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僕が就職支援をしているワケ。

 まえに僕が就職活動の支援をしたりしていると書きましたが、なぜそんなことをしているのかを今回は書きました。例によってまとめて書いているものの一部です。

 ある先輩から「眞藤は若い学生にいろいろ教えてていいなあ。おれも指導したいから呼んでくれよ」と言われたことがあります。もちろん彼を呼ぶことはありませんでした。学生さんとの時間は真剣勝負です。相手の心を推し量りながら、彼ら彼女らが書いた言葉から相手の素晴らしいところ、深いところを探って行きます。若い学生さんにマウンティングをカマしたいような人が同じ空間にいるのは邪魔です。ただ、そのような誤解をしている人もいることがわかりましたので、改めて「なぜ僕が就職活動の学生さんを支援するのか」をまとめてみました。なお、以下の文中では一人称を「私」とし、原文は縦書きで書いていますので数字を漢数字に統一しています。


 三五年ほど前。
 いまでも思い出します。
 東京・江古田の学生街の風呂なしアパートの一室。

 ベッドに入ったもののまったく眠れません。
 薄眼を開けてつけたままの豆球の灯りに照らされた天井の木目を見上げては目をつぶります。
 目を瞑ると今日の友人のことばが思い出されます。

「おれ都銀に内定したんだよね」
 大学四年の初夏の昼休み。部室でいつも笑いながら語り合っていた仲間が嬉しさを抑える様子アリアリの真顔で、まるで告白するように話してくれました。
 私はまだ内定なし。心の中では「あいつよりも俺の方がデキがいいはず」と思っていたのに。志望先が違うとはいえ、彼はすでに第一希望の会社から内定をもらい、私は何も手にしていない。
 ああそう、よかったじゃんと笑顔で返しながら、ひたひたと何か突き放されたような感じがしてきました。

 夜、ベッドに入ってから。
 もし、私がどこにも就職できなかったら一体どうなるんだろう。
 そんな思いが頭の中をぐるぐる回ります。
 仲間と一緒に、一緒の時間を過ごしていたはずなのに、いつのまにか取り残されているという事実。唐突に心細さがやってきました。腰に力が入らない感じ。
実力だと思っていた自分の存在価値も、仲間との時間も、確固としたものと思い込んでいたものが、実は儚いものだったという現実。
 次々に不安な思いが心に押し寄せてきて、ベッドの中で目を閉じても想いがぐるぐる回ります。

 そんなある日、新聞で記事を目にしました。
 就職を苦にして自殺した学生の話です。
 そんなバカなと思いつつも、自分も不安に押しつぶされそうになっている。
 もうこんな思いは嫌だ、こんな孤独は嫌だと思いました。

 このような日々を過ごした大学四年生のときの就職活動は結局うまくいかず。私は親に乞い、大学に届けを出して五年次まで希望留年することを選びました。企業就職に臨むにあたり「新卒」というレッテルが欲しかったからです。
 当時は卒業単位を早めに取ることが可能でした。私は成績の優劣よりも卒業単位を確保することを第一と考えて、三年次末に卒業単位をクリアしていました。そのままでは卒業してしまいます。そこで留年願いを出したわけです。幸い受理され、私は就職活動を中心の五年次を過ごすことになりました。
 
 五年次となることが決まって就職活動二年目を始めるにあたり、最初に手を付けたのは就職活動を組み立て直すこと。

 四年次のときに目指したのはジャーナリスト。インテリ気取りの学生にはありがちな選択でした。早稲田大学などジャーナリズムを学ぶ課程がある大学には真面目に目指す学生が多くいたでしょう。けれど私が通っていた立教大学では少数でした。
 どうしたものかと思っていたら、幸いなことに父の高校・大学の同窓だった東海大学(当時)の政治学教授だった内田健三先生が株式会社共同通信社の浜田寛氏を紹介してくださいました。その浜田氏との出会いが、私と作文との出会い(小学生の頃に書いた覚えがあるから再会ですかね?)となりました。

