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NVCとキリスト教(5つのyoutube素材をもとに)②

第1章 RadioActive Radio extra 05「非暴力コミュニケーション~つながりを取り戻す」を聞く(前編)

 このyoutube動画(音声)の最初の12分を聞いて、興味がわかなかったら、無理して最後まで聞かなくていいかもしれません。逆に言えば、わたしはこの12分でグッと掴まれ、NVCに対し、更に興味津々になりました。もちろん、人の好み、心にひっかかる箇所は多様ですので、他の部分で強いインパクトを感じることもあるとは思いますが…。

■非暴力コミュニケーションとは?(0分00秒~12分03秒)
 マーシャル・ローゼンバーグが体系づけ創設した非暴力コミュニケーション(NVC)の代表的な著作と言えるのが『NVC 人と人との関係にいのちを吹き込む法』(日本経済新聞出版社)ですが、この本の監訳者が安納献さんで、このネットラジオに登場しています。鈴木重子さんも安納さんも日本ではNVCが知られていなかったころから学び続けておられる方であり、現在ではお二人ともNVCの認定トレーナーの資格も持っておられます。
 さて、NVCとは何かという問いに『マーシャル・ローゼンバーグ博士が体系化したコミュニケーション・プロセス』であると答えると共にその特徴として『(人と人との)関係性が修復されると勝手に問題が解決しちゃう』と回答しています。
 そしてその実例として、この収録の3~4日前にこの番組に出演する3名の関係性が危うくなる中、のべ6時間ほどつながりの質に時間をかけると、そのあとは30分ほどで解決が出たこと。それだけでなく、わくわくして、いつやるの!という気持ちになったことが語られます。
 鈴木重子さんが語った言葉「どっちかがまあしょうがないなと妥協して決めようとしたらできなくはないけれど、交渉に時間がかかるのと、妥協しているので楽しくない、わくわくしない、でも意味があることだからと自分を説得しないといけないことになる」を聞きながら、これってキリスト教会でそれなりにあることなんじゃない?って思わされたのです。会議で双方が妥協しながら決めたはいいものの、もはや楽しくない、わくわくしない、意味があることだと無理やり自分を説得しながら決定事項を「神さまからの恵みです」と顔をこわばらせながら遂行しようとする。教会内でも「なんか大変そうね」と見られ、教会外からも「キリスト教会って、恵みって顔を引きつらせて言いながら苦しそうね」と言われるような状態になることって往々にあるんじゃないかと。
 主イエスからの「互いに愛し合いなさい」と呼びかけはどんな解決策に向かうよりも関係性の修復、つながりの質の豊かさへの招きのように思いますが、それが後回しにされている現実もあるように思います。
「あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。」(マタイ5・23-24)
 と主イエスが語っていますが、礼拝という大切な務めを果たすよりも関係性の修復を優先してほしい主イエスの思いが見えてきます。キリスト者として、務めと関係性の修復、どちらを優先してきたかを問われる思いがしています。

■非暴力の意識(12分04秒~21分59秒)
 ガンジーが亡くなったあと、敵対していた政府の人たちが述べた言葉として「どんなに激しい対立があったとしても、一瞬たりともガンジーに愛されていることを疑うことがなかった」という言葉が紹介されています。
 「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5・44)と主イエスに呼びかけられていますが、なかなか実践は難しいものです。仮に実践できたにしても、「激しい対立があっても、一瞬たりとも愛されていることを疑うことがなかった」と言わしめる関わりができるか、と問われるとたじろぐキリスト者も多いかもしれません。
 NVCはガンジーを含めたそうした非暴力に生きた人の歩みをわれわれが実践できるよう体系化したものです。確かに目の前にいる人は立場が違い、思想も違い、現に反対意見を出し、抑圧してきている。自分だって立場が違い、思想が違う中にある。そんな中、自分の奥にあるものにつながり、相手の奥にあるものにつながり、素直に表現してこうとしていきます。
 具体的なことは後の項目で見ていきますが、ジーン・シャープの研究をわたしなりに言い換えるなら、アイツは悪だから正義の俺たちがやっつけて新政府を打ち立てる、とすると、次に現れるのは新政府は悪で俺たちは正義だと言って暴力的にやっつけようとする人たちが出てきやすいわけです。しかし、非暴力的に歩むとは、そんな風に悪として見るよりもその奥にある人間性を見つめながら、敬意をもって愛情をもって関係性を作りつつ進むとわだかまりなく先に進むことができる。またそのほうが持続性がある。…それを非暴力の意識として伝えています。
 わたし自身、NVCに出会って以来、「あの人、困ったな」「厄介な人だな」と思うことが減ってきました。それよりも、その人の奥にある人間性を見る。つまり、何か大事なことが満たされなくて、思うようにいかなくて、やむにやまれずそういう言動をしている人として見ると、相手は敵やモンスターではなく、一人の人間として見えて来て、その人が大事にしたいことをわたしなりに大事にできることはなんだろう?と思いながら、その人のために祈るようになってきました。悪だからやっつける、というよりも、一人の隣人として愛す…そうした姿勢を養われている中にあります。

■NVCの言葉に翻訳する(22分00秒~30分11秒)
 「お前、食い過ぎだ!病気になるぞ!」だと、脅しというか、怖さ、恐れから人を動かす言い方になります。NVCは「どういう理由で変化を起こしてほしいか」を大切にすると言っています。つまり、罪悪感、羞恥心、罰や義務、責務などで人を動かそうとすると、相手との関係性が悪化していくことを懸念しています。確かに、恥ずかしいから、とか、罰せられるから、とか、義務だから、で動いても、楽しくありません。わくわくしません。これをNVCの言葉に翻訳すると「あなたがそのお皿にのせている量の食べ物を見ると心配になるし、悲しくなる。末永く仲良くしたいのにそれができるか心配になる。これを聞いてどう思うか聞かせてほしい。」となり、翻訳前と意図は同じでも、受け取りやすさややりたい気持ちも変わるということを伝えています。
 「なんでわたしの話を聞いてくれないの!」と叫ぶと、相手は聞く態度を取りやすいでしょうか。それとも反発しやすいでしょうか。これをNVC的に翻訳するなら「ホントに聞いてほしいことがあるんだけど、聞いてくれる?」となります。このほうが聞こうとする姿勢を作りやすく近道になります。
どちらの翻訳においても、相手は自分が大切にされていると自覚しやすいでしょう。

「自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」マルコ9・50
「塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。そうすれば、一人一人にどう答えるべきかがわかるでしょう。」コロサイ4・6

 料理によっては、塩をまぶすから、おいしく食べられるものがあります。塩がないと食べにくい素材もあります。相手が飲み込みやすいよう味付けされた言葉を通して平和に過ごせればと願います。

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