マーケティングは愛?たぶん愛?きっと愛…?
「マーケティングは愛です」とは村田昭治慶應大学教授の有名なことば。
バブルのころやたらともてはやされていた村田教授。
深夜のテレビ番組でいろんなことを「それも愛です」とかコメントしてました。
当時現場のいちマーケターだった僕は
「なんじゃそら?」
と思いつつ酒飲みながら視てたんですが。
前の投稿で書いたように駆け出しマーケターの僕は企業内の歯車として、バンバン企画書を書き、立て続けにプレゼンし、そのプロモーションが毎月のように新聞紙上や量販店店頭でカタチになる日々。
そのころ、僕は自分をカタリスト(触媒)だと思っていました。
カタリストとは、たとえば二酸化マンガン。
小学生のころ理科の実験で使いましたよね?
過酸化水素水に放り込むと酸素がブクブク出てくる、黒いアレ。
周囲の物質を変化させるがそれ自身は変化しないもの。
毎日の仕事の中で僕は提示されたもののスペックを整理し、POSデータで販売傾向を把握し、ACRデータで生活者状況を俯瞰し、日経テレコンで近々の傾向を織り込んでキーワード化し、クリエイティブジャンプならぬプランニングジャンプをワード化して企画の方向を決めていました。
僕自身は変わらない。
だからカタリスト。プレゼンするから「語りスト」とかいうシャレじゃないです。
でもそれを繰り返しているあいだに、変わってくるわけです。
たとえば朝日フーズの充填豆腐の仕事が来たとします。
店頭へ行って競合商品の充填豆腐も含めて買ってきます。
いちど全部食べてみて、でもどこがどう優れているのかわからない。
そこで、どのような工夫があって、それがどんな味に反映しているのか、あるいはパッケージの開けやすさにつながっているのかなどをメーカーの人に聞きに行くわけです。
その上でもういちど食べてみる。
そうすると必ず発見がある。
つくった人へのリスペクトが生まれてくる。
その驚きがプランニングジャンプの鍵になってくる。
いいアウトプットにつながり、結果として朝日フーズの豆腐がよく売れるということにつながります。
小さい仕事でしたが当たるプランニングを繰り返したある日、ふと思いました。
プランナーはカタリストじゃないなと。
プランニングするほど知らないことを知っていく。
知らない人を知っていく。
いろんなモノゴトをつくる人びとへの敬意が生まれるし、それによって自分が成長=変化する。
僕は今もプランナーを続けているわけですが、年を経るごとにその思いは強くなってきています。
プランニングする、あるいは文章を書く場合に、作り手からサンプル提供を受ける場合があります。
その場合は同等の金額を払ってその作り手の別の商品を買わせていただく。
基本的にはサンプルであっても自分で購入します。
対価の負担感と品物やサービスを手に入れたときの満足感を、自分の頭と心でまず感じたいからです。
そのうえで両天秤の感覚を、他の人びとがどう感じるのかを検証していく。
マーケット環境の数値把握はもちろん行いますが、出発点はまずここ。
とくに職人さんのしごとはまず自分がきちんと買わせていただく。
職人さんしごとへの敬意をベースにしたいと思うからです。
敬意はその場限りの美辞では不十分。
とくに今の時勢なら、まず自分が購入すること。
それでないと他人に勧めるようなことはできないですよね。
家とかクルマとか、そうそう買えないものの仕事の場合は、これまでの仕事の数々をベースに作り手への想像力を膨らますことになります。
プランニングの仕事を続けてきて、いま思うのは、
マーケティングは愛というよりも、作り手をはじめとして売り手・買い手、そして多くの市場を構成する同朋への敬意、そこから始まるのではないかと。
ちなみにマーケティングの原義的な説明は「企業など製品やサービスの提供者と市場をつなぐ諸活動」ですが、「企業など製品やサービスの提供者にとっての市場の創造」という言い方のほうがわかりやすいです。
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