宗教者としてやってます

今日は金沢にある、社会福祉法人佛子園の取材に同行させてもらった。ここは行善寺というお寺が母体になって築きあげられていった。今では、ごちゃまぜをテーマに、金沢にある町みたいな社会福祉法人の一群をつくったりと、社会福祉法人という枠組みでは語りきれない事業・活動を展開している。

その佛子園の理事長であり、お寺の住職でもある雄谷氏にお話を伺った。お寺や仏教の意義、それを伝える方策について教えてもらい、考えさせられるお話ばかりだったが、特に印象的だったのが、「こんなにあれこれと様々な事業に携わっていたら、お寺は誰かに譲ろうとか思われたことはないんですか?」という質問に対して、「私はあくまでも宗教者です。すべて、宗教者としてやっています。宗教者、それが私の本分です。」というようなことを仰っていた(だいぶ、僕の脚色が入っている気もするけど)。

その話を聞きながら、学生の頃に、タイのエンゲイジド・ブッディズムの中心人物で、エイズやホスピスの社会的な活動に携わるお坊さんの話を思い出した。ちょうど、その頃、僕はお坊さんとして何をすべきかを悩んでいた。そのタイのお坊さんに、「なんで、そんな社会的な活動に関わるんですか?」と聞いたところ、どこか不思議そうな顔をされて、「仏教者だからだよ」と言われた。なんで、仏教者だから関わるのか?その根拠はどの教えや経典の言葉を柱にしているのかな?ど詳しく聞きたかったけど、そんな質問はなんか愚問に思え、納得したふりをした。

僕が仏教者としていかに生きるつもりなのか、生きたいのか。経典や先哲の言葉にモチベーションの源泉を求めるのではなくて、おまえは仏教をいかに味わい、どんなお坊さんになりたいんだ。

タイでの出来事や、憧れるお坊さんと語らうたびに、結局は、そこが問われているように思える。

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