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『果実工場』

借金が200万円を超えた頃、妻は子どもを連れて実家に帰った。
アパートの契約を更新する費用もなく、このまま職が見つからなければじきに一文無しのホームレスだ。

職業相談窓口では、頭の薄い男性職員が僕の情報を事務的に入力している。
「他に何か経験はないんですか?資格も?」言葉遣いは丁寧だが失礼な質問を繰り返す。
僕の履歴書からはまともな求人が出てこないらしい。机から身を乗り出してモニターを覗き込んだが、確かに待遇の悪そうな職業がずらりと並んでいるだけだった。
長年、工場のラインで組み立て作業に従事していた。長時間の単純作業には慣れている。
しかし不景気の時代に、誰でもできる仕事のために正社員を雇う会社などなかった。アルバイトや派遣のような、いつ切られるか分からない職業ではとても借金返済の目処は立たない。

今日も大した成果はなかった。
肩を落として出口へ向かう。
受付カウンターを通り過ぎ、自動ドアへ向かう通路に設置された掲示板には求人の貼り紙が所狭しと並んでいる。
その一枚に、僕は釘付けになった。

「寮完備、借金肩代わり」

住居の問題だけでなく、借金まで!?

思わず食い入るようにチラシを凝視した。
もちろん胡散臭さも感じたが、先の見えない重圧から解放されるとしたらこれは話を聞く価値がありそうだと思った。
試しに近くの職員に聞いてみる。
「あぁ、それ。」
受付係の女性職員は眉をひそめてカウンターから出てくる。
「明らかに怪しいでしょう。ウチでは許可した求人しか掲示板に出さないんですけど、いつの間にか勝手に紛れ込ませて貼っていくんですよ。」
そう言うと、チラシを弱い粘着テープごとピッと引き剥がした。
「お知らせありがとうございます」と僕に言って、彼女はチラシを受付の足元にあるゴミ箱へ放り入れた。コトン、と音がした。

それから、掲示板をチェックすることが毎朝の日課になっていた。
僕はどうしてもあの日に見つけたチラシが気になって仕方なかった。
ある日、いつものように掲示板に目を向けると、見覚えのあるフォントを発見した。
「寮完備、借金肩代わり」
受付の職員がこちらを向いていない間に、急いで連絡先のメモを取り、そのまま職業相談所を後にした。


連絡先に電話をすると、あっさり面談へと進んだ。
仕事内容は工場ラインの単純作業。僕の経歴そのものだ。トントン拍子に話が決まった。

アパートを引き払い、トランク一つに収まる荷物だけ持って、僕は新しい就職先へと導かれた。
一周するとどれくらいの距離になるのか想像のつかない巨大な塀の中に、住居用の建物があり、その奥に工場があるそうだ。
全体をほのかに甘い香りが漂っていた。

住居は3階建ての建物で、1階にある浴室と洗濯機は共有だった。
男性は2階、女性は3階と聞いて、女性もいるのかと少しときめいた。

何より借金が消えることは大きな精神的解放となった。
とにかく今は黙々と働き、お金を貯めたらここを出て妻と子どもに会いに行こう。


仕事は、果物の梱包と出荷だった。
市場には出回らない特別な顧客にだけ向けた商品を扱ってるそうだ。確かにそれは見覚えのない、僕が知っている何にも似ていない果実だった。
ぷるんとした弾力のある半透明の表皮の中に、ぎっしり詰まった赤オレンジ色の果実が透けて見えていた。

工場ラインに入り、流れてくる果物を手際よく梱包する。
箱詰めが終わったら指定の場所に積んでいく。一定の量になったら箱にシールを貼り、出荷エリアに搬出する。
どの工程もあっという間に慣れた。僕の得意分野だ。


食事は決まった時間に食堂でとる。

与えられる食事も外の世界とは違っていた。ぷるんとしたゼリーのような赤い果肉。薄茶色の少し歯ごたえのあるフレーク。
扱っている果実に少し似ていた。もしかしたら規格外の商品の一部なのかもしれない。
提供される量で満腹になることはないが、体調は良く、栄養面と配分が管理されているのだと感じた。

従業員は数十人。やや男性が多いようだ。
お互いあまり賑やかに親しい会話は交わされない。
僕もそれでいい。
ここに来る人間は、少なくとも借金と住居の問題を抱えているのだ。
プライベートを詮索されたくない者同士、馴れ合って居心地良くなる場所でもない。

