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信州と北陸の二拠点生活は実現可能か

大学進学に伴って、私は18歳で憧れの信州に来ました。
受験のとき思いのほかセンター試験(当時)の出来が良く、第一志望だった信州が安全圏になったことから、上のランクを狙えるのではないかとなって、私にとってはもう一つの憧れの地だった金沢を併願することになりました。
それなりに難易度の高い大学に対してそんな直前の対策が間に合うわけもなく、結果的に金沢は叶わず信州に落ち着き、そのまま信州で働き暮らして今に至ります。
あのときもしまかり間違って金沢の大学に合格していたら、私は今ごろ北陸での生活を送っていたかもしれません。

このように、信州と並んで「自分が暮らしていたかもしれない」と想像していた場所が北陸でした。いつか実現できたらと今も心のどこかに願いが残る地でもあります。

兼六園

北陸にはもう一つ、深い縁があります。
私の実家は西日本だけど、父の出身地が北陸金沢なのです。幼少期からお盆や正月の帰省のほか、親の事情で子どもだけ祖父母宅に一定期間預けられることもありました。近所の畑や河原で遊んだし、いたずらや悪さもしたし、田んぼのあぜ道を抜けて神社の夏祭りに出かけたことなど、楽しかった思い出がいくつも記憶に残っています。

撮影した父も気に入っている幼少期の一枚

祖父が他界したのは私が20代前半でそれほど機動力のない頃でした。
自分の性格や行動や関心の遺伝的ルーツは父方の家系に強く感じているので、祖父ともっと話す機会があればという無念は今も消えません。
樺太出身の祖父は自身がかなり数奇な経緯を辿ってきていたこともあってか、日記や写真などの記録を残したり家系を遡って家系図作成に取り組んでいました。東北、北海道を中心に各地から取り寄せた手書きの戸籍を分厚いファイルにまとめ、遠い親族とやり取りした手紙も残してありました。新しもの好きで、当時まだ少なかったブラウン管画面のワープロを手に入れて専用ソフトを使用して詳細な家系図を作り上げていました。
子どもの頃にそれらの資料を興味深く読んでいた私は、祖父の他界によってもっと詳しく知りたいという好奇心が今も宙に置かれたままになっています。

一方で、祖母はこの手の作業に全く無関心だったようです。几帳面だった祖父と大雑把な祖母は性格も合わなかったようで、聞く話によると仲も難しかったようです。
ただし、戦時中産まれの祖母は物のない時代を過ごした経験と元来の性格から、極度にモノを捨てられない性格でした。

この二人の合わせ技によって、祖父母宅のどこかを探せばいつか祖父が収集した膨大で貴重な資料にたどり着けるだろうと考えていました。

大人になって自分のペースで動くことができるようになってから、北陸へはたびたび向かいました。信州と北陸はそう遠くないのです。
北アルプスを迂回するため直線ルートではないものの、交通網は整備されて道は空いていて快適です。
西日本にある実家よりも短い時間で行き来できます。

拠点はもっぱら祖母宅。
元気だったころの祖母はじっとしていられない性格で一日中家事をしていました。合間に、仏壇や戸棚の中から写真や見たことのない本を持ち出してはじいちゃんが生きていた頃の話をしてくれて、私はどこに何がありそうかという情報を覚えるようにしていました。

秋田県、北海道。確かにあった手書きの戸籍ファイル

やがて、祖母は認知症が進みます。
近くに暮らす叔父や従姉妹が主に日常的な面倒を見ていて、たまに訪れる私は布団などを自分で用意して祖母と並んで寝ました。身体が弱ってからもモノをなんでも取っておく性格は健在で、祖父と関連のある新聞記事を切り抜いてはリビングの棚に他の書類と一緒に積み上げたりしていました。

徐々に体力が落ちて生活が難しくなってきた祖母の元に、遠方で暮らす父を含めた兄妹たち(私にとっては叔父や叔母たち)で一度集まって1週間ほど滞在しようという計画が立ちました。私もそこに同行して、集まった皆から話を聞いたり資料の確認をするつもりでした。
予定していた2020年3月、感染症による行動制限が本格的に始まりました。
計画は流れ、実現は叶いませんでした。

