「おばあちゃんの膝枕」
clubhouseで読む用に、物語を書いてみました。朗読して大体10分くらいの長さです。脚本家の今井雅子さんの作品「膝枕」がベースになっております。clubhouseでは2021年6月15日現在、今井雅子さんの「膝枕」を読む人が後をたちません。毎晩、「膝枕」を元に朗読やお芝居等、各々様々な表現でリレーをして盛り上がっています。
(本作は無料で読んでいただけますが、ひと言お知らせください)
写真は桜井ういよさんとMayFlower理恵さんが作ってくださいました。
若井尚子作「おばあちゃんの膝枕」
息子を幼稚園に送り出し、朝ごはんの片づけや一通りの家事を終えた私は、虫の世話をしていた。私が飼っているのではない。息子が飼っているのだ。近所で捕まえてきては飼いたいという。
私は虫が苦手だ。昆虫図鑑なんて開きたくない。本当は飼育ケースすら触りたくない。今うちにある飼育ケースは3つ。カタツムリとミミズをそれぞれ別のケースで飼っている。少し前まではザリガニもいたのだけど、先日無事に池に返したので今は1つケースが空いている。
虫に触れないようにささっと餌を取り換え、霧吹きの水で土を湿らせる。蓋をして、ベランダに出した。最小限の世話を最速で終えた。
実はこの後、楽しみにしていることがある。それは、「膝枕」。Clubhouseを発端に流行し、最近ネット広告にも出てくる「人工知能付き膝枕」。お値段がそこそこするので躊躇していたけれど、先日思い切ってポチった。そして昨日、それは大きな段ボールに入って届いた。すぐに開けようかなと思ったけど、胸が高鳴って開けられなかったので、一晩押し入れにしまった。しかし「膝枕に悪かったかな」と気になって、昨夜は眠れない夜を過ごした。
私が買ったのは、「幼い日の思い出蘇るおばあちゃんの膝枕」。子供の頃、忙しい両親に代わって祖父母の家に世話になることが多かった私は、おじいちゃん、おばあちゃんのことが大好きだった。亡くなってもう随分たつ。毎年お墓参りに行っていたが、去年は行けなかった。今年もいけそうにないので、気になっていた。そこでこの膝枕を購入したのだ。
私は押し入れから大きな段ボール箱を取り出し、爪でガムテープをはがす。カッターで傷をつけるようなことがあってはいけない。箱を開けると、懐かしいにおいがした。お線香のにおい。おばあちゃんの家のにおいだ。
「ばたん」とリビングのドアが開いて私は現実に引き戻され、とっさに段ボールを閉じた。夫だ。夫がオンライン会議の前に洗面所でバタバタと身支度を整えている。私の方をちらっと見た。「衣替え?」「そう、もう全部夏服でいいかなと思って」。夫はコーヒーを持って、仕事部屋へ去っていった。
夫が仕事部屋の扉を閉めたのを見届けてから、改めて段ボールを開けた。「おばあちゃん、久しぶり」。おばあちゃんを床の上にそっとおろした。ゆるめのズボンに、前掛けをしている。おばあちゃんは「どっこいしょ」というように、座り直した。膝が痛いかもしれないと思って、座布団を出してあげた。喜んでいるようだ。
「こっちおいで」と言っているように感じた。私はおばあちゃんの膝枕にダイブした。おばあちゃんの膝は温かい。前掛けからは、私の大好きな煮しめのにおい。ズボンからはかすかに畑の土のにおいもする。風が入ってきて気持ちがいい。それはベランダからの風ではなく、おばあちゃん家の庭からくる風。太陽の光で木の緑がきらきら光っている。小鳥のさえずりが聞こえる。私は庭に駆け出し、芝生の上をはだしで走り回っていた。アリの行列を見つけては、巣に帰るまでじっと観察した。庭先の畑にはおじいちゃんがいた。おじいちゃんは畑の雑草を抜いている。私は掘り返された土からミミズを見つけた。「おじいちゃん、ミミズ捕まえたよ! 飼っていい?」
