見出し画像

わたし流、ことばの紡ぎ方


人のことばの癖を観察することが、すごく好きだ。


同じ事象を伝えようとしたときだって、人それぞれ選ぶ表現は異なる。
強い雨が降っているさまを、「豪雨だ」と書く人もいれば、「雨がざあざあと降っている」と表現する人もいる。

音にしたら同じ文だって、表現は一通りじゃない。
漢字で書くか、ひらがなで書くか。どこで読点を打つのか。

「りんごは赤い」を、ある人は「林檎は赤い」と書くだろうし、「リンゴは赤い」と書く人もいるかもしれない。
ひらがなの「りんご」はキティちゃんが持っていそう。漢字の「林檎」からは、木からもいだばかりのみずみずしさを感じる。
こんな風に、それぞれの書き方から受ける印象は少しずつ違う。


ことばの選び方からは、その人の人となりや、書いたときの感情が伝わってくる。
おこがましいのは承知だけれど、その人の見ている世界をほんの少しだけ覗くことさえできる気がするのだ。
だから、わたしは人の書いた文章を見るとわくわくする。
(手書きであればなお良いのだけど、社会人になってから周りの人の肉筆を目にする機会が格段に減ってしまい、とても寂しい)


そうやっていつも人の紡ぐことばを楽しんでいるのだけど、
ふと、じゃあ、自分の文章はどんな風に見られているのだろう?と気になった。

仕事で書く文章や、外部のメディアに載せるインタビュー記事ではなく、自分の書きたいように書く文章。
Facebookの近況報告や、本のレビュー、思考を吐き出すnoteなど。

と言っても、自分の書いたものを客観的に「こんな印象だな」って分析することは難しい。
そもそも、どんな風に文章を書いているのかさえうまく説明できない。
そこで、普段自分が自由に文章を書くときはどんな工程を踏んでいるのか、何にこだわっているのか、言語化して振り返ってみることにした。


ことばの種にアンテナを張る


自分の内部でぐるぐるしている、ことばになりきらない思考の群れから、言語化できそうな文章の種を発掘する工程。
といっても、「なにか書かなきゃ」といって無理に脳みそを掘り返すのではなく、ことばにできそうなとっかかりにアンテナを張っておき、逃がさないようにキャッチするのだ。

たいていの場合は、何でもない瞬間に突然「これ、書きたい」ということばの種が見つかる。
日記帳にまとまりのない感情を書き連ねようとするとき。夜、シャワーを浴びているとき。休日の朝と昼のあいだに、ぼーっと部屋の天井を眺めているとき。
そんなひとり時間にアイデアが浮かぶことが多いけれど、人と話していてひらめくこともある。


わたしの場合、テーマが先に浮かんでくるときもあるけれど、最初に「こうやって言いたい!」というワンフレーズがぽっと浮かぶことが多い。
まだ整っていないふわふわした状態のときもあるけれど、あとでブラッシュアップすれば良いから、まずは忘れないように書き留める。

案外、構成をしっかり考えてから中身を書き始めるよりも、ミクロな部分から思いついたほうが満足のいく文章になりやすい、気がする。


丁寧にことばをチューニングする


どんな文章を書くときもやっていることだけど、感情や意見をことばにするときは、それらのニュアンスがいちばん伝わる表現になるように、納得がいくまで表現を考え抜く。


まず、書く最中に気を付けているのは漢字とひらがなのバランスと使い方

最初にもふれたけれど、漢字、ひらがな(それとカタカナも)の操り方次第で、文章の印象にはかなり違いが出る。
だから、意図的にそれらの割合を調節する。

やわらかい雰囲気にしたいときは、ひらがなを多めに。
ちょっと堅い話をするときは、漢字を多めに。

視覚的にストレスの少ない文章を心がけているので、漢字ばかり、ひらがなばかりが続かないようにも意識している。


ある程度文章がまとまってきたらやるのは、文章のリズムを整えること。

書き連ねた文章を目でなぞって黙読してみる。
頭の中で音にしたときに、スムーズに読めなくて引っかかる部分があれば、いろいろな工夫をして、すっと入ってくるようになるまで調整する。

読点を打つ場所を変える、または増やしたり減らしたりする。
修飾語の位置を変えてみる。
長すぎて自然に頭に入ってこない文があれば、2つに分けてみる。
同じ段落に同じ表現が複数ある場合は、どちらかをパラフレーズしてみる。
などなど。


書いてみると、なんだかどれも「文章力トレーニング」「作文技術」といった本に出てきそうなやり方だ。
でも、わたしは「こういうパターンのときはこのテクニックを使う」と意識しているわけではない。
そういった本で示される”正解”に近づけようとしているわけでもない。
少なくとも、制約のない、自分自身の文章を書くときには。
大切にしているのは、読んだときの心地良さだ。

この工程には、ことばのチューニング、という表現が一番しっくりくる。
感覚を研ぎ澄ませて、ことばが自分の伝えたいニュアンスにどうしたら近づくかを探る。
これが限りなく近づいたとき、自分にとってすごく心地良い文章になるのだと思う。


自分の語彙にないことばは使わない


これは、やらないように気を付けていること。

自分自身の感情や意見を伝えるために文章を書くときは、自分の中から自然に出てくることばを使うようにしている。
知らないことばを使った瞬間に、書きたかったはずの思いがわたしのものではなくなってしまう気がするからだ。

知っているけれどちょっと自信のないことばは、認識している意味が合っているかどうか、調べたうえで使うこともある。
でも、いくらニュアンスをぴったり言い当てることばが見つかったとしても、自分が自然に使うことができないのであれば、それは禁止ワード。
かならず、自分の語彙の中で表現する。



振り返ってみると、やっていることはシンプルで、変わったことは何もしていない。
でも、自分で言うのもなんだけど、まあまあ丁寧にことばを扱っていたんだな、という印象だ。
(逆に喋るときは、ことばを発するまでの瞬間にここまで考えることができていないなあ、ともふと思う。喋ることは苦手だ。)


このnoteに、書き方を指南する意図はまったくない。そんなこと、恐れ多くてできない。
むしろ、わたしが上で書いたようなことを意識しながら同じ事象を文章にしたとて、きっとできあがる文章は全く同じではない。
人によって、どんな文章が心地良いか、という感覚はおそらく違うから。
わたしは、その違いが大好きだ。


今回、キナリ杯に応募しよう、というシェアハウスの友人の誘いには、ほかにもたくさんの友人が乗っかっている。
知り合いでない人が書いた文章を読むのももちろん好きなのだけど、人となりを知っている友人たちの、思いのままに紡がれたことばにたくさん触れられることはとっても嬉しい。
これをきっかけに、周りに日常的に文章を書く人が増えたらいいなあ。
(と言いつつわたしも、夏休み最終日の追い込みの如く、キナリ杯〆切の日に駆け込み投稿する有り様なのだけど。)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?