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スピークイージー、 禁酒法が生み出した文化。

 スピークイージー(別名:ブラインドピッグ / ブラインドタイガー)とは、アルコール飲料を密売する場所、要するに潜りの酒場を指し、人目に付かない場所(地下室等)や秘密の暗号を伝え隠し扉から入る仕組みがあったり、酒を飲んでいることがバレないよう、ティーカップを使用したり今で言うソフトドリンクのようにアルコールに見せないよう提供する店も存在していた。
 スピークイージーは、1920年〜1933年の間(州によってはもっと長い)アメリカ合衆国で禁酒法(アルコール飲料は販売も生産も輸送の禁止)が施行されていた時期に隆盛していた文化と言える。
禁酒法の正式名称は「ボルステッド法(国家禁酒法)」と言い、下院司法委員長アンドリュー・ボルステッドに因んで名付けられた。

 今日では、スピークイージーと言えばレトロなバーを指していたり、店名として用いられことも多い。
 

 禁酒法の背景としては、禁酒にすることで労働者の生産効率の向上と産業の発展、お酒が原因となる暴力や犯罪の抑止があったようだ。
加えて、禁酒法とは正確には【 酒類製造・販売・運搬等禁止法」】であり、飲酒することについては実は罪に問われないと言ってもいい。
 禁酒法の始まりで、お酒を抑制することで魅力的なものに昇華され欲する人は続出したし、お酒を巡る犯罪(密造や密輸、密売)が起きいた。 
かの有名なギャング、アル・カポネは「私は市民が望むものを供給することで、金を稼いだだけだ。 もし、私が法律を破っているというのなら、顧客である多くの善良なシカゴ市民も、私と同様に有罪だ。」という言葉を残した。
的を得た発言であるが屁理屈でもあるのではないかとも思える言葉だ。
市民が求めるから、自分が提供しているだけだと言っているのだから。
 禁酒法の施行されてる時代、富を築いたのは善良な市民ではなく、ギャングや隣国カナダ(カナダは、アメリカへのお酒の輸出を禁止していなかったので、潜り込んできていた)だったのではないだろうか。
 
 現代の常識で、禁酒法という事実を初めて知ったお酒好きの人は間違いなく驚愕するだろうし、スピークイージーという文化を肯定してしまうだろう(大きな声では言えないが)。


スピークイージーの語源

 スピークイージーの語源は、禁酒法の実施される更に前、1880年代に存在していた無許可バーを「スピーク・イージーズ」と呼ばれ、公共の場やその場所について密かに話すことで警察や隣人に知られないようにするために呼称されるようになった。
英国海軍による1844年に書かれた伝記に初めてピッツバーグ都市圏における無許可の酒類販売を指す「スピークイージーショップ」という呼称が最初に登場している。
当時、無許可バーを経営していたケイト・ヘスターが提唱した呼称がアメリカ合衆国内で有名となり、その言葉が使われ始めた。

 諸説は置いといて、スピークイージーはお酒ここにあるよってことを「(お酒のことを)誰にも聞かれないようにひっそり話す」とか、「バレないようにこっそりお酒を注文する」ことから来てるようだ。
今では、考えられない光景だが当時はそこまでしてでも民衆がお酒を欲していたことが推察できる。今よりも過酷な環境を生きてきたのだからお酒を飲みたくなる気持ちは当然のことだろうし、国や宗教的観点から禁酒しろなんで強制は耐え難いことっだたのだろう。

別名:「ブラインドピッグ」や「ブラインドタイガー」

 19世紀のアメリカ合衆国で誕生したこの言葉は、酒場の経営者は見世物(動物など)で金を取りアルコール飲料を無料で提供することで法の網をくぐり抜けていたことから由来されている。
また、「ブラインドタイガー」と呼ばれる潜りの酒場では販売者が身元を隠す違法な酒場と呼ばれる場所で質の悪いウイスキーが呑まれていた。

