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「共感している」と勘違いして、高齢者相手に知ったような口は利かないほうがいい

■ 知ったような口を利く介護スタッフ


介護の仕事はコミュニケーションが重要となる。

コミュニケーションはテクニックでもあり慣れでもあるが、その基本は相手を敬う礼節があれば問題ない。逆に言えば礼節に欠けた態度をとるとコミュニケーションは成立しなくなる。

礼節とは態度によって示すものである。それは挨拶の仕方や敬語を用いるといったことであり、対話の際は傾聴する姿勢をもつといった話でもある。

こうした態度で利用者たる高齢者と関わりを重ねて、その人のことを徐々に知りながら介護を要する側と介護を行う側の関係性は構築されていく。

そして介護者は支援を要する高齢者に対して「共感」をする過程を経る。
共感によって高齢者の視点に立つようになり、より深い支援を行えるようになっていく。

しかし、「自分は利用者に共感している」と勘違いしている介護者がいる。
そうして高齢者に対して知ったような口を利くようになってしまう。

これは非常に痛い介護者であり、利用者だけでなく周囲から顰蹙を買うようになってしまう。ときには苦情につながることもある。


■ 馬鹿にしているように見えることも


介護サービス事業を営む立場として、利用者に知ったような口を利かないよう指導をすることがときどきある。

このような指導を受けるのは若い人と思われがちだが、むしろ高齢スタッフのほうに注意する場面のほうが多いような気がする。

それは高齢スタッフは利用者と年齢が近い分、健康面・人間関係・時代についての悩みを理解しすいからでもあるが、いかにも「自分も分かっている」とか「年とればよくある話」みたいな話にもっていきたがる。このくらいであれば「まぁいいか」と目をつぶる。

しかし、先日とある高齢スタッフが利用者に対して「年とれば色々なことができなくなって、情けなくなるよね。泣きたくなるよね」と言っていたので、その場で発言を制止した。そして個別指導をした。

その高齢スタッフからすれば共感した声掛けをしているつもりであろうが、傍から見ていると馬鹿にしているように見えたからだ。
見る人が見たら精神的虐待と訴えられても仕方がない。利用者によっては「お前に何が分かる!」と怒ることもあるかもしれない。

共感しているつもりが知ったような口を利いているように見え、それが相手の心象を害する可能性があることは覚えておいたほうが良いだろう。


■ 独りよがりにならないために


年齢問わず、自分がその分野のことに詳しくても、自分が相手と立場が近くても、「自分もそうだから相手も同じはず」というのはただの決めつけであって共感ではない。

それは独りよがりの知ったような口を利いているだけの関わりである。もしかしたら相手は「そういう話ではないのに」「同じにされても困る」と思っているかもしれない。

例えば、「最近忙しくて体が疲れていて・・・」と伝えたところ、その話を聞いた相手が「そうなんだ、実は自分も忙しくてほとんど寝てないんだよ」と忙しい背景や自分の辛さを言い始めたらどうだろう? 果たしてこれは共感であろうか?

本当の意味で共感するならば、「どんな風に忙しいの?」とか「疲れが溜まって大丈夫?」といった相手が何を言いたいのか、どんな声をかけてほしいのか考えるのが適切である。

それは相手が高齢者であっても同じだ。

年を重ねて社会的関りも少なくなり、心身も衰えている状態になっている高齢者とは言え、人生の荒波を乗り越えてここまで生きてきたことを忘れてはいけない。知ったような口を利くことは礼節に欠けていると思うべきだ。


そもそも、知ったような口を利いている介護者も、同じように年月を重ねて順当にいけば高齢者になる。そのことを忘れて、上から目線のように知ったような口を利いていたら、いつかは自分も高齢になったときに同じような目に遭うだろう。

そのことを胸に刻んでいれば、相手が高齢者でなくとも誰が相手であっても知ったような口を利くなんてことは控えるようになるのではないだろうか。



ここまで読んでいただき、感謝。
途中で読むのをやめた方へも、感謝。

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