食器を戻す場所で、女性の手とぶつかった。
「あっ、すみません」
つるんとした弾力のある肌が美しいと思った。


工場のラインは淡々と流れているように見えた。
だがしばらく従事しているうちに、作業の正確さ、速さで少しずつ差を見つけるようになった。
「彼はシール貼りが歪みますが、決まった場所に商品を詰める作業はとても早いです」
「あの人は集中力が続く時間が短いから、午前と午後で持ち場を変えるといいですよ」
最初は恐る恐るだったが、意見をしても怒られないと分かると、積極的に改善案を伝えた。
おそらく僕より年下の上司は「おぉ、そうか」と聞き入れて、提案通りに配置が変わると生産性が上がった。

「ありがとう」

作業が上手くいかず悩んでいた女性が、僕のおかげで働きやすくなったとお礼を言ってきた。食堂で手が触れた子だった。
つるんとした肌を褒めたら、驚くことに同い年だった。
肌ツヤが良くて若く見えた上司も、実は僕より年上だと聞いてさらに驚いた。
肌って見た目の年齢に大きく関わるんだなと思った。


しばらくして、僕の手がつるんとしてきた。
骨ばった関節に深く刻まれたシワが目立たなくなった。
ここの環境は、体にとても良い。気持ちまで若返り前向きになる。


そしてある時から上司は姿が見えなくなり、僕がこのラインの責任者になった。
さらに上の役職に就いたのだろうか。それとも目標の貯金ができて外に出たのだろうか。
僕が権限を得て直接指揮するようになるとラインはさらに効率を上げて回った。
職場での評価と感謝の言葉はやりがいを生んだ。
「ありがとう」
ぷるんとした肌の彼女が喜んでくれた。

時々記憶に浮かぶ妻のスラッとした姿は、枯れ木のように思えてきた。


ある日、我が社の顧客だという人物が視察に来た。
くれぐれも失礼のないようにとの通達に、万全の体制で、いつものように抜かりなく工場を運営した。
やって来たのは男性と女性。

僕たちのようにつるりとはしていない。どちらかというと記憶の中の妻のような、外の世界に属している外観をしていた。食事の違いだろう。ただし肌はなめらかに美しかった。
彼らは僕たちの働く様子を満足げに眺めて、去っていった。


時々新人が入り、ベテランが抜けていく。
それぞれ適した工程に加わり、熟練が去ってもすぐに配置を変えて穴埋めできる。
僕が管理する工場ラインはとてもうまく回っていた。
もはや僕が不在になっても運用に問題がないほどに。
ぷるんとした彼女の姿が見えないことに気付いたのは、彼女の代わりを補充した後だった。
目標の貯金ができて外に出たのだろうか。

僕は自分に貯金がどのくらいあるのか知らなかった。
実を言うと、借金がどうなったのかも知らなかった。
衣食住に困らない状況で、いつしか資産も目標も関係がなくなっていた。
考えなくなっていたことについて考えなかった。

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工場ラインの奥の部屋に初めて入ったのは、それから間もなくのことだった。
僕たちが梱包してシールを貼って出荷している果物が、どこから運ばれて来るのかをそれまで知らなかった。
それは工場の奥にあった。

巨大な樹木に見えるそれは、枝なのか根なのか分からない腕を伸ばして、大きな穴の中に積まれた材料から果実になる塊を取り出していた。枝の先でそれは半透明の表皮に包まれた果肉へと変わり、工場へ向かうベルトコンベアの上に乗せられていく。
まるで樹木の枝に成った果物が、そのまま収穫されているようにも見える。
僕のぷるんとした肌とその奥に透けて見える肉も、その果実に似ていた。

材料の山の中に、あの彼女の顔があった。
体の大半は失われていたけれど、認識できるくらいに残っていて良かった。

商品になる部分を取り除かれた残骸は、僕たちに提供されている赤い果実と茶色いフレークを想像させた。
これらを食して、僕たちの細胞がすべて入れ替わる頃ここに連れて来られる。
そして新しい材料になるんだ。

なるほど。

納得をして、導かれるまま僕は材料の積まれる穴に身を預けた。
せめてちょっとだけ彼女のそばに近付ける位置を選んだ。

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職業相談所の受付カウンターから周囲の様子を伺い、女性職員は掲示板の隙間にチラシを貼り付けた。

「寮完備、借金肩代わり」

受付に戻ってしばらくすると、肩を落とした若い男が目の前を通り過ぎた。
そして掲示板の前で立ち止まり、そのチラシに目を止めた。
食い入るようにチラシを見る男を横目で確認して、受付嬢はなめらかで美しい肌をそっと指で撫でた。

終(3530文字)

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