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庭園に名前をつけた。その名も観古園

旧西原邸(古材の森)には庭園がある。建築当初からあった庭園ではあるが、2006年に改修され、それまでなかったモミジやサツキなどを入れて新たに作庭された庭である。しかし、常時手入れするわけでもなかったので、見応えのある庭ではなかったと思う。2013年には、杉苔や石臼を配置したが、それでも日々の管理という点ではできていなかったのが現状であった。

しかし、2017年頃から、唐津街道ツアーを行う際の見せ場という観点から、庭園の手入れをするようになり、それまで、1株だけであったアジサイを接ぎ木して増やすなど、自分たちでできる範囲で作庭するようになった。そうしていくうちに、4月の新緑から梅雨の小雨の時期が最も綺麗だという事もだんだん分かってきた。

特に2020年のコロナ休業期間には、アジサイに加え、ホトトギス、ユキノシタ、ホタルブクロ、トクサなどの山野草を中心に植え付けを行い、日々のメンテナンスも日課となってきた。

昨年、大土間には老松座という名前を付けた。そこで、庭園にも名前を付けようと考え、古を観る庭ということで「観古園」という名前にした。

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観古の名前の由来は、江戸から明治にかけて博物館の開設に尽力した、好古家である蜷川式胤が著した「観古図説」からとった。

『観古図説陶器之部』の冒頭に、「昨日は今日の旧となり、今日の奇は明日の陳となり、学術日に精しく、工業月に巧みなる、此盛世の勢いあたかも流水の滾々として止まざるが如し。ここを以て世人ややもすれば徒に新奇を愛し、旧陳を憎むの弊を免かれず、大にしては国家の治蹟より、小にしては一物一品の徴拠となるべき稀物をも総て廃棄して之を顧念せざるに至るは時勢の自然とはいえども、到底思惟の軽操、意匠の朝劣なればなり。今や新奇の精を研ぐべきは言をまたずといえども、旧陳もまた保存することを忽せにすべからず。如何となれば彼の文明を見て、以て此野蛮を知り、古を稽て今を暁るは治世の急務にして、その因縁すべきものは則ち史籍なり。然れど史を看て其時を稽ふるの迂なるよりは、実物を観て確証を采るに如かじ」

(訳)昨日に新しかったものでも今日にはもう古いものになってしまう。今日めずらしいものも、明日にはありきたりのものになるだろう。学問と技術は日進月歩して、ますます精巧になる。このような世の中の趨勢は、とどまるところを知らない。これがために、世の人たちが新しく珍しいものをむやみに愛でるあまり、古いものを嫌う不孝な趨勢は避けられない。そこで、国家の過去の国家統治のよすがとなるものから、ささやかな事物の証となる希少な品物に至るまで、古いものはすべてが打ち捨てられ顧みられなくなる。これは、時の勢いからやむおえない事だとはいえ、まったく考えが軽はずみで、工夫が浅はかな事から起こるのである。今、新奇なものをつまびらかにすることが求められるのはいうまでもないが、それと同じように旧陳なるものを大切にとっておくこともおろそかにすべきではない。なぜなら、かの進んだ文明と見比べてこちらの遅れを知り、古と比べて今を悟ることは、どちらも世を治めるために速やかに行うべき務めであるからだ。

旧西原邸という築120年の建物を企業として保存しているが、「古」があるから「今」が意味を持ち、「今」があってこそ際立った「古」の価値が見いだせる。この建物を保存することは、単に古民家レストランを行っているのでは決してなく、日本文化でもある建物を次の世代へ引き継ぐという重要な使命を帯びている事を常に念頭に掲げている。※「解体の精神を見る」に精しく記載

観古

2021年5月、古を観る事、すなわち未来を観る事という想いを込めて「観古園」の名をつけた事をここに記す。

参考文献「好古家たちの19世紀」鈴木廣之2003



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