 就職活動一年目の大学四年のときに浜田氏の元に通ったのですが、その前後に社団法人共同通信社の社内で過ごしたことがあります。ひっきりなしに入るピーコ(ニュースが配信されるときの信号音)、ピリピリしている社内。通信社ジャーナリズムを目指す方であれば興奮するシチュエーションです。けれど私には、なぜか居心地が悪かったことを覚えています。
 当時は通信社を第一志望にしていたので無理やり自分を納得させていたのですが、後から思えばどうも違う。その気持ちを五年次になって就職活動を組み直す時に思い出しました。

 またちょうどそのころ。通っていた立教大学の文学部に講師として来られていた博報堂のマーケティングディレクターである志津野知文先生と出会いました。土曜日午前中二コマ目の講義。それを法学部の学生として聴講しに行ったのですが、なぜか先生から可愛がっていただいて。
 講義後お昼を奢っていただいていたときに「広告会社を受けてみたらどうだ?」と提案をいただきました。彼は軽い気持ちで口にしたのかもしれません。ですが私はそこから業界のことを調べ始め、マーケティング職を視野に入れて二回目の就職活動を本格化しました。

 四年の時に共同通信社の浜田寛さんに作文を教わった時に一緒に学んだのが、のちにフジテレビに入社した鈴木温哉君。あまりに作文の作法を知らない私を見かねたのか、彼が紹介してくれたのが山崎塾です。その山崎塾に通い始めたのがアドリブとつながるきっかけとなりました。

 早稲田のアバコホールで毎週木曜日に開催されていた山崎塾。毎日新聞社の山崎宗次取締役が主宰するもので、ジャーナリストを養成する色合いの濃い就職のための私塾でした。
 山崎取締役は、社会部現役のころ大活躍した有名記者でした。彼のジャーナリストとしての活躍は一九五八年から一九六六年までNHKで放送されたテレビドラマ「事件記者」の主人公「ヤマさん」のモデルとなったことからもわかります。そのドラマは最高視聴率四七%を記録した人気ドラマとなりました。ですが残念なことに、ちょうど私たちの就職活動真っ盛りの一九八七年七月一四日に急逝されました。
 そんな山崎塾から広告会社を志望する若者が分派したのがアドリブです。山崎塾長が他界されたあと、そのアドリブが山崎塾長の志を継いで今に至ります。
 私も塾長がまだお元気な頃から山崎塾に通う傍らアドリブにも参加し、仲間とともに広告会社を目指すことにしました。

 山崎塾はジャーナリズム向けのピリピリ感がありました。アドリブはどうかというと、こちらもなかなか厳しくて。
 作文を毎週書いて行きますが、指導をしていただく社会人の先輩から毎回ボロクソです。
 提出した作文用紙は赤ペンで語句の修正を受け、センテンスの不適格なところを指摘された上でダメ出しの一行程度の感想が書かれて返ってきます。
 ズタズタになる、なけなしのプライド(苦笑)。
 それが嫌で、会場がある早稲田まで行ったものの、会場に入ることがなかなかできずに近所のモスバーガーでイジイジしていたこともありました。

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 それでもなんとかキモが座ってきて、毎週出席するようになりました。
 出席するようになると仲間ができます。

 深く自分を掘り下げないとならないような作文を書くことは自分との戦いです。その戦いが不十分なことは先輩からはお見通しなので、そこを突っ込まれます。なんとかしないといけないのは自分自身。
 集中してできるかぎりのことを考え、それでダメな時は先輩にどうしたものかを尋ねることができるようになりました。自分の突き詰めが甘い場合は、それができないものです。
 三題噺など、創作性が加わる作文の場合は仲間の優れている感性を借りてみる、つまり真似てみるなんてこともできるようになります。
 たとえば作文の文体や、書いている主体の設定を真似してみる。最初は真似を自覚しているからギクシャクします。でも書いているうちに文章の中で主体がひとりでに語り始めたり、ストーリーが展開したりし始める。それをまとめると自分のものになっている。そんな体験を繰り返しました。

 アドリブに通ううちに、就職活動というフィールドでありながら仲間ができたことに気づきました。志望先企業は異なっても同じ苦労をしている仲間です。
 孤独感に苛まれることが少なくなりました。
 共同通信社の浜田寛さんから高評価をいただいたもののマグレ当たりだった作文。それでもアドリブで批評されたり好評をもらいながら書きすすめるうちに、いつのまにかスキルアップしていることが実感できました。

 なにより、作文を書きすすめると自分を表現するための自分の言葉が体内に蓄積されていきます。自己PRも、志望動機も明確になります。解像度が上がってきます。

 今ならわかります。
 自分に自信があると、就職試験は「評価してもらう」から「企業と対峙する」に変わるということ。その自信とその裏付けをどうつくるか。これが大きなポイントなのです。

 就職活動はこれまで乗り越えてきた受験という通過儀礼とは全く違う、孤独な「自分との戦い」である。
 就職活動には自分を語る言葉を持たなくてはならない。
 就職活動にこそ仲間が必要である。
 なにより自分を社会に位置付ける就職活動なのに、それで自殺するとか全く間尺にあわない。

 社会人となり自分の中でそれらが整理できたとき、機会があれば若い就職活動にいどむ皆さんにそれを伝えようと思いました。
 私のような苦しさを若い皆さんに味わって欲しくない。
 私が教わったり編み出したりしたことを次の世代に引き継ぐことでもっと素晴らしい人生を若いみなさんが手にすることができるのであれば、それに越したことはない。
 私自身、レベルの低いプライドをへし折られたりすることで人並みの人間であることに気づいたのですが、人並みの人間を深掘りすると、唯一無二の価値が見えてくるし表現できるようになる。
 深掘りしないと他人から「単なる人並みの人」「よくわからない人」としか見えない。自己を深掘りするには作文を書くこと、書いた作文をスキルある他人から添削を受けて新たな心の引き出しを開いてもらったり、新たな心象を表現する言葉のヒントをもらうことが、必要。


 九州にUターン就職したあとに始めた就職支援は、お付き合いのあった方のスポーツ新聞記者志望だという甥御さんを就職指導したところから始まりました。その彼との交わりの中で、それらことが改めて明確になってきたのです。

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 それが熊本県立大学で数年間担当した「マスコミ就職セミナー」という形になり、それを受講した学生有志と始めた「ケンチキ会」「パレア会」(それぞれ土曜午前中の空いているケンタッキーフライドチキン熊本学園大学前店でやったり、熊本県民交流館パレアの場所を借りてやってたので学生が命名しました)やアドリブ九州の活動につながって今に至ります。

 また、山崎塾では、大学生に欠けている「社会性」について山崎宗次塾長からずいぶんと気を配っていただきました。当時破竹の勢いだったリクルート創始者の江副浩正氏に塾生が直接お話をする機会をいただいたことや、多くのシンポジウムに聴衆として参加させていただいたことを覚えています。いくつかは山崎塾長が絡んでいる毎日新聞社のシンポジウムだったので、動員的な面もあったかもしれませんが。

 アドリブ九州でも、学生の皆さんと社会科見学を行うことにしています。
 例えば水俣病資料館や水俣胎児性水俣病患者の皆さんの授産施設に行ってお話を伺います。現地で、人に交わりながら教科書や大学のカリキュラムでは見えないことを見てもらいました。山崎塾の手法と同じです。教科書やマスコミ報道の視点から抜け落ちている情報を資料館や患者の方の言葉を補足して話したりはしますが、イデオロギー的なことは伝えません。学生の皆さんには自分の目で見て、自分の判断をしてほしいのです。

 そのような体験をしていると、いつか歳を重ねた時に新たな感想が生まれたりすることもあるものです。そんな成長が就職活動後にも続くように願っています。

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