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「社会」っていうのは人間の集まりのこと

ソーシャルデザインを考える。昨日はデザインについて少し考えた。最後は、ソーシャルアードデザインだ、なんて思いつきでしめてしまったが、まぁ、なかなか悪くない。改めて考えてみると、たぶん最後に言いたかったのは、ミクロ的な視点(アート/表現、主体性)とマクロ的な視点(デザイン/課題解決、客観性)があるんじゃないかってこと、だと思う。思いつきだから、アートやデザインの使い方が正しいか云々は横におかせてもらう。

そう思うと、社会の見方も同じだな、と。ソーシャルを日本語訳すると「社会的な」って出てくるけど、どうせニュアンスが違う気はする。このソーシャルの語源とかも調べてみたい。

今日は、とりあえず「社会」を考えてみる。社会って、よくよく考えると、よくわかんない言葉。

とりあえず、広辞苑。

【社会】とは:人間が集まって共同生活を営む際に、人々の関係の総体が一つの輪郭をもって現れる場合の、その集団。諸集団の総和からなる包括的複合体をもいう。自然的に発生したものと、利害・目的などに基づいて人為的に作られたものとがある。家族・村落・ギルド・教会・会社・政党・階級・国家などが主要な形態。(出典:『広辞苑』,第六版)

「社会」っていうのは人間の集まりのこと、といえそう。家族から国家まである。

それじゃ、この人間の集まりに変化を及ぼうとすると、やっぱり2つのやり方があるんだろうな。構造・仕組み・システムの面と、構成員・ヒューマンの面。

ソーシャルデザインやソーシャルイノベーションというのは、まさに、この構造的な面、仕組みへのアプローチだろう。時代の流れは、まさにこれだな。

ソーシャルデザインとは「社会的な課題の解決と同時に新たな価値を創出する画期的なしくみをつくること」(greenz)
〈ソーシャルイノベーション〉を、「よりよい社会のために、新しい仕組みを生み出し、変化を引き起こす、そのアイデアと実践」と定義します。(日本財団)

また一方で、社会が人間の集まりであるならば、人間一人ひとりがその社会を形成している。ならば、その社会に変化をうながすならば、人の価値観や意識を変えるのも一つの手法であろう。教育や倫理観なアプローチになるのかな。

だけど、真正面から人の価値観を変えるって、めっちゃ時間かかる。もう出来あがってしまった価値観や凝り固まった考えに揺らしをかけるには、そうとう大きなインパクトが必要だろう。幼いときからそのような意識を植えつけるのなら未来は少し変わるのかもしれないが、公教育を変えるのは無理だろうな、と思う。だけど、公教育って国家のための人材養成だと僕は思ってるから、国家をあげて利害関係を全て無くして、経済優先より精神的な豊かさ、社会課題の解決、地球を守るんだ、とはならないだろう、実際。

だからなのか知らないけど、現代はソーシャルデザイン、ソーシャルイノベーションといわれる仕組みづくりが盛ん。SDGsとか。早くしないと地球がもたないんだろうな。

最近よく耳にするのは、ほぼ全員がコミットしている経済活動をつかいながら、社会課題の解決につながる事業、あるいは、社会課題を生まない動きが注目されているんだろう。フェアトレードとかエシカルファッションとか。

うーん、あまり考えはまとまらないが、今日、めっちゃ良いなーと思うnoteの記事をみつけた。京都・大山崎のコーヒー豆屋さん。一度しかお会いしたことないけど、めっちゃ印象に残ってる頭のキレる、あついお兄ちゃんだった。かっこよかった。見た目もだけど、なんか生き方が。

そう、いま僕はこういうことを考えたいんだ、と気づいた、この記事を呼んで。文章にするほどまとまった考えをもっていないが、毎日ちょっとずつ考えてたら、自分らしい理想の在りようが見えてくるかもしれないと、自分に期待しておく。

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