県境を超える移動が緩和されてからの祖母は認知症が進行し、会うたびに私が誰なのか名前と関係性を説明するようになります。親族であることは分かるようで拒絶されないのが救いでしたが、過去のことも含めて記憶があいまいになり会話に苦労しました。
近くに住む叔父と少し離れたところで家庭を持っている従姉妹が通って身の回りのことをしていましたが、モノを捨てられない性格が強く残る祖母によって家の中は以前にも増して混沌さを増していました。
祖父の知り合いの手掛かりになるかもと思っていた新聞の切り抜きも、その他の雑多な書類やチラシに紛れて発見できませんでした。

見つけた!と思ったら料理の切り抜き

祖母が他界したのは2021年12月末です。
ちょうど強い寒波に襲われて各地で大荒れの天気となり、道路や鉄道などの交通網が影響を受けて、長男である父をはじめ西日本にいる親族は動けませんでした。

信州で暮らしている私は冬の生活と移動に慣れていて雪装備もあったので車で駆けつけ、現地で親族の移動を含めた手助けができました。また新幹線も悪天候に強くて、関東に暮らす叔母たちも無事にたどり着きます。

雪の中の葬儀

集まった親族の中に、祖父の甥にあたる人がいました。
名前に聞き覚えがあるものの、直接話した記憶はほぼない人です。少しでも手掛かりになればと、家族の関係性や祖父母の思い出話を聞き出してメモを取ります。その中で「おじさん(私の祖父)が家系図作りを引き継いでくれってさ」と出てきたのは、なんと祖父が作っていた家系図を何枚にも渡ってプリントしたものでした。
当時使っていたワープロはとっくに起動できず、データの入ったフロッピーディスクは叔父が持っているものの開くための機器がありません。
絶望的と思っていた家系図は、コピーを受け取って持ち帰ることができました。

家系図の写しの一部

その後も祖父の手掛かりを求めて片付けがてら訪れたのですが、あまりに膨大な不用品の山のなかで整理と選り分けが困難な状況でした。そして、いつか時間をかけて資料を探そうと思っていた祖父母宅は、劣化しはじめた家屋の保持のため、ある日、業者によって一切の家財が撤去されました。

祖父の大きな机とワープロ、書類の山があった部屋

また、日常的に使う人がいないため、電気と水道が止まりました。もう私が北陸での拠点として使うことはできなくなりました。
家を引き継いで管理している叔父とその家族の判断なので、私から何か言うことはできません。
今はわずかにリビングのテレビ棚と、仏壇のある部屋のみ、祖父母の写真と共に少しの家財が残っています。

いつも出迎えてくれた玄関脇のカエルもいなくなってしまった

なんとか記憶を頼りに祖父に関わる新聞記事を探し出せないか、石川県立図書館で調べたこともありましたが、記載されていた内容と人物名をまるで覚えていなかったこともあり、祖父自身の名前で検索しても該当する記事は発見できませんでした。

この一連の流れの中で、父とその兄弟、祖父母の近くで育った従姉妹たち、親族の誰もが、祖父の残した家系図や資料にほぼ関心がないことも分かりました。
何とか家系の記録を残したいと思う性質は、祖父から私へと濃く受け継がれたもののようです。離れて暮らしていたにもかかわらず、血は流れています。

繰り返し見て育った、昭和の模様入りガラス

2015年3月14日、それまで仮称だった長野新幹線が金沢まで延長開通し、正式名称の北陸新幹線となりました。2度ほど利用しましたが、乗り換えなしの短時間であまりにあっけなく目的地に到着します。
上信越自動車道の難所だった信濃町~上越間は、2019年12月に完全4車線化しました。対面通行だった頃は合流による交通集中や積雪などによってたびたび渋滞に悩まされていた区間が、今はほぼ解消されて快適に走ることができます。
信州と北陸を繋ぐ交通網は充実してきています。

日本海はいつ見ても感動する

私はいつか、祖父の辿った記録をなんとか調べ直したくて、信州の暮らしを続けながら北陸にも滞在する時間を増やせないかと考えています。どちらも冬は雪のある地域で、私にとってはそれほど苦になりません。
信州と北陸、アクセスの良くなった二拠点生活は状況が許せば叶うような気がします。ネックは「時間」と「費用」です。
現在、幸いなことに会社員として生活は安定していますが、一方で現場仕事のため拘束時間が長く、リモートワークは不可能です。
この問題を解決するにはどうすればいいのか、何を目指したらいいのか、手にした家系図や写真を眺めながら先のことを模索する日々です。

祖父が降りてきて知恵を貸してくれないか、なんて思いながら、今日も信州の空を見上げています。

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