『分身』についての解説文
八才の頃から着ていたシャツ、捨てられずずっと手元においていた。これはお母さんに買ってもらった服の中で (もしかしたら誰かのおさがりかもしれないが)、唯一気に入って着ていた服だった。さすがにもう小さくて腕すら通せないが、引越しするたびに捨てようか迷い、なぜかこれだけどうしても捨てられなかった。私自身、子供の頃のことをもうほとんど思い出せなくなってしまったから、この服という「物」が子供時代の私の唯一の物証とも言えた。
押し入れからひっぱりだすたびに、服の生地は変色し、柄は褪せ、いつか自分が子供だった時間も柄の色と一緒に消えてしまうような気がした。
ある日、ふと思いたって、シャツの薄くなった柄の上から同じ色の糸で刺繍をした。
刺繍をしていたら、急に「時間」という目に見えないものが物体となって目の前に現れ始めた。そして、自分が子供の形をしていた頃のこと、家族で穏やかに家の中で過ごしていた日が、確かにそこにあったことに気がついた。
冬のヒーターで温められた実家の居間、結露して曇ったガラス戸、本当に目の前に昔の家族がそこにいるようだった。何事もなく過ごせた一日の夜は、布団の中で「また明日も、こんな良い日になりますように」と、いつも手を合わせていたことを思い出した。ただ家族が誰も声を荒げず安心して過ごせた日、あの頃の私はそんな小さなことを一番大事にして小さな世界で生きていた。
今も心の奥底にいる子供の私は、そんな時間をまだ夢見ていることに気がついた。もう叶わないことも知らずに、時間が止まってそのままなのだ。
でも、刺繍をしている間は、そんな”いい日”がずっと私の目の前に立ち現れていた。そんな思いで制作した数点を、今回展示しました。
10/27まで!都立大学noie extentにて
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