2012年07月23日「死」は無い /07月27日 うつ病について


 2012年07月23日 「死」は無い

 これは哲学者としていずれ「無世界論」で書こうとしていることだが、あまりにも一般的な、日本社会に限定したことを書いているため、私が哲学者であることを皆さんにご理解いただくため、少し哲学的なことを書いてみたい。

 そして、皆さんが関心を持つことについて。

 人は「死」をいかように考えているのか?
 
 デュルケイムによると、文明化するにつれ、自殺が増えた。
 
 少なくとも、中世、近代においては考えられないほどの自殺者が出ている。

 日々のルーチン(朝起きて、職場・学校に行かなければならないこと)、うつ、経済的な理由、人間関係(誰も自分を自分に見合った評価をしてくれないなど)、理由は様々だ。
 
 人間社会がいちじるしく文明化し、複雑化するにつれ、自殺も増える。

 それは言葉の概念が支配的となり、人間がまず生身の生き物であるよりも、観念的な法的な何かであり、形式的にまるで部活やサークルを辞めるように登録抹消さえしてしまえばラクになれるという社会的な錯覚を、この日本社会という完全にまやかしの世界が承認しているためである。

 たとえば、愚者宮台の言うように、コミュニケーション戦争を生き残って、やれケータイだ、メールだ、で若い女との交際を広げていくことだけが、女性に依存しなければ生きていけない男の唯一生き残る道で、そのための言葉だ、コミュニケーションだというのは誠に本末転倒な話である。

 そういった社会とは、生まれ持った見た目が流行にそぐわないことや、オシャレに頓着しないことや、成績の数字だけで、暗黙に敗者を確定させ、本人が自覚して死に至るといったプロセスを繰り返している愚人どもの愚か極まる社会である。

 私たちはそうした宮台の推奨するような、コミュニケーション能力の高い、見た目が良く、オシャレで、コネなど何かしら社会的な力のある者たちを毎日のようにテレビなどのメディアを通して見・知ることで、自分の立ち位置を知り、また生きる自信を喪失させているのである。

 一方、江戸時代なら、直接見・知った女だけがすべてなのであって、そのような手の届かない夢のような世界を頭に刻まれる心配もなく、よって、自分が敗者であるのだという確信などあるはずもなく、ゆえに自殺もありえないのだ。もちろん、形式化された日々のルーチンなど、それ以外の理由によっても。まして、江戸時代には性(愛・依存)の対象は無限に広がっていた。

   
 要するに我々は直接的な、ダイナミズムの生を送っているとはほど遠く、メールで言葉だけが行き交い、コンピューターで預金高などすべてが概念で支配される世界では、手書きや手渡しだけの時代よりもますます生身の生活からはほど遠く、まして、社会的な暴力がほとんど存在しない日本では、死体を見ることもなく、自殺・死に対する安易さを、日本社会というまやかしによってマヒされることで覚えてしまうのだ。

 じつは魂や生命と、言葉などの観念とは(場合によってもちろん科学とも)、全く関係のないものであるが、言葉のみが世界で支配的になるにあたり、この拙い方法論だけが、それを便利だと唱える一部の意志によって、それよりもはるか上位に位置するであろう我々一人一人にある魂や命を自らの手でなきものにしようと企む…。

 これ以上は世界にも類を見ない渾身の著、「無世界論(出版社未定)」にて語りたいと思うが…。

 もっとも理性を強調する社会的な道徳書「女性脅威論」(こちらも未だ出版社未定…)と、完全に命や魂に切り込む哲学書「無世界論」は互いに矛盾しているが…。


 哲学の話に戻ると、

 哲学的に、「存在」とは、「在る」ということは説明することができない。

 …と同様に全(まった)きの「無」も説明できない。
 
 要するに「死ねば無になれる」という考えは誤りである。

 そもそも無を証明することはできない。

 あなたが無になることはできるとも言えないし、できないとも言えないのである。


 肉体としての機能である感覚や記憶は破壊されてしまう。

 しかし、人間とはロボットではないので、死によって機能全体を統制する命というものが失われた後で、それがどこに行くのかは説明されてはいないし、ヘーゲル的に言うなら、説明されてはいけない。

 魂としてさまようのか、眼差しとしてさまようのか、そんなことは理論を超越した世界である。

 心理学も、引いては科学も、外部観察をしているに過ぎない。

「ナントカの法則は、ナントカの法則だ」という同語反復だけで根本的な説明にはなっていない。

 また、死んだ蟻のすべての細胞を科学者に与えても、それらを組み立てて生きた蟻を作ることなど決してできない。
 
 日本の社会だ、テレビだ、学校だ、会社だのそういった他の人といっしょの毎日で、よってみんながそう言うから科学が万能であり、うつも科学で治ると信じ込み、取り立てて言葉を愛し、法といった概念を猛追するだけの、おおよそ生身の人間であることとは乖離した井戸の中だけで、遊んでいるにすぎぬ。

