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【武豊と馬を語る…。】スーパークリークと武豊。「この馬以外に乗らない」宣言は天才を天才にした……。

今回語るのは武豊とスーパークリークだ。武豊が名を轟かせ、伝説の始まりとなった馬こそスーパークリークである。武はデビュー年にオグリローマンで京都大賞典を勝つと、その後も快進撃を続け、加賀武見の新人最多勝記録を抜いて、新人賞を受賞した。これだけでも競馬界に現れたスターなわけであるが、武の快進撃は翌年も続いた。
デビュー二年目の1988年、武は一頭の駿馬と出会った。その名は「スーパークリーク」。武がその馬にまたがったのは、阪神芝2200mのオープン特別すみれ賞の時であった。スーパークリークはこのレースでの期待も高かったが、不安も充分にあった。スーパークリークはその時、生まれつき右前脚が外向している影響もあり、不安を抱えたままレースに臨んだ。スーパークリークはレースに行き、脚元をケアしながら走った。そして直線で軽く仕掛けると……、直線だけで前の馬をぶっこ抜いてしまった。「なんなんだ、この馬は……。」クリークが繰り出した末脚には他の馬で味わったことのない「凄味」があった。武は全身がゾクゾクする感覚を味わったという。そして武は調教師にレース後こう答えた。「この馬でダービー行きましょう!」
このレースのタイムは平凡で、強敵とは言い難い相手に半馬身差つけただけであった。だがこの一戦で武は数字には表れないスーパークリークの強さを体感した。そんなダービーを予感させる馬であった。だがスーパークリークは怪我をしてしまい、春シーズンを休養に充てることとなった。
その後の復帰戦でも、神戸新聞杯は3着、京都新聞杯は6着で終わってしまう。小さな綻びはスーパークリークを狂わせてしまったのだろうか。菊花賞の優先出走権も得られなかった。武はダート4連勝のケイコバン、きさらぎ賞を勝ったマイネルフリッセなどで菊花賞に出ることも出来たが武はスーパークリークにこだわった。
「スーパークリーク以外の馬に乗るつもりはありません。」そう言い切り、絶対に勝負になるという確信を持って菊花賞に臨んだ。
しかしスーパークリークは賞金ラインにわずかに足りておらず、18頭出走出来るうちの19番目であった。このままでは出走出来ない……。そんなスーパークリークの窮地を救ったのはマイネル軍団の総帥・岡田繁幸であった。武豊とスーパークリークの素質を高く評価した岡田は自らの馬マイネルフリッセの出走を取り消し、スーパークリークを出走させることにしたのだ。
そしてスーパークリークは菊花賞に出走することが出来たのであった。晴れ渡る快晴のもと行われる菊花賞で武は岡田に答える騎乗をするのあった。
天才の騎乗。それはこのシーンにある。以前乗ったことのあるカツトクシンに前を塞がれる格好となったが、彼は沈着冷静であった。カツトクシンが外に膨れるくせを覚えていたからだ。「このままでいい。必ず前が空く。」そしてスーパークリークは末脚を発揮して、菊花賞を制覇したのであった。
この日、スーパークリークは天才を天才にしたのであった。
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