〈ピーンポーン〉
マンションのインターホンが鳴った。玄関の呼び出し音だ。私は居心地の良い夢から醒めなくてはいけない恨みを、息に込めて吐き出した。体を起こし、おばあちゃんの膝に手を添えた。「すぐ戻るからね」といって玄関に向かった。
管理人さんだった。「おはようございます。前からお知らせしていましたが、今から害虫駆除の薬を撒きますので。風で飛んでくるかもしれないので、もしベランダに洗濯物を干していたら室内に入れてください」
「害虫駆除……」
私はベランダに走った。虫が殺される。このままではうちの虫たちが殺される。網戸をあけ、はだしのままベランダに出た。3つの飼育ケースを急いでに室内へ入れ、窓を閉めた。おばあちゃんも両膝をにじらせながら飼育ケースをのぞきにきた。
ケースのふたを開けて虫たちを確認した。カタツムリは、ケースのふたの裏にくっついていた。ミミズは土の中にいるので、プラスチックのスプーンで掘り返して姿を確認した。ほっとして、おばあちゃんに話しかける。
「危ないところだったね」
私は脱力してまたおばあちゃんの膝に潜り込む。そのまましばらく、ケースを眺めながら昔を思い出した。
おばあちゃんの膝がこつこつと、何か訴えてくる。よく見ると、カタツムリがいない。ケースのふたが少し開いていた。私が閉めるのを怠ったのだ。床、ソファーの下、ドアノブ。何度も見るがいない。「間違えて踏んづけちゃうかも。どこかで干からびて死んじゃうかも」
突然、仕事部屋から夫の叫び声がした。足元に気を付けながら仕事部屋に行ってみると、蛾が出たと夫が言う。新聞紙のようなものでたたきたいと言うがうちにはない。「害虫駆除の薬であぶられてうちに逃げてきたんだよ」私も蛾を探す。「あ、いた!」夫は蛾を見つけ、そこにあったティッシュ箱からティッシュを数枚ババっと手にして、蛾を包んだ。そして一瞬ためらいを見せたが次の瞬間ぎゅっと力を入れた。「殺さないで」私は夫からティッシュを奪い、そっと開いてみる。よかった、生きている。
リビングに行き、空の飼育ケースに入れてやろうとした。ティッシュを緩め、ケースのふたを閉じる。しかし蛾はケースのふたからひらりと逃げ出してしまった。リビングに、蛾が舞う。夫の叫び声が後ろで聞こえる。蛾は壁や窓にとまっては飛び立ち、やがておばあちゃんの右膝にとまった。そしてじっと羽を休めている。おばあちゃんの膝枕は、蛾にとっても居心地がよいのだ。蛾の居場所を邪魔しないように、私はおばあちゃんの左膝に頭をあずけた。夫の気持ち悪がっている声が遠くで聞こえる気がする。
私はいつから虫を怖がるようになったのだろう。子供の頃、野に咲く花の可愛らしさに夢中になり、夜になれば暗がりを恐れていた。あの感覚をいつどの瞬間、忘れてしまったのだろう。
少し疲れた私はそのまま眠ってしまった。眠るまで、おばあちゃんはずっと私を撫でてくれた、そんな優しい夢を見た。
スマホのアラーム音で目が覚める。息子を迎えにいく時間だ。もう一度、カタツムリを探す。今度はすぐに見つかった。おばあちゃんの膝にくっついていたのだ。
私が出かけている間に、足で踏まれ、干からびてはいけないと思い、飼育ケースに戻した。霧吹きで水をかけてやった。雨だと思ったのか、カタツムリは喜んで角をだし、首を長くのばし、元気にケース内を進んでいる。蛾も安全のため一度ケースに入ってもらった。この蛾は何という名前だろう。後で息子と図鑑で調べてみよう。ずっと虫たちを見ていたかったが、おばあちゃんにとんとん、と促され私は幼稚園に向かった。(おしまい)
(この物語は、今井雅子作「膝枕」をベースにしています)
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