自分史

過去の自分を救う。

大学の頃、農家さんの作業を手伝いに行ったり、学生団体の活動に一生懸命だったり、授業やゼミも真面目に取り組んだりといった、とてもアグレッシブに活動していた友人に、「どうしてそんなに行動的になれるの?何が原動力?」と尋ねたことがある。
その答えが、「過去の自分を救いたいんだよね」だった。

過去の自分を救うとは、どういうことだろう。

彼女は、学生時代の自分を救いたいのだという。友人は、大人たちが10代の頃に読みたかったと思う本を、10代の若者に届けようという活動を行なっている。その活動も、過去の自分を救うための行動の一環。
中高生の頃、読みたくても満足に読書できなかった、勉強できなかった背景があり、そんな過去の自分のような思い、後悔、マイナスな感情を、これからの子たちには抱いてほしくないのだと。
彼女にとって、過去の自分を救うというのは、過去の自分のような人間を増やさないことなのかもしれない。

過去の自分を救う、という言葉を、単純に「カッコいいな」と思った。まるでマンガに出てくるような言葉のように思えた。
そしてそれを、堂々と人に語ることのできる彼女もカッコいい。決して揶揄ではなく、本心でそう思った。

彼女の見出した「過去の自分の救い方」も一つの考え方だろうと受け止めつつ、自分だったらどうだろう、と考えたことがある。
学生時代、何の苦労も努力もせずに難関を突破できないかなどと、甘っちょろいを通り越してたいそう愚かな思考を持っていた自分がいた。今振り返っても、恥ずかしいし情けない。努力の仕方はどうあれ、努力してこその成果であるのに、努力することそのものがカッコ悪いからやりたくないと思い込んでいた自分がいた。それでいて、目覚ましい成果が欲しいなどと、浅ましい。
その頃の自分を、今のわたしは救うことができるだろうか。どうしたら、救ったと言えるのだろうか。

友人のように、何も努力せずに成果だけ得ようという思考をしてしまう若者を少しでも減らすことができたら、かつての自分は救われるのだろうか。そのために自分にできることといったら、そういった思考で後悔した話や努力をし続けることによってこそ得られた成果についての話などを、発信し続け、伝え続けることぐらいしか浮かばない。
それはそれできっと意味はあるし、根気よく取り組んでいけば、かつての自分のような若者を1人でも減らすことに成功するかもしれない。
でも、どうしても考えてしまう。本当にそれで、過去の自分を救うことができるのだろうか。

そもそも、どういう状態になったら、過去の自分を救えたと言えるようになるのだろう。
きっと、その答えは十人十色で、誰かと同じ答えになることは無いだろう。さらに言えば、過去の自分を救う必要を感じない人だっているに違いない。だから、自分のような若者を減らすという選択肢を取った友人も決して間違いではないし、わたしはわたしで、別の答えを持っているのだと思う。

わたしの、「過去の自分の救い方」。
それは、今のわたしが、過去の自分を恥じて、情けなく感じ、良くないものだと思っている事実を、取り去ること。過去の自分があってこその今で、それはかけがえのないものだったと、胸を張って言えること。
過去の自分を、意味のあるものだったのだと信じられるようになった時こそが、過去の自分を救えたと言える時なのだ。

さて、改めて問おう。
わたしは、過去の自分を救うことができるだろうか。

読んでいただきありがとうございます。 今後も精進いたします。