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資本主義、個人主義、社会契約 #4

◆ディスコミュニケーションに最適化された個人

こにし この節は納得度が高かったです。

うえむら ペルソナの話については、「分人」というのは『ドーン』平野啓一郎という小説に出てくる概念です。個人の人格はひとつに定まるものではなくいくつかのディヴに分割されており、AさんにはAさん向けのディヴ、BさんにはBさんのディヴというふうに、個人Individualではなくて分人dividualとして私たちは他人と接している。だから現代は「個人主義」individualismではなく、「分人主義」dividualismだよね、と主張されている。

趣味などの媒介を通して繋がり合うコミュニケーションが主流になってきていて、逆に媒介がない人とは繋がりにくくなってきている現状は、実感を持って、分人主義へ変わっていくこれからの世界へと想像力を導いてくれます。

その意味では、例えば読書会は、意図して媒介となる分人を作ろうとしている取り組みで、「読んだ本」という共通項が絶対にできるから、その話をするのであれば、たとえ他のディヴがどんなバックグラウンドであっても「その本を読んだ分人」同士のコミュニケーションが可能であるという信頼性に基づいて成立している場です。

そのようにして技巧的にディスコミュニケーションをコミュニケーション側に寄せていくテクニックもあるにはある。逆にそういうものがないとなかなか隣にいる人ですらもコミュニケーションが成立しづらい環境になっている。

こにし これがこのテキストで記述されている「コミュニケーション能力」の大きな部分だと言われると納得感があります。自分のパーソナリティを、接する相手によって意図的に使い分けるとか、あるいはどんな相手に対しても事故らないように最低限のコミュニケーションをとるとか。それはいま明確に社会的に要請されている「コミュニケーション能力」だと思います。「挨拶ができる」とかは逆に要らなくなってすらきている。

うえむら 『ドーン』には分人主義、ディヴに関する佳句が多いので、オススメです。

「あなたが私に、何か強い影響を及ぼすとします。しかし、私はその影響を、直接に個人Individualとして受け止める前に、私の中で、私の母との間のディヴ、父との間のディヴ、妻とのディヴ、大学時代からの親友とのディヴ、恩師とのディヴ、その他全てのディヴを通じて検討できます。そうして、不当と感じたり、受け付けたくないと感じれば、処分するか、あなたとの関係にだけ限定しておけばいいのです。しかし、もしそのあなたのディヴを、母とのディヴや友人とのディヴが気に入れば、リンクします。受け容れるでしょう。私は、そのあなたとのディヴを、ベーシックなディヴとして、他の人間との関係にも採用します。――そう、その時つまり、私は変わったということではないでしょうか? あなたの影響を受けつつ、最後は内発的な決断によって。」

『ドーン』より、たまたま目に付いたP485を引用

ここでは「コミュニケーションのため」といった理由で身につけたディヴであっても、それがやがて自分の「個人」としての性質を成長させていく、といった積極的な意味づけも期待されています。

実は、多重人格もこういう機序ですよね。虐待を受けていた子どもが、虐待されているディヴを切り離して、別の強靭なディヴを志向していく形で多重人格は成立する。多重人格は疾患として捉えられているのですが、現代社会においてはそうした機序をむしろ積極的に活用して、テクニックとして多様なディヴを獲得しようと試みていく。ことほどさように、コミュニケーションは趣味によって細分化しているし、コミュニケーションを通じて私たちは変化していくということだと思います。

こにし それが社会的に良いとされている風潮もあります。単一ないし少数のディヴで過ごしていくこと危険とされており、だからこそディヴを増やすことだけが目的ではないでしょうが、社会の色々な属性の人たちと触れあったり、あえて別の文化を受容したりすることが、非常に良いことだとされている。それを一つのものとして管理するのか、完全にメモリを分けて管理しようとするのか、という違いはあるのでしょうが、少なくとも悪いこととはされていない。

