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呼ばれているのは私かもしれない

主はサムエルを呼ばれた。サムエルは、「ここにいます」と答えて、エリのもとに走って行き、「お呼びになったので参りました」と言った。しかし、エリが、「わたしは呼んでいない。戻っておやすみ」と言ったので、サムエルは戻って寝た。主は再びサムエルを呼ばれた。サムエルは起きてエリのもとに行き、「お呼びになったので参りました」と言った。エリは、「わたしは呼んでいない。わが子よ、戻っておやすみ」と言った。サムエルはまだ主を知らなかったし、主の言葉はまだ彼に示されていなかった。主は三度サムエルを呼ばれた。サムエルは起きてエリのもとに行き、「お呼びになったので参りました」と言った。エリは、少年を呼ばれたのは主であると悟り、サムエルに言った。「戻って寝なさい。もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話しください。僕は聞いております』と言いなさい。」サムエルは戻って元の場所に寝た。主は来てそこに立たれ、これまでと同じように、サムエルを呼ばれた。「サムエルよ。」サムエルは答えた。「どうぞお話しください。僕は聞いております。」

旧約聖書 サムエル記上 3章4-10節 (新共同訳)

こんにちは、くどちんです。キリスト教学校で聖書科教員をしています。牧師です。

美容院での出来事です。美容師さんたちは、カラーやパーマの時間を計るため腰にタイマーをぶら下げています。私がカットしてもらっていると、どこからかタイマーのピピピ……と鳴る音が響き始めました。けれども、誰も止めることのないまま、そこそこの時間、アラームが鳴り続けたのです。

「おや? 誰のタイマー?」 誰も口には出しませんが、お客さんは目をきょろきょろさせ始めます。美容師さんたちも、「あれ? 自分のかな?」という感じで一人、また一人とタイマーを確認し始める。何人目かで「あ、自分のだった!」という人がいたのでしょう、しばらく経って音は止まったのでした。

我が職場の内線電話でもたまに同じようなことが起こります。あっちの電話が鳴っているのか、こっちの電話なのか。自分の近くの電話ではないと思っていたけれど、いつまでも呼び出し音が止まらないと、「あれ? うちのが鳴ってる?」と思わず確認してしまう、という現象。

先の美容院でも我が職場の電話の例でもそうですが、こういう時に「ほとんど反応しない人」もいるんですよね。耳がとても良くて「この音は自分のものではない」と確信しているのか、「どうせ自分ではないだろう」と思い込んでいるのか、「自分のものかもしれない」と想像することのない鈍感さなのか、あるいは「自分のかもしれない、でも今は手が離せない」と忙しくしているのか……。

視覚障害の方が駅で転落されるという痛ましい事故が続き、新聞で「適切な声掛け」が啓発されていました。「危ない!」だけでは、自分が言われているのかどうかが分かりません。「そこの白い杖の人、止まって!」など、具体的にその人に伝わるよう呼び掛ける、と書いてあって、「なるほど」と思いました。こういう危険を知らせる呼び掛けについては、呼び掛ける側がとっさに機転をきかせて「相手に伝わりやすい」言葉を選ぶ必要があるのですね。一方、タイマーや電話の例だと、「呼び出し音を人によって変える(メロディーなど)」という形で、「これは私のだ」と分かりやすくする方法がありそうです。

さて、冒頭に引用したのは、旧約聖書の少年サムエルのお話。

エリという祭司のもとに仕えていた少年サムエルは、ある夜自分を呼ぶ声を聞きます。てっきりお師匠さんのエリが呼んでいるのだと思ったサムエルは「お呼びですか」とエリのもとに駆け付けますが、エリは呼んではいません。「呼んでないよ、いいから寝なさい」と言われて寝床に戻るサムエルですが、再び、三度と同じ声を聞き、その都度エリのもとへ走って行きます。律儀過ぎるサムエルくん。もし本当にエリがやっていたのなら嫌がらせやパワハラの類ですね(笑)

しかし三度目にエリが気付きます。「お前を呼んでいるのは私ではない、きっと主なる神さまだ。次に呼ばれたらその場で、『はい、聞いていますからどうぞお話しください』と言いなさい」。かくしてサムエルくんは、四度目でついに神さまからのメッセージを受け取ったのでした。

神さまは「そこのサムエルくん、こちら神さまです。その場で起きて私の話を聞きなさ~い!」と分かりやすく呼び掛けてくれないのですね。サムエルはたぶん電話やアラームの音に対して、「どれだ? 私か?」と思ってさっさと確認しに行くタイプ。でももしサムエルが「どうせ私じゃないでしょ」「さっきお師匠さんが『呼んでない』って仰ったんだから、これはもう空耳だな」なんて思って確認せずにスルーしちゃうタイプだったら、神さまからのせっかくのメッセージを受け取り損なっていたかもしれません。

新聞記事にあった呼び掛け方の例のごとく、神さまにも「あなたに呼び掛けていますよ!」という分かりやすいメッセージの発信をお願いしたいところです。しかし残念ながら神さまの声はなかなか聞き取りづらく、気付かずにやり過ごしてしまうことも多そうなのです。だったら、こちらがキャッチする感度を上げていくしか無さそうですね。

「カーテンを開いて 静かな木漏れ日のやさしさに包まれたなら きっと目に映る全てのことはメッセージ」。そんな往年の名曲の歌詞を思い出します。「これは神さまから私へのメッセージではないだろうか」「神さまは私に何を語り掛けておられるのだろうか」。心静かに、耳を澄ませて祈る者でありたいなぁと思います。

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