 なぜ、「ブラインド」というワードが使用されていたのか気になってしまい、「blind」という言葉を直訳してみると、「見えなくさせる」・「目をくらませる」・「酔っ払った」という意味がある。
これらの意味を踏まえると、なぜ「ブラインドピッグ」や「ブラインドタイガー」と呼称され始めたのか考察しやすい。
ブラインドピッグ → 動物や見世物とお酒を物々交換する場
ブラインドタイガー → 粗悪なお酒を飲んで酔っ払う場
上記のようなことだったのだろう。恐らく。


アメリカ合衆国文化の象徴の一つ、スピークイージー

 禁酒法時代、スピークイージーは何軒も存在し人気を得ており、それらの一部はギャング等の犯罪組織関係者(禁酒法以前、マフィアの主な活動はギャンブルと窃盗に限られていたが、禁酒法時代には無許可で酒を製造販売する)が経営していることが多かった。
警察や酒類取締局職員は度々捜索し経営者や支援者を逮捕していったがそれでも利益は大きく繁栄を続けた。
というのも、当時、禁酒法を取り締まる執行官の待遇が悪かった(薄給な上に特別な資格も持っていなかった)ため、密造・密売業者やそれらを纏めるギャング達に容易に買収されていたことも起因していたのでは無いか。
 一般的に利益が出るという理由から低品質な違法酒(いい加減な密造酒)を売っていたこともあり、その味を誤魔化すために新しいカクテルに変わったことに起因もしている。
 また一方では、世界恐慌で景気が後退すると財政難の中、密売酒・密造酒が課税されないことが大きく注目され、医者は2ドル程度で処方箋を書き、医療目的と称して薬局を通すことでウイスキーを手に入れることができた。

 潜りの酒場と聞くと、のぞき穴があるような隠れ家や地下室は容易に想像できるが、調べていて驚いたのは洋服店や床屋、そして葬儀屋までもスピークイージーとなっていたようだ。
そして、禁酒法の終わる前年までに全米では約22万件のスピークイージーが存在していたらしい。ということは、他にも驚くような業種(場所)が酒場と化していたのではないだろうか。


禁酒法の終わり(スピークイージーの衰退)

 禁酒法に対する反感が大都市でも次第に高まるようになり、撤廃を望む意見が出るようになり、1932年の大統領選挙では禁酒法が中心的争点となるまでに至った。
禁酒法の改正を訴えて勝利し、大統領へ就任したフランクリン・ルーズベルトが重量にして3.2%、容積にして4%のアルコールを含むビールと軽いワインの製造・販売を許可したことにより1933年から禁酒法の終焉に向かった。
(いち早く禁酒法が制定されたミシシッピ州は1966年まで禁酒法を廃止せず、最後まで禁酒法が残る州となった。カンザス州では1987年まで、バーの様な屋内の中で酒類を提供することを許可せず、今日でも酒の販売を制限したり禁止する「ドライ(禁酒派)」な郡や町が多数残っている。)
禁酒法廃止後、ギャング等の犯罪組織は安価なアルコールとの販売競争に敗れ、多くの州で、闇市でのアルコールの売り上げを失った。
 禁酒法の煽りで多くの醸造所・蒸留所は禁酒法禁止後にこれまでのようにすぐに営業再開ができるところは少なかったが、今のバドワイザー等のアメリカンラガーのビールが導入され始めた。


 今日では、社交の場として、コミュニケーションツールとして、一人で堪能するために等、お酒という文化は生活の一部に当たり前に存在して、苦難の時もあったことを知ってもらえればと思う。
また、禁酒法時代に粗悪な(質の悪い)お酒が出回った事で、味を調整したり、ソフトドリンクに見えるように工夫したりすることで発展したもの(飲み方)がカクテルだと言われている。その点では一つの功績と言える。
全てが描写されいているわけではないが、多くの小説や映画等で当時の情景が数多く語られているメディアがある。いくつかレコメンドしておくのでどれか一つでも目を通してから、お酒を飲んでみることで一味違った楽しみ方ができるのではないだろうか。


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