うえむら つまりディヴをコレクションすることが価値づけられている。ディヴが多い人は「人間として深みがある」とされる。

こにし それは明確に良いこととされていますね。新しい何かを見たときに、色々なディヴによって判断した結果、最終的なアウトプットが出てくるプロセスがちゃんと出来ている人のことを「リテラシーが高い」と称したりもする。そこはすごくポジティブに受容されている気がします。とはいえ完全に分人化して他人と接するのはドライ過ぎる気はしますが。

うえむら 「キャラ化」は「分人化」とは少し違うのかなと思いました。「キャラ化」は、以前の回で非モテの話をした覚えがあるのですが、その空間における中心的な価値があって、中心的な価値に寄せた中で自分がどのように振る舞うかを、いくつかある選択肢の中から選んでいるということなので、自分の中にあるどのディヴにおいて中心的な価値を受容しようか、という積極的な態度というよりは、場の空気に自分を馴染ませていく方向性ではある。

こにし それは自分のディヴの中からどれを引き出そうか、という方向性でもありますよね。

うえむら 確かにそうか。自分で演じられるレパートリーの中で、場の空気にもっとも合致できるキャラを選んでいるという側面はありますね。

こにし 「演技をする」側面が重視されているとはいえ、それは会社組織などに昔からあって、そこに適応できないとしんどいというのはその通りだと思います。

うえむら それで、ディヴというテクニックを使うことによって、無理矢理適応しようとする自分は、自分の人格の一部に過ぎないと捉えることができるようになる。人格の全てが変化させられているのではなくて、この場においては自分のディヴが役割を演じていると考えるのは、精神衛生上は良いことですね。

こにし 影響範囲を極小化できますからね。

うえむら 最近魚屋を退職した私の友人がTwitterでそういうことを言っていますね。転職して業務委託でブルシット・ジョブな事務仕事に従事しているけれど、「そこでは会社組織の中でのロールプレイを最大限効率化することで、魚屋を越える年収を獲得できるのだ」みたいな、彼らしい言い方ですが。

こにし そのあたりの言い方はあの方らしいですね。無理矢理演技をしないといけないのは、ブルシット・ジョブの特徴でもありますね。

うえむら P270「それこそ東京のホワイトカラーの家庭に生まれ・・・」とあって、私は書き言葉で「それこそ」を使っているのを初めて見た気がするのですが、しろくまさんも「それこそ」が口癖なところがある。

しろくま ホントですか。そうかもしれないですね。

うえむら 「それこそ」は最近流行りだした接頭語だと思います。友人のラグビー選手も「それこそ」をよく使うのだけれど、「それこそ」って共感を求める言葉ですよね。二人でも三人でも良いですが、その場において何らかの共通の認識があって、その共通認識のプールの中から引き出してきた語彙だよね?という前提が内包されている。

逆に共通認識がない中で「それこそ」と言っても、「どれこそ?」となる。「それこそ」が流行る理由は、知識のプールが共有されている空間でコミュニケーションが実践されていることの一つの現れだと思いました。となると、著者もこのテキストにおいて「それこそ」を使うことで、いみじくもそれを表現してしまっている。

こにし 著者自身もそうだし、読者もみんな、こういうヤツ嫌いだよな、という共感が求められている。

うえむら 同質化の押し付けに対する違和感を表明するテキストすらも、同質化してしまっている、ということが、終盤近くになってうっかり入ってしまった接頭語によって露呈している。

こにし どんな社会運動も、途中からセクト化してきてしまうのですよね。

うえむら しろくまさんが「それこそ」を使うのはもうちょっとカジュアルなのかな。そこまで共感を求めようという意識がある訳ではない。

しろくま 全然意識していなかったですね。強調語くらいの意識でした。

うえむら しかし強調語だとすると、傍点やダブルクオーテーションによる引用符が「それこそ」の裏には隠されている。

しろくま そうですね。何かしら具体例を出す前のシグナルですね。その具体例が共通の認識に基づいている前提があるというご指摘はその通りですね。

うえむら そうそう、共通土壌がある。共通土壌のないコミュニケーションにおいて「それこそ」は成立しない。

こにし とはいえここでボクは著者と「それこそ」の共通認識を共有できましたね。曲がりなりにも東京で数年間暮らしながら働いた身として、「思うに、・・・東京に暮らすものは誰でも、双方の合意のもと、自分の見せたいものを見せ、自分が話したい相手と話したい話題でだけコミュニケートする営みを繰り返し、コミュニケーションの選考やパーソナライゼーションをごく自然に行っている」というくだりは共感できます。それこそさっきの分人化であったり、キャラ化であったりという指摘も。

しろくま また「それこそ」を使っている(笑)

こにし そうそう。もうこの場では共通認識が出来上がっているからね(笑)

うえむら なので、ラグビー選手が「それこそ」を使うのは、彼らはチームという同質化されたメンバーシップの中にいるから、自然と「それこそ」交換し合うことによってメンバーシップを強化している、そういうテクニックだと思います。

しろくま 時に押し付けになりそうだとも感じました。そこがあたかも、それこそマジョリティの認識であるかのようになってしまう。(また「それこそ」を使っている(笑))

うえむら いまのところ私はしろくまさんやこにしさんの「それこそ」に押し付けを感じたことはないので、それは適切な場面で「それこそ」を使って頂いているということだと思います。

しろくま そうですね、私たちには共通認識があるのでしょうね。使う場によって気をつけた方がいいかもしれません。「それ当たり前だよね」感が出たらマズい。

うえむら 「それこそ」の押し付けは、セレンディピティ空間においては控えるべきなのでしょうね。

こにし 「それこそ」を共有できる範囲の中でコミュニケーションを完結できる仕組みがだんだんとできてきている訳で、そこにはポジティブな面、自主的に求めることでコミュニティを得られるという可能性は昔に比べれば飛躍的に上がっている側面もあるのだけれど、一方でエコーチェンバーのように考え方の分断がもたらされる側面もある。そうした弊害は考えていかないといけないでしょうね。

うえむら いやいやそんな、これからも積極的に「それこそ」を使ってください(微笑

こにし そう言われると、避けるべきなのかもしれません。

うえむら 「それこそ」のある空間と、ない空間のバランスが必要というか。

しろくま 意識的に「それこそ」の頻度を見直してみる。

うえむら 最近私「それこそ」多いな、と思ったら、「それこそ」のない空間を取り入れるべきなのかもしれない。

こにし 異質なものを吸収しようという。

うえむら ディヴのコレクションという営みを図るにあたって、一つのシグナルとしての「それこそ」を位置づける。

こにし 「それこそ」カウントを取り入れていきましょう。

◆本当に多様なありかたを守るためには

うえむら P272には「三平方の定理や原子配列といった自然科学領域のファクトと違って、ある社会、ある時代で常識とみなされている社会科学領域のファクトは永遠不変ではない。」とあって、自然科学の安定性と社会科学の流動性が対比されているのですが、サイバー空間における暗号は素数でできていますよね。素因数分解の困難性に着目して、公開鍵と秘密鍵は素数になっている。

そういう発想は、「信頼」を数学という自然科学に帰していると思いますよね。だから「自然科学は変わらないけれど、社会科学は変わりうる」というテーゼに対して、「信頼」という社会科学は、どんどんと自然科学によって掘り崩されて「変わらない」ものへと代替されているのではないか、という視点もあり得ると思います。

こにし 逆に「自然科学だって変わりうる」という視点もあると思います。暗号の例はおっしゃるとおりで、巨大な数値の素因数分解の困難性が現代暗号(RSA暗号)の解読困難性の根拠になっている。素因数分解にバリバリ時間がかかるから、その時間は現実的ではないからこの暗号は安全だ、という発想、一応セキュリティにかかわっているので。

うえむら そうか、あなた専門家だった。

こにし テクニカルの全てを知っているわけではないですが、暗号の安全性は鍵長(bit数)やアルゴリズムの方式によって変わってくるのですが、鍵長は人間が打ち込むようなパスワードの8桁とか16桁といった次元ではなくて、現在では128桁や256桁が一般的です。

しかしもともとの鍵長はそんなに長くはなかった。原始暗号と呼ばれる「カエサル暗号」は文字をシフトさせていくだけでしたし、32bitや64bitだった時代はあった。そうなると解読に必要な計算量が小さくなるので、計算機の進歩によって安全ではなくなることがある。そうであれば、64bitでは危ないから128bitにしようとか、128bitでもキツくなってきたから256bitにしようと進んでいく。

だから自然科学自体も、法則性や計算方法は変わらないけれど、社会の変化に応じて仕組みがアップデートされることがある。それがインターネット上の通信の安定などの裏付けになっているように、色々なところに入り込んでいます。情報通信的にはセキュリティですし、機械の安全、自動停止といった仕組みもテクノロジーによって信頼性を担保している。

ほとんどの家庭用の機器に安全機能が付いているように、社会的な規範や規制が厳しくなっている領域なので、めちゃくちゃ増え続けていますよね。レジリエンスという言葉も一般的になってきました。

うえむら リスクを捨象して安定を志向していく中で、自然科学の力が援用されているのであれば、「通念や習慣の奴隷になってはいけない」という言葉はどんどん困難になっていくだろうし、尚更強い警鐘として響いてきますね。

こにし そして、自然科学ですらそこから自由ではないということです。安全だったものがいきなり安全ではなくなったりする。変わらないものは、「歴史的事実」くらいですかね。いや、それすらも枉げられる

うえむら 「歴史的事実」はフェイクニュースと陰謀論によって枉げられるね。なるほど、一見「変わらない」と思われたことがらが、実は徐々に変えられていく時代だということですね。

こにし 一番確かだと思われたものすらも枉げられる。本当に確かなものが何もない世の中になってきました

【第7章終わり】

◆全体感想

こにし 面白い本だったと思います。著者自身が精神科医なので、知識的なムラが感じられる部分もありましたが、全体的な骨子としては、社会が便利になっていく中である種の不自由さが生じてきているという問題意識がどの章にも通底していました。

具体論のいくつかには「ん?」と思う部分はありましたが、全体的な流れには納得感がありましたし、「なるほどそういう見方があるのか」と思うところもありました。特にコミュニケーションの話は面白かったし、まさに「それこそ」を使わないように気をつけないといけないと、個人的にも警鐘を鳴らして頂きました。

しろくま 私も面白かったです。「違うんじゃない?」と思えているところはそれでよくて、逆にそう思えないところは、自分もそれが当たり前に思っているところがあったので、それに気づけたのは良かったです。「不自由とも感じていなかったけれど、言われてみればそれも生きづらさかも」と、ハッとするところはありました。

うえむら 最初は出産を間近に控えた妊婦に対して子育てのリスクについて懇々と説くという鬼畜の所業からスタートしましたけれど(笑)私は東京にいたときに受動喫煙の政策をウォッチしていて、タバコの自由と健康という価値がコンフリクトしているのを目の当たりにしていたので、健康について記述した章が特に面白かったです。

こうした記述をブロガーと呼ばれる人が、精神科医という一定の名望はある程度持っている人ではあるけれど、草の根的に分析してひとつの書物にできるような言論空間が拡がりを見せればいいですね。と、そのように著者も書いていますが、私もその意見には共感しています。

こにし この本は紹介されないと存在すら知らなかったと思いますので、貴重でした。

うえむら しろくまさんも臨月ということで、しばらくお休みといたしましょう。

しろくま すごく楽しかったのでまたやりたいです、是非。まずは仕事と家庭が両立できるか試してみます。

こにし 落ち着いたらまたやりましょう。私もスローターの本を読み直してみます。

うえむら それでは、みなさんまたアップデートした状態でお会いしましょう。

こにし エコーチェンバーではない、違う価値観を持ち込みましょう。

【完】

<追記>
しろくまさんは11月に無事出産されました。おめでとうございます。

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