臨床観について⑤

他の方のカウンセリングについて話を聞いていると、例えば幼い・未熟といったフレーズでクライエントを評して話が終わることがあります。

個人的に、こうした時に考えるのは、幼いとするならば「本当に幼いのか」「なぜ幼いのか」「どのようにして幼さを残してきたのか」「幼いながらもどのようにやってきたのか」「幼さを支えてきたのは誰か・何か」といった複数の観点です。

何かクライエントについて、評価を下したときに、私たちはさもそのクライエントのことが「わかったかのような気持ち」に陥ってしまいます。防衛機制等の用語なども同じです。

その人が否認を用いたり、抑圧的な機制を用いたりした時、用語を充てることで、その人の心の内の絵を見てとれるように、分かったような風になりがちです。そして、その細かなクライエントの心の機微は、用語という枠に押し込められることによって、細かな個別性がごそりと損なわれます。

しかし実際の現象としては、名付ければ分かったということはあり得ません。完全に中身を説明するラベルなど、存在しません。

カウンセリングにおいては、その現象がその人にとってどのような意味を持ち、なぜそのようになってきたか、そしてどうすればそれを踏まえてその人がよりよく生きられるか、そういった支援に繋げないと、あまり意味がありません。

恐らく、支援者が「カウンセリング慣れ」してくればくるほど、この罠には陥りやすいのだと観察されます。データや経験が集積されることによって、個別性の重みが相対的に軽んじられてしまうのでしょう。

ただ単に知識や技能を習得することがトレーニングなのではありません。人間の、他者の「分からなさ」を尊重し、忘れないようにすることも、専門的なトレーニングの一つです。あまり強調されない話ですが。

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