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2012年06月18日 ビートたけしとニーチェの女性論 /06月26日 美元(みをん)の記事を読んだ。

2012年06月18日 ビートたけしとニーチェの女性論

 ニーチェほど、女性の性質というものを端的かつ明確に表現した哲学者はおるまい。日本の有名人で言えば、それは「女は死ななきゃ治らない」を書いたビートたけしがそれに当たる。


 私自身は自らの経験論とニーチェの影響が強いが、ニーチェとビートたけしの著には私があまり、というか、ほとんど強調しない大きな共通点がある。それは「羞恥心」に関する叙述だ。


 ビートたけしの著とは、日本人全般に対する皮肉に満ちていて(宮台に関しては「見下し」に満ちているが)、カレ・ラースンに言わせれば、おそらく「シニシスト(現実冷笑主義者)」の典型であり、もっとも、今の若者のそれに比べれば、鬱にならず「笑い飛ばそう」という、ポジティブなものだが、とにかくまともな議論も「TVタックル!」で見受けられるように斜に構えて「どうせ」と言って取り合わない気質の持ち主だ。


 厭世主義とも嘲笑的とも取れるスタイルだが、その圧倒的な知名度から、著名な偉人の引用に頼らず、自分の経験論と直感、いわば意見だけで本を書いているところに、戦後すぐに生まれて激動と成長の昭和を生きてきた、彼自身の人生訓が聞けようというものだ。また、それこそが彼自身が様々なものを見聞きして得た感想としての、机上ではない現実的な一人の「偉人」の声であろう。

「もはや、女に羞恥心ってものがなくなっているんだ。」「『恥じらい』とか『おしやか』って言葉はさ、全部女のためにあるもんでしょ。」   (ビートたけし著「女は死ななきゃ治らない」より)


 しかし、その後ですぐにニーチェを読むと、全く同じ言葉が出てくるのに正直驚いた。


 凶暴な女に完全に支配(排除?)されてきた人生を送ってきた私にとって、「羞恥心」という概念は、 まったく頭の片隅にもなかった。私のような世代の男にとっては、そんな観念とは女というものがまだいた時代の遠い昔の神話の中だけの空想だ。

「一一四 性愛についての異常な期待と、この期待の羞恥―。これあるがゆえに、女性はすべての自分の観点をそこなう。」(ニーチェ著・竹山道雄訳「善悪の彼岸」より)


 共通のワードと言っても、「シニシズム」のたけしと「力の意志」のニーチェとでは、全く意味合いが違う。

 私(団塊ジュニア)とたけし(団塊)は、コミュニケーションで優位に立った女性に対して、羞恥心を求めている立場であるのに対して、ニーチェは羞恥があること自体を否定的に書いている。


 もっとも、私にとって女の羞恥なんて夢のまた夢だ。

 70年代から80年代生まれの女から極めて理不尽なことを生涯に渡ってびっしりされ続けような人生だが、ただの一度も謝ってもらったことがない。

 私は生涯これらの世代の女が謝ったのを見たことが一度もない。また、親切をしてお礼を言われたことも一度もない。

 人に対してお礼を言うのを見たことがない。

 だが、新宿駅前で純粋で「謙虚な」インド人女性を見かけたとき、初めて人間の女を見た気がしたほどだ。


 私は、まず「コミュニケーションに入れてくれ」と。 

 女のなりふりなんてこちらから要求できる身分には全然ない時代だ。


 しかし、同著においてニーチェはこうも書いている。

「女性は男性をおそれることを忘れつつある。しかるに、『おそれることを忘れた』女は、もっとも女性らしき本能を放棄したものである。…女はえらそうに厚かましく振舞ってこの男の信仰を破壊してしまう。」(ニーチェ著・竹山道雄訳「善悪の彼岸」より)


 ニーチェは羞恥を女の本性と捉え、自分の観点をそこなうことを前提にして、にも関わらず、そのことを忘れて、男をおそれない(今の日本で言えば「尊重しない」)女というものを手厳しく批判している。

「Tバックで一〇年もつヤツはいないよ、…せいぜい三年くらいのもんで、あとはどうすんだって。…嫁に行っても、だんなだって…だんだん飽きる。離婚に決まってんだ。」(ビートたけし著「女は死ななきゃ治らない」より)

 女のコミュニケーション自体から排除されてきた私にとっては、この手の「羞恥」の議論は正直専門外だが、70年代生まれの女がだんだん排他的になって、80年代生まれになって、宮台が指摘するようにガサツになって、それが少子化にもろに直結している。

 ニーチェとたけしが共通して言っているのは「恥じらい」に加えて、人として「自分の身の程を知れ」ということであり、自分に魅力があるのだとタカをくくって浮かれた意識に対する苦言と見て取れる。


