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「メタバース」は新しいゲームの概念ではないし、楽園でもない

Travis Scottがフォートナイトで新曲を発表したという話題が擦られまくり、あつまれどうぶつの森の大ヒットに伴って、「新しいコミュニティのかたち」、「ポストコロナにおけるコミュニケーション」といったゲーム世界のメディアの持ち上げられ方を見て古い、ゲーマーは訝しんでいるかもしれない。ゲームのメタバース(仮想世界)は新しいものではないですよ、昔からありますよと。

例として頻繁に引用されるのは2003年にリリースされたセカンド・ライフで、電通が広告媒体として利用しようと土地を買ったりして話題になったゲーム。メディアが注目した最初のメタバースブームと言える。同じように人生をシミュレーションするゲームで、売上という観点でいえばシムピープルのほうが流行ったと思うのだが、セカンドライフはメディアで妙にもちあげられ、"そこはかとないビジネス臭"でやいのやいの言われたタイトルであった。結果は御覧の通り、大きな花火は上がらなかった。大規模オンラインゲームを支える技術も今とはくらべものにならないし、時代が追い付いていなかったともいえる。

さらに時代をさかのぼれば、初めてオンライン対戦を実装した1985年の「Island of Kesmai」があり、グラフィックがないテキストのみのターン制のゲームで、文字とドットでマップを再現していた。ゲーム由来のメタバースの元祖である。

1990年代以降にインターネット普及に伴いMMO RPGが流行しはじめて、UOがあり、EQがあり、WoWがあり、ラグナロクがあり、FFがあった。仮想世界にみんなが集まってゲームをプレイするというのは30年以上の長い歴史があるわけである。コロナ禍の自粛・リモートワークの普及で注目を浴びたのは良いことだが、新しいものではないというのは強調しときたい。

それと、現実世界がウィルス騒ぎと黒人抗議デモによって大変な状況にあるなかで、"逃避する"という意味でゲーム世界が穏やで争いのない平和な世界として報道されることもあるが(どうぶつの森がそういうゲームなので仕方ないのだが)、ゲームの仮想世界は現実よりも質が悪いというのは周知の事実である。煽り、誹謗中傷、セクハラ、差別は日常茶飯事。ボイスチャットを消していても、テキストチャットでぶっこんでくる攻撃的な対話に辟易した経験はオンラインゲームのプレイヤーならまあ普通のことだ。

特にキッズのウザさ(またはウザイキッズの存在)はしみじみとして趣がある。ツベで「ゲーム名 キッズ」で検索すれば年端のいかない子供が暴言を吐きまくり、それをYouTuberが見事に成敗するという心温まる動画をたくさんみることができる。

ゲーム世界にいるのは人である。なので、匿名を良いことに暴言を吐いたり、人間関係がこじれたり、詐欺をしようとする輩もいる。こういったいざこざを神の視点で監督し、全てを調和へと導く偉大なるゲームマスター人工知能が登場しない限りは、仮想世界は楽園とは程遠い場所である。

Xboxのフィル・スペンサーはそんな清濁あわせもつゲームがそれでも"あらゆる人に触れられるもの"であり続けるために、こんな文章を書いている。

ロックンロール、本やテレビの前と同じように、ビデオゲームは軽薄で暴力に満ちているものであるとみなされることがあります。しかし、ゲームは平等という価値をそのデザインの中に組み込んでいます。他のエンターテイメントに倣うだけではなく、年齢、教育、社会経済、人種、宗教、政治、性別、志向、民族性、国籍、能力といった領域の平等を独自の視点で重んじています。ゲームはステレオタイプにとらわれることなく、普遍的な遊びの言語によってゲーマーたちを結び付け、遊びの欲求にこたえるのです。https://blogs.microsoft.com/blog/2019/05/20/video-games-a-unifying-force-for-the-world/

フィルスペンサーはもちろん色んな事をわかっている人なので、それでもこういった価値がゲームにはあるんですよ、と言っているわけである。

変に理想化されることなく、コロナ禍でヤバい現代におけるコミュニティとしてゲームの仮想世界が認知され、そしてその世界での過ごし方(それは現実社会の道徳の授業とさしてかわらないかもしれないが)が啓蒙されればよいと切に願う。

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