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貧しいのに豊かな豆、納豆


納豆は不思議だ。
お金も時間もないからといってとりあえず食べてるのに。
なのに、なんだかいつもほっとして満たされた気持ちになる。

納豆は、貧しいのに豊かだ。

日本文学では、”貧しさ”の象徴としても描かれてきた納豆
小林一茶 の句「朝々に 半人前の 納豆哉」からはじめ、小林多喜二「蟹工船」、白柳秀湖「駅夫日記」正岡子規「九月十四日の朝」にも、厳密にいえば「納豆売り」がだが、多くが貧しさを表現するように納豆が用いられた。
ただ、これらの文豪があえて”納豆”という言葉を文字に記したのは、貧しさだけじゃないないナニカがあったんじゃないかと思う。
それについては、こちらの本がおすすめ。


では、社会も生活水準も人々の価値観も大きく変化した現代において
「納豆を食べると貧しいのに豊かな気持ちになるのはなぜだろう?🤔


私的に考えてみたところ、本能的快楽と文化的快楽があるような気がした

✔︎本能的快楽

一つ、五感的要素
納豆のもつ旨味・発酵臭・ネバネバによる圧倒的美味しさ、独特のとろっとしてツヤと糸の美しさを感じられる喜び

一つ、生物的要素
本来は自然・動植物・菌類、もちろん人間も天地有機によって導かれ繋がっているものであるが、現代社会ではその繋がりは切り離されどんどん霞みがかってしまっているように思える。しかし納豆を食すことを介して、我々人間もその繋がりの一部に含まれているという安心感

**

✔︎文化的快楽

一つ、健康的要素
「納豆さえ食べておけば健康でいられる」となんとなく思い毎日納豆を食べている人はいるのではないだろうか?
かつては貧困のセイフティーネットだった納豆だが、現代では”健康のセイフティーネット”になっている気がする。
おかんみたい、いつもありがとう。

一つ、創造的要素
納豆と一緒に、オクラやモロヘイヤ、時にはそこらに生えている雑草を積んできてカサ増し納豆にする。
貧しいからこそ、制限があるからこそ、”創意工夫”が生まれる。
そしてそのプロセスは、人が人間らしさを取り戻し人生をより豊かにさせる力があるのではないか?

一つ、歴史的要素
納豆をこよなく愛してきた日本人、そして世界の納豆大国の人々。
先人の暮らしや価値観を、時間と空間を超越して体感できる喜び。


こんなところかな?
意識しようとしまいと、この本能的で文化的な快楽が深層で繋がるおかげで、“貧しいけど豊か”なんていう二極性が同時に成り立ってるのではないだろうか?


なにはともあれ、私が一番言いたかったのは

**今日は7月10日、納豆の日。

みんな素敵な納豆ライフをお送りください**👋
(ちなみに今朝はこの記事書くので頭いっぱいで、まだ納豆を食べられていません。)

こちらは、きむゆきんぬが落書きで描いてくれたやーつ!!だいすき!


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