 少なくとも、私の人生においては、目に見えない「女性特権」というものは計り知れない。私は未だアパルト・ヘイト下の黒人の気持ちでこの本を書いている。しかし、こういった思い上がりというのは必ず社会によって没落させられるとヘーゲルは言っている。


 私が言いたいのは、ニーチェが言うように女性が男を畏れる必要も当然ないし、たけしが言うような羞恥心も、あるに越した方がいいけど、なくてもかまわない。


 ただ、今日の深刻な人口オーナス、超少子化の直接要因となっている70年代から80年代生まれの女とは、男や、引いては社会、自分の子供に対してまでレスペクトはおろか著しく配慮を欠いていた。


 たけしが言う「羞恥心」とは、「現代倫理学入門」を著した加藤尚武(日本哲学会)に言わせれば、「最高線の倫理」である。確かに羞恥心を持っている世代の女性の方が明るく親切であるし、その世代の出生率も高い。


 そのような因果関係の統計を取るのは難しいが、年代別の出生率からそれを推し量ることはできるし、育児に最低限の道徳が必要である以上、少なくとも道徳的価値観がある方が、デュルケイムの言う公的な「進歩の概念」も受け入れ易く、堕胎をせずに出生率も高くなると言えそうである。


 羞恥心の話に戻るが、謙虚な女と接することができ、そのような観念を議論できたニーチェとたけしが私はうらやましい。羞恥心とは、いわば「女のあり方」という「最高倫理」の次元の高い話だ。

 しかし、今の時代の女とは、情欲のまま、「背が高い」という見た目や財力だけで特定の男を選び取り、それ以外の男を完全にコミュニケーションから排除して、そしてたとえ子を産んだとしても、自己批判できない彼女たちはやがてモンスターペアレント化し、あるいは幼児虐待をし、さらには出会い系で夫をも裏切って不倫・売春をして、完全に悪魔化していく―。


 私のテーマはそれら悪魔化した女たちにどうやって最低限のモラル(最低線の倫理)を訓育するかということだ。それはすなわち、日本の社会衰退の克服でもある。


 私の近所のイーオンか、あるいは毎年関東圏の多くの若いカップルや家族連れがびっしり殺到するサマーランドで働いていたとき、背が高くて頭が賢そうではない、アウトドアかEXILEのような格好をした男たちだけが決まって見た目がかわいい女を連れてくる。


 あるいは高校時代には女子と話すらできなかった私が、無限にやってくる、ただ同じクラスというだけで打ち解け合った高校生の男女を観覧車に乗せる時、とてつもない空しさ、淋しさに襲われる。私は世代的に、この国にいる限り奴隷である。


 私の心の中には加藤智大やブレイビクをはるかに凌ぐルサンチンマンや疎外感、劣等感がある。この国は完全な地獄であり、私は一日も早くここから抜け出さねばならず、カナダやブータン、イスラム圏に生まれた人たちがとてもうらやましいのである。思うに震災や中国の脅威は、その兆候であろう。


2012年06月26日 美元(みをん)の記事を読んだ。

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(「AERA '12.6.18」より)

美元(みをん)の記事を読んだ。


 私は美元(みをん)のような自己中心的で、他者配慮の一切ない女をイヤというほどたくさん見知っているから、無名の本ブログといえども、この手の女の悪魔性が恐くて、というか生理的にイヤで何も書かなかったが、「AERA」というメジャーな雑誌で、これだけビシビシと「人として」正しい指摘を美元に浴びせた松本佳子という人に敬意を表したい。


 後日、YouTubeで話題になっている美元(みをん)の盛大な誕生パーティーの動画を見て大変不愉快になり、深い憤りを覚えた。アップロードした人ではなく、美元(みをん)とパーティーの全出席者に対する気持ちとして、「低評価」の1票を投じさせて頂いた。

 私もこのような女にヒドい目に遭わされたことは五万とある。


 70年代から80年代生まれにはこのような女はゴロゴロいる。


 しかし、なぜこの国の女とは生まれた年代別でこうも違うのだろう。

 AKB世代と言われる90年代生まれの子で私を不快にさせた子は一人もいなかった。

 私の知る職場の5人すべてが向こうから友好的に私に話しかけ、「よろしくお願いします」とメールをくれた子までいた。高澤の澤という字が書けなかったが、非常に好意的に、女らしく恥ずかしそうに笑っていたかわいい子もいた。

 それが70年代から80年代生まれになると、急によそよそしくなったり、こちらを配慮せずケンカ腰になってくる女もいる。

 勉強のため、メジャーとされる大手出会い系に入ってそのような女性の行動をうかがっているが、まるで気違いのような頭のおかしい獰猛な女ばかりで、男性に対する配慮がある女は一人として存在しない。


 もっともネットの中では頭のおかしい90年代生まれのバカ女も多い。「男はみんな死ね」と書き散らしているような手合いだ。

 そういった大手出会い系サイトに跋扈する、頭のおかしい女どもの厚顔無恥で無知蒙昧な言葉と態度を見ていれば、この国が一刻も早く滅びないものかとさえ思えてくる。


 確かに若い頃は自分にも多少の非はあったけど、最近は全く私に非がなくても、突然噛み付いてくる自己中心的な「バカ女」に遭遇することが多い。


 仕事もツィッターも辞めざるを得なかったほど。


 出会い系だけではなく、アメブロやツイッターにも、頭のおかしい女は五万といる。しっかりとした仕事に就いていて自分が頭が良いのだと思いこんでいて、他者配慮が一切ない獰猛なバカ女が五万といる。

 かつてレディーファーストのテーマでツイートしていたNHKの美人記者(確か田原総一朗のツイッター経由で見つけた)に対して、私が「私もレディーファーストをしています。」と1ツイートだけでツイッター上で激しく罵られたことがあった。私は生まれてこのかた性格のいい美人を見たことがなかったので、むしろかわいいと言われたことのない女性にずっと親切にしてきたということを言いたかったのだが、このバカ女記者は自意識過剰にも私に下心があるとその一語だけで思ったのだろう。私はこの憤りをどうしていいかわからず、速攻でツイッターをやめた。彼女に対してはいきなりのツイートではない。一度普通にツイートして、普通に返ってきたので二度目だった。


 最近では鬼束ちひろという女のツイートが話題になっている。


 他者配慮とモラルのない若い女性はネットを利用するべきではない。

 自分たちの仲間内で堕落したり、迷惑をかけたりするのは自由だ。


 だが、「人様(ひとさま)」とはあなたの下僕ではない。


 そういった思い上がりの悪魔を私は断じて許すことができない。


 そしてこんな事が一度あると私がどんな気持ちになるかわかるだろう。


 私はそれ以来、ブログであろうとなんであろうと女性の記事に対しては一切コメントしていない。


 これはもう「彼女ができる・できない」以前の問題であり、どうやって、この手のタチの悪い女と遭遇しないように生きるかという問題であって、少子化以前の問題だ。

 

 先日、「ビートたけしとニーチェの女性脅威論」で、二人の女性の羞恥に対する考え方を述べたが、私は女に対して羞恥のような「女らしさ」を求めているのではなく、「人として」の最低限の配慮とモラルとを求めている。

 よって、私と田嶋陽子のようなフェミニストとは論点が噛み合わない。

 あの人は「人として」立派だからだ。

 少なくとも、一語の言葉尻をつかんで一方的に関係を切ったり、ワケもわからず公的な場所で、何の非もない私を、かなり年上の人と知っていながら、いきなり誹謗中傷したりすることはないからだ。

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 なぜ日本で超がつくほどの少子化が起きているのか?

 快楽を絶賛する自由と引きかえに我々日本人が失ったものとは何か?

 団塊ジュニアの私は身を以って知っている。

 美元や、私が言っているような無配慮・自己中心的な女など少ないだろう、と思われる人もいるかもしれない。

 しかし、超少子化になっている「結果」、そしてモンスターペアレント以前に、美元のような社会問題化しないレベルでの非道徳的で邪悪な「悪魔の芽」が、70~80年代生まれの特に外見だけでもてはやされてきた女どもに行き渡っている。

 くしくも今日のニュースで、幼児虐待死させたとされる声優の東京地裁初公判があったが、その女の目は大変凍(い)てついたものだった(もっともこの人は1968年生まれだけど)。

 この国で一体何が起きているのか?

『女性脅威論』において日本の少子化の克服 = 70~80年代生まれの女の道徳的価値観の回復のため、いろいろ分析・論評していきたい。

 私はこの国のバカ女に対する怒りを包み隠さない。

 むしろ、この国の社会衰退の克服のために命を賭けて戦い抜く。

 排他的な情欲の下に敗れ去った道徳的価値観を取り戻し、この国を、理性と、人の尊厳と、誇りある本来のあるべき姿に戻すために。

 人として私に配慮した女は一人もなく、

 人として私を尊重しない男もまた一人もいない。


※こちらは2012年2012年06月18日から26日にアメブロで投稿された、現在非公開の記事となります。
 あくまで一哲学者の記録として保存することを目的とした記事であり、2020年現在の社会情勢にそぐわない部分があることはもちろん、私自身、道半ばの時期で、今の私自身とは異なる点も多々あり、ニーチェに影響された大変厳しい文章となっていますことを予めご了承下さい。




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