 ただ、その井戸の中の言葉遊び、科学遊びと、我々の生命自体とは全くの無縁であり、その井戸の中だけの範疇だけで命や魂といったものが計られることは決して不可能である。

 我々がうつを引き起こしているような何かとは、人を超えて流動的なのであり、科学的なものとは関係なく、生成も消滅も繰り返さない。ただあなた胸の奥に入り込んでは、何かをさせる動因とはなっているが、それが何なのか?

 また、美輪明宏が精神の栄養のバランスを強調するように、うつとはその不摂生と言えなくもない。たとえば、ナベツネがニーチェズム(力の意志)に偏りすぎて他者配慮がないだとか、他の気の弱い人があまりにニーチェズムではないだとか…。そうなってくると、人は意識でうつを追放できるのかもしれない。だがそもそもこの心とは何なのか? 言葉を操る意識と、心は関係し合ってはいるがまるで別物である。

 ただ、ヘーゲルの名言だが、現実的なものが理性的なものであるから、死とは、「理性的ではない」世界に身を置くことになることは疑いようがない。「理性的ではない」ものにすべてを投じることができるというのは、まさに狂気的であり、死とはいわば狂気である。

 そして、理性的ではない以上、説明することもできない。
 
 ただ、自殺する人が考えるような、まっさらな「無」(「眠り」でもいい)というものは、あるかもしれないが、あくまで理性的な人間が考える思い込みであって、おそらくは存在しない。

 私が察するに、それは途方もない混沌であろう…。
  

2012年07月27日 うつ病について

 うつ病は治らない <私は治る>

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「安易な薬物療法は厳に慎まなければならない」(2012年7月27日 朝日新聞朝刊より)


 それが医師向けの初の指針だった。


 わけもなく突然胸が、深い闇か「もや」に包まれたようにどんよりとした雰囲気になり、気分も重く悲しくなってくる。


 私も私の弟も同じうつ病体質だった。しかし、私はものの2秒で克服したのに対し、弟はというと、2年以上もうつに苦しんでいる。


 私の弟は銀行員だったが、うつ病がヒドくなり、1年半ほど会社を休み、後に復職したが、1ヵ月と持たず、会社を解雇されてしまった。


 私の弟は大変な読書家で、小説ばかりを読み、私から見れば他の日本人と同じマニュアル人間で、科学を絶対と信じて疑わず、心霊はおろか、哲学すら嫌いだった。


 一度、弟にうつの治し方を教えてやろうと、弟の部屋に押しかけたことがあったが、「科学は絶対だ」とばかりに、うつ病対策の本をバシッと私の方に投げつけて、追い返されてしまった。


 弟は科学やら心理学のうつ病対策の本を買い込み、病院から大量に抗うつ剤をもらって、服用しているが、未だ浮き沈みの激しい性格は変わらないままだ。


 しかし、科学は大変役立つ有用なものと言っても、所詮は外部観察的なものでしかなく、万能や絶対とは程遠い。


 そして、そんな当たり前の理屈すら、きょうびの科学を盲信する狭小な日本人に説得するのは容易ではない。


 思えば私は弟よりもはるかに重症のうつだったが、うつ病は心理「学」的なものではなく、心霊的なものだから、物の見方さえ変えれば簡単に治る。 


 ただ、日本人に、社会的に、それを伝えて回るのは困難だ。


 哲学も所詮は言葉と理論の学問であるから、正直哲学の力でもどうにもならない。

 ヘーゲルなど、「地霊」という言葉を用いる霊的な哲学というのもあるにはあるが。


 私の解決策は至極簡単。

『オーラの泉』で美輪明宏さんが好きだったこと。

 そして彼が、悪い霊にとりつかれたら、「南無妙法蓮華経」が一番効くと。

 ただ、それだけ。

 私は直感的に(少なくとも私のケースに関して言えば)、「うつ=悪い霊(霊と言ってもお化けではない。

 科学的に捉えられない悪いイメージと考えてもらえれば幸い)」と感じていたので、美輪さんの言葉を信じて仏教徒でもないのに、「南無妙法蓮華経」を唱えたらスーッとラクになった。ただそれだけ。


 私の弟は保守的で、創価学会がキライなので、「南無妙法蓮華経」など絶対に唱えない(もちろんそれ以外の聖なる言葉なら多分なんでもいいのだが)。


 よって、うちの弟(すなわちほとんどの日本人)のうつは治らないと、思っている。


 よって、うつ病ってのは心の病というよりも、頭の病。


 UFOとか心霊とか絶対有り得ないと言い切ってしまう人だから…。

 単純と言えば、単純。

 宗教ギライなクセに、「科学」という人間の形式的な社会の中だけに行き渡る「宗教」の狂信者。

 少なくともうちの弟に関して言えば。


 私自身、当然創価学会でもなんでもない。普通くらいの上戸彩がなんであそこまでちやほやされているのか分からず、彼女が出てるCMや映画は一切見ないほどだから。


 ただ美輪明宏という人は、確実にレスペクトできる。


 彼のサイトでは「体に栄養のバランスが必要なように、精神にも栄養のバランスが必要」と言っている。


 まさにその通り!


 だが、科学で解明されなければ、日本人は誰も適用しない。


 大槻教授の思うツボというか、科学は単なる「道具」であって、存在や命や世界の背後を捉えることは永遠にないのにね。


 「うつ」に限らず、日本の社会衰退、社会問題のすべてのテーマは私のような者から見れば、実に容易い容易な問題だ。

 

 それを国一試験対策ロボットのようなマニュアル官僚の手に委ねてしまったのだからたまらない。


 あるいは国体的だと言って道徳を否定する、快楽・放蕩・傍若無人のみの自由と行き過ぎた人権を国に対して声高に叫ぶ被害者妄想の塊の、エセ平等を希求する唯物・拝金主義の徒のメディアに。


 どうせ頭悪いんだから、そんなに考えなくてもいいよ。

 私がうつ病を治したいきさつを、言葉でしっかり論じないと哲学者ではないだろう。


 しかし、私は「うつ病にあまり興味がなかったので」、テキトーに美輪さんの「南無妙法蓮華経」にサクッと飛びついただけ。


 元よりそれを糧(かて)に努力してきた人生だったし、それを病気だ何だと大騒ぎできる概念はなかった。どうでもいい、と。


 私の場合、目的意識や問題意識など、頭の概念がしっかりしているから、心など容易にコントロールできる、と。


 あえて言葉にして言うなら、「命のように捉えどころのないものは、決して言葉にできない」というヘーゲルの哲学であろう。


 でも、うつ病なんて、宮台の言う「おかしな人」が増えたという成熟社会の「おかしな人たち」だろうし、マズローの欲求階層理論の上位に位置するような、コンゴや南スーダンでは考えられない、レベルの高い(?)病気なんだろうと思う。


 簡単に言えば、口酸っぱく言っているようにアノミー(道徳的価値観の崩壊)のせい。

 要するに社会現象。


 だから、要は私の弟のように、科学盲信のこんな脆弱な社会の奴隷になって呑み込まれるか、逆に社会を呑み込んでやろうという気概があるかってこと。


 私はうつ病にかかずらっているヒマがないくらい人生が忙しい。


 恐らく日本人とは、人間の精神がいつかブルーレイディスクに入ると思うくらい愚鈍で無思想なマニュアル人間なんでしょう。


 人間を数値化するロボット人間たちと遊んでいるヒマはない。


「そうは言わなくとも、みんなが正しいって言ってるんだから」と私の弟は言うに違いない。


 ならば、この国の自殺・少子化・幼児虐待を始めとする社会衰退や財政赤字、原発事故はなぜ起きている? この国全体あるいは社会ををなぜ一度も疑わない?


 なぜ「うつ病」が科学で治るという「絶対」があると思うのだ?


 心は細胞のように物質化できるか?

 爪や毛や歯や骨は、物質であるが、「オマエ自身である」と断言できるか?


 そもそもなぜ心と物質を一緒くたにしてしまうのだ?


 かつて、三島由紀夫はバタイユを盲信して、死を軽視してしまった。

 そう、命とは、バタイユがいうほどに分断されていないのだ。


 すなわち、生きていても、人間の魂というのは、外部と連続している部分もある。


むしろその「自己還帰」という外部との関係こそが命だとヘーゲルは言う!


 うつ病を治すには、まずバタイユの誤謬に目をこらす必要がある。


※こちらは2012年2012年7月23日から27日にアメブロで投稿された、現在非公開の記事となります。
 あくまで一哲学者の記録として保存することを目的とした記事であり、2020年現在の社会情勢にそぐわない部分があることはもちろん、私自身、道半ばの時期で、今の私自身とは異なる点も多々あり、ニーチェに影響された大変厳しい文章となっていますことを予めご了承下さい。


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