と自分を見比べてしまうところがあるからです。

つい他者と比較する中で自分を計ってしまう私たち。それは、良い時も悪い時も、同じことです。「私は私でよくやった!」と思えればいいのに、「私はこんなに頑張ったつもりだけど、あの人よりできていない」なんて人と比べてしまうから、一向に前向きになれない。それどころか、人を羨んだり妬んだり、時には憎んだりしてしまう。

神戸女学院大学名誉教授の内田樹氏は、偏差値教育に見られるような昨今の学校のありようについて、「自分が努力して向上することより、他者を引きずり下ろして相対的に上回ることの方が『効率が良い』状況」というようなことを仰っています。これ、教育現場にいる私は実感を持って、「すごく分かる……」と言えてしまう。残念なことですけれども。

みんな自分を認めてやりたいという気持ちを持っています。そうでないと生きていくのはとても苦しい。でも、自分を認めてやるのに分かりやすい指標が欲しい。そこで手っ取り早い一つの方法は、人を見下し蹴落とすこと。そうすれば、比較の中で優越感を味わうことができてしまうからです。

でもこんな風にして得られた優越感は、常に「自分より下位にいる他者」を確保していなければ維持できませんよね。そうすると、とても不毛な競争に明け暮れることになるのでしょう。暗澹。

優越感ではなくて、もっと内発的な「自己肯定感」に拠って立つことができたらいいのだろうと思います。自分自身を認めてやる物差しを、自分自身の内に持つ。もちろん、それが湧き起こってくるようになるための周囲の働きかけは必要でしょう。「自己肯定感の種」が一人一人の内にあって、その土壌を周囲の誰かが鋤いて耕してやり、日光と水分を与えてやる。すると、種そのものの持つ力が存分に発揮され、芽が出て、伸びていく。そんなイメージです。

教育の場にいる者として、どうすればこの「優越感ではなく自己肯定感を」育てることができるのだろうか、ということを考えています。争い合い、足を引っ張り合うのではなく、自らを認め、他者も愛せる、そんな人を育てるということ。そもそも教育の場でどこまで担えるものなのか、というところもあるにせよ、何か私にできることもあるのではないかと思います。

カインが本当の意味で自分を認めてやれていたなら、「アベル、神さまに喜んでいただけて良かったなぁ! 俺も次はもっと頑張ってみるよ」と言えたかもしれない。アベルとの比較の中で妬みや憎しみに我を忘れるのではなく、互いのことをそれぞれの物差しで計れたのかもしれない。そんな風